「えぇ、嫌いです」「なんて言うか胡散臭い」「意味不明」
スピリチュアルはなんとも嫌われる対象ではないかと思います。
非科学的で夢見心地、それでいて肯定感+自信満々という、嫌われる要因満載。
そして、「スピリチュアルが嫌い、はん、別にいいんじゃない、別の世界の人だし」という捨て台詞。
それはまるで、「私とあなたは違うのよ」という自己優越感に自己陶酔に自己満足。
これを好きになるほうが難しい。
ここでは、好きでも嫌いでもどちらでもない、というかどっちでもいいという立場の意見から、どうしてスピリチュアルが嫌いで苦手なのかの理由をお伝えします。
理由を明確にすることで、スピリチュアルが嫌いではなく、ある特定の人達が嫌いであることに気づくことになりますので、「もしかしてスピリチュアルって思ってたのと違う?」と認識を広げる一助となれば幸いです。
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スピリチュアルが嫌い

スピリチュアルが嫌いな理由
そもそもスピリチュアルって何でしょうか?
「わけわかんない」「意味不明なのに自信満々がさらに謎」「幸せ幸せ連呼してカルトみたい」「非科学的で信用ならない」「根拠がないのに堂々としている様がちょっと」
このように、わからないからこそ嫌いという理由もあるかもしれません。
そんな嫌いになる理由がいくつかありますので、順番に見ていきましょう。
意味不明過ぎるから苦手
スピリチュアルな話をする際、理論も過程も何もない、質問から答えという極端なことが起きたりします。
スピリチュアル系というのでしょうか、理由とか意味の解釈が不要な人は、質問→答えという0か1状態です。
その様は理解したくてもできません。
「この世は愛なんですよ、それが答えです」「あぁ、なるほど」と聞く人がいると、「は?なるほどの使い方!」とツッコむところです。
ですが実際にツッコむと、「は?何?」となるので、それはボケではない真剣なボケでしたという。
突然答えになる場合、「この世の真理とはあなたが光を見ることです」「おぉ、メモですな」と過程や理由がありません。
「幸せになるから」「そういうもの」という理由にならない理由。
過程や理由がなければ意味を理解するのが困難です。
答えは答えで決まっていていいのですが、それを自分なりに理解するためにはその答えを出した理由や意味や考え方を知る必要がありますが、それがない。
理解したくてもできないために、意味が不明過ぎて苦手になり得ます。
バックアップへの過信
“信じる”という言葉が好きな人に違和感を覚えるかもしれません。
意味がないと物事の解釈は信じるという方法になります。そうすると自分の意見がなくなります。
その状態で他者に伝えることはできません。が、同じように信じることが好きな人は継承していき、その枠を抜けられないと変化を求めない状態になりかねません。
変化を求めなくさせるほどの信用とはとても大きな力ですが、そこにはスピリチュアルな崇高で絶対的な存在があります。
「これを信じていれば何でもOK」という在り方をする過信がある場合、スピリチュアルが嫌われる理由になります。
「これだけあれば私達はもう安心だ」「みんな一つに繋がっているんだから」と中身なく言われれば意味も分からない上に、ゾゾゾと怖くなります。
“絶対的な信頼のある存在を信じる”場合には、過信が作られて恐怖を周囲に与えます。
理解のない自信はあきらかな違和感を与える
絶対的な信用の基に行動と思考をすると、同じことしかできなくなる可能性があります。
しかし、絶対的なので自信満々で堂々とします。
何も引っ掛かりなく堂々としているところにスピリチュアル系の特徴があります。
一人でも自信を持って生きられる力となり、他者と関わる際にスピリチュアルな話しかしなくなります。
どんな話も全てスピリチュアル的に解釈して、スピリチュアル的に言語化します。
これはあきらかな違和感として、自信はあるけど自分がない表現となります。
「スピリチュアル以外の理解や解釈はできないの?」となっても、「いえ、あの世から転生して光により創造された私達は愛を基に生きているので、ちゃんちゃんちゃん」と理解が一辺倒になりかねません。
スピリチュアルを押し付ける
決定的なスピリチュアルが嫌いで苦手になる理由は、価値観の押し付けが考えられます。
スピリチュアルの絶対的な信頼は価値観ではありませんが、事実になっちゃいます。
中身のない事実、解釈の要らないことが真実、そこにあることが真理。とった過程や意味や理由のない答えを正当化します。
すると、正当化を強めるために他者に押し付けます。
「それは本当にあなたの心の意見?」「魂からそう思っているの?」「魂に聞いてごらんなさい」「そう、あなたは知っている、この世の愛は全てあなたから始まっている」という、中身のない100%正当思い込み意見としての発言、言動、思考。
他者を利用する
嫌われるための行為として、スピリチュアルを嫌いになってもらう、または自分のことを嫌いになってもらおうとする心理もあります。
嫌われることで、「あぁ、この人はまだ私の段階には来ていない」と思うことができるからです。
自分を正当化するためにスピリチュアルを利用する人は、スピリチュアルを嫌いになる人が自分のためになります。
全てを自分主観ではなく”スピリチュアルという世界主観”にすることで、自分の責任がなくなります。
すると、周囲から責められても自分ではないと思え、自分との差を見出せ、取り込めれば自分の功績だと思え、自分の正当化の思い込みを激しくしていきます。
利用です。
※スピリチュアルの怪しさは、【胡散臭さの謎解き】スピリチュアルは怪しいと思っていい をどうぞ。
スピリチュアルが嫌いになる理由一覧
スピリチュアルが嫌いになる理由を一覧にします。
- 理論や過程がないことを正当化するので理解困難
- 正当化しながらも理由や意味がないので意味が不明過ぎる
- 信じなければいけないので、のめり込まなければならない無言の強要がある
- 変化しないことを正当化することへの嫌悪
- 空虚の自信を堂々と持つことへの奇妙さ
- 押し付けていないつもりで押し付ける有り様への不信
- 押し付けも正当化も全て自分の安泰を求める行為でありながら、それを認めない有り様への謎
- 自分がないのにあるように信じ込む振舞いへの違和感
- 自己価値創出、独自性や特別な存在だと思うための他者利用
スピリチュアルが好きだろうと嫌いだろうと人それぞれですが、これまでの内容はスピリチュアルが好きな人ではありません。
スピリチュアルを自分の存在価値や存在意義のために利用している光景は、宗教にはまる状態と同じようになります。
それは、本来のスピリチュアルの概念や理解を大きく逸脱して、スピリチュアルへの見方にフィルターをかけてしまう逆効果を世間に広めます。
実際にはスピリチュアルの世界が好きということではなく、思い込みをする方法を手に入れ、安泰を手に入れる方法としてスピリチュアルを利用している人かもしれません。
スピリチュアルを嫌いで苦手にさせる人
スピリチュアルが嫌いだとしても、漫画やアニメや映画などの人気作品は高頻度でスピリチュアルな話だったりします。
そこには抵抗がないのにスピリチュアルが嫌いな場合には、これまでの内容から、スピリチュアルが嫌いで苦手だと思う明確な理由が見出されます。
それは、スピリチュアルを利用して安泰を求める人の在り方が嫌いで苦手。
スピリチュアルではなく、人や在り方に引っかかるのかもしれません。
心理からの見方と特徴がありますので、スピリチュアルが嫌いにさせる人の特徴をご覧ください。
- 価値観を自分の責任を持たずに押し付ける
- 空虚の自信を持ち、核のない自分を堂々と見せる
- 自分を持ち上げるために人と自分の差を作る
- 他者との仲間意識はなく、同じ目的を持つ人だけ認める
- 価値観を押し付けることで目の前の人を否定しているが、自覚がない
- 自分が理解する必要はないと思い込み、他者が理解するものだと思っている
- 否定されても賛同されてもどちらでも逃げ道があるので人の意見はどうでもいい
- 自分がないのにあるように振舞う
- 見栄とプライドが強く、自己防衛意識が強い
- まるでこの世を理解しているような演技をする
- スピリチュアルに繋がる行動と思考しかしない
自分が完全にない人です。
しかし、絶対的な信頼を糧にする状態に自分を入れ込めることで、自分がないと考える必要がなくなります。
その際には、”本当の自分”というスピリチュアル的にレベルの高いと思われている目覚めや覚醒を目指すことで、神聖な探求者のようなキャラクターを手に入れます。
すると、空虚の自信は堂々とした張りぼてとなり、安泰を手に入れるゾーンに身を置きながら他者との関わりができます。
言い方を変えると、身を隠しておきながら堂々とできる=不安や恐怖への危険性がなく、自信を持って生きられる状態を手に入れます。
スピリチュアルが嫌いだと思うのはこのような人の影響が強いと思います。
このような人が布教活動のようにスピリチュアルな話をすると、スピリチュアルを好むことなどありません。
そこで興味を示すのは、同じような状態を手に入れることを望む人です。
自分の意見がある人は好きになることができません、理解が難し過ぎます。
※信じる人と信じない人の心理は、スピリチュアルを信じる人と信じない人の心理│信じるようになった体験談 をご覧ください。
スピリチュアルとは
スピリチュアルとは?
スピリチュアルという言葉は、魂的、霊的、精神的、神、聖霊などを意味します。
既におわかりのように、「どれ?」という感じです。
どれも違うことを言っていますので、スピリチュアルの定義はとても曖昧なものです。上記にさらに辞書の内容を含めると、”宗教的”、”教会のこと”などまだまだ加わります。
私の解釈では、スピリチュアルとは意識状態や次元状態を含めた人間の真理だと思います。
言い方を変えると、“自分を理解するための材料”です。
自分を知るための認識として、魂や霊、エネルギーやオーラ、意識や次元を含めて理解を育みます。
そして、全てには意味と理由があり、それを紐解くことで”哲学”になります。
そのために、スピリチュアルが好きな人は哲学や心理が好きな人が多いかもしれません。
表面ではなく内面や物事の深層を見る世界として、より深く理解するためには表面上だけでは限界が狭いために、見えない認識や感じる概念を含めていきます。
スピリチュアルで共通しているポイント
哲学として自分を理解する際には自然とスピリチュアルの概念が含まれます。
そのため、哲学者の思想には科学やスピリチュアルや心理や宇宙などのあらゆる認識が含まれます。
哲学は統括的な思想なので、脳も心も含めた理解をします。そのため、哲学では人間の理解が育まれます。
そこに、スピリチュアルだけを認識することと、スピリチュアルは認識の一つであることの違いがあります。
- 哲学とは・・・スピリチュアルも科学も心理も全てを含めた“人間の理解”
- スピリチュアルとは・・・見えない概念も含めた“自分の理解”
スピリチュアルは自分を理解するためのものです。なぜならば、見えない概念を理解するには必ず実体験が必要だからです。
魂や霊や聖霊などの見えない概念は”感じる”ことで認識するので、”自分”にしか理解できません。
波動やエネルギーやオーラに関しても、見るのも感じるのも自分です。その自分とは肉体があり、脳があり、心がありという自分なので、ここには既に科学や心理や哲学が含まれます。
そのため、スピリチュアルにも科学や心理や哲学が含まれており、どの視点から物事を見るかによって、活用の仕方やスピリチュアルの認識が変わります。
見方を自分にするか、人間にするか、さらに自分の脳にするか、肉体にするか、心にするか、そして自我意識にするか、魂の記憶にするか、ワンネスにするかにて、スピリチュアルの認識が変わるために、「スピリチュアルって結局なんやねん?」という理解の曖昧さが生まれます。
しかし、スピリチュアルに共通していることは”自分にとっての理解”ということです。
自分の理解であれば押し付けや干渉ができません。他者を加える視点がなく、あくまで自分の視点と焦点で感じたり認識したりの理解をします。
ですが、そこには脳と肉体がある前提の”心身”として物事を認識する土台を忘れることはできず、認識の割合は違えど必ず科学や心理や哲学の概念が加わります。
意識の話は科学もスピリチュアルも同じ
自分にしかわからない理解がスピリチュアルですが、そこには全員共通のこともあります。
意識です。
意識に関しては魂や霊などと区分けをするものではなく、全てに共通する認識があります。
それは脳の記憶が顕在意識や潜在意識に行くことと同じで、脳科学や物理学や量子力学や幾何学や天文学などさまざまな知見が加わることで総合理解するものです。
そのため、スピリチュアルと宇宙が同じなのかどうかという話や、脳の記憶と心の記憶が同じか、脳の記憶はどこに行くのか、潜在意識はどのように認識されているのか、というように同じではないけど別でもない認識になります。
言い方を変えると、「元々別ではないけど、今は別々に認識していますよ」という認識方法の違いでして、500年前の食事と今の食事への認識が違うことと同じようなものです。
どこに視点をおいて、どのように物事や行動や思考を認識するのかによってスピリチュアルの認識が自分だけのものか、全体的なものかが変わります。
- 意識(自我意識、顕在意識、潜在意識、超意識などの記憶概念)に関しては、スピリチュアルも科学もない、全てを含めた認識での理解。
- 自分の認識や感じるものに関しては自分にしかわからないもので、スピリチュアルを土台にして、科学や心理や哲学を含めた理解になる。
スピリチュアルだけで認識できるものは”自分が感じる認識”です。
それ以外は脳や肉体が加わるために、物理現象としての理解や、量子としての粒子や波動の理解となり、科学などの別の認識も必要になります。
さまざまなものが入り交ざるとわかりにくくなりますが、自分のみを主体にした理解がスピリチュアル。
押し付けや干渉をすることはスピリチュアルな世界には存在しません。
「それはそれ」「あれはあれ」「スピリチュアルはスピリチュアル」「他は他」「それもいい、あれもいい、これもいい」という具合です。
※スピリチュアルにある洗脳とおかしいと思う話は、洗脳的においがするスピリチュアル|おかしいけどおかしくない理由 をご覧ください。

スピリチュアルが嫌い まとめ
以上が、スピリチュアルが嫌いな理由の話と、スピリチュアルとは何かについての話でした。
スピリチュアルを押し付ける場合、それはスピリチュアルではありません。
見えない以上、感じるのが自分にしかできない以上、「こういうものだ」というのは全て決め付けになります。
科学などの証明が加わると、「これが正しい、間違っている」という認識をします。その際には押し付けられても違和感がないかもしれませんが、「これは私が証明したんだ」という自分の正当化を押し付ける場合には、その人を嫌いになると思います。
それと同じで、スピリチュアルには正しいも間違っているも自分にしかわからない話なので、押し付ける場合には自分の正当化を押し付ける意味となり、当然の如く嫌いになります。
ですが、それがスピリチュアルなのか、その人なのかをぜひ確認してみてください。
スピリチュアルな世界は見えない概念を含めるので認識が一気に広がります。それを利用ではなく自分のために活用することで、とても楽しく不思議な世界が広がります。
それは夢の世界のようにもなりますが、自分で体感して認識することで、自分にとっては現実であることに間違いがないので、単純に世界の見方を広げるものとなります。
スピリチュアルを好きになろうが嫌いになろうが、人それぞれの自由なので何でもいいと思いますが、自分のみを主観にした話であることを知ってもらえれば、自分のために、遊びのために活用できるかもしれません。
ですが実体験が必ず必要になりますので、それが起きた時に、「ちょっとスピリチュアルかじってみようかな」という具合が丁度良い感じではないかと思います。
そんなスピリチュアルな理解が広がることを願い、スピリチュアルが嫌いな話を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
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