早かれ遅かれやってくる自然な摂理だと思うほど、私達人間は飽き続けます。
ですが、飽きることに意味があり、飽きないことを作れるのが人間です。
何もかもに飽きた時はここで一休み。飽きたことに潜む真意を見ていかれてください。
飽きた、そりゃ飽きる。
飽きない、なぜ?
そんな理解を深めるためにも、何もかもに飽きることが非常に大切だと、私の経験からは理解しています。
何もかもに飽きた時、経験したからこそわかることがあり、改善の道が明確に表れます。
そんな話をお伝えします。
気楽になる内容であれば幸いですので、テキトーに本気でマジマジとご覧ください。
Contents
何もかも飽きた

何もかもに飽きるとは
飽きることでつまらなくなる人もいれば、興味が湧かずボーッとする人もいれば、落胆で沈む人もいれば、哲学や精神世界へ向かい人もいれば…。
飽きることでの様子は人それぞれかと思いますが、共通しているのはポジティブではない状態があります。
ネガティブではない人もいますが、それは陰も陽も、善も悪も、判断や評価することにも飽きることで、感情の起伏や気持ちの上下変動がなくスーと真ん中フラット。
この状態は悟りとも言うらしいので、ここではポジティブではない状態になる飽きを主体にしたいと思います。
飽きることには、喪失感や落胆、空虚感に虚無、興味がなく喜びがない、満たしも納得もないことでの“空っぽな何か”があります。
その空っぽに思考や感情を人それぞれに入れて、「つまらない」「何にもしたくない」「( ゚ ρ ゚ )ボー」
飽きることには、喜びがない+“空っぽな何か”があります。
空っぽな何か?
意志です。
意志とは喜びを自ら作る動機、「喜ぼう」という気持ち、欲を駆り立てる動力です。
何もかもに飽きるとは、飽きる基盤である自分の意志がなくなり、喜びを作ろうとしなくなることで起きます。
何もかもに飽きた経験
少しばかし私事からの理解があります。
飽きるための過程が蓄積されていく中で、噴火するように何もかもに飽きた時、それは高校生の時でした。人生どうでもいい、ボーっという喪失になりました。
自分の思い通りにならず、他との比較が強く劣等感を強め、環境のせいにして行動しない。
飽きた時にすることは、物事の陰側をじっくり観察、陽側は無視という具合の日々でした。
まるで自分の認識を挟まないように第三者目線、自分が居ないかのような物事の見方を作り、食事にも何にも興味が湧かず、ガムだけ食べる日々は、埼玉県立死んだ魚の目高校に行っていました。
追いたかった夢を追いかけられず、やりたいようにできず、授業は窓から外を見るたそがれ時。
学校に行くことも減っていき、家に帰ることもなくなっていき、バイトばかり。しかしバイト代は高校の授業料以外に使う目的がなく、溜まっていくだけで嬉しくもなく、それに悲しくもない。
転機は強引に訪れました。
進学して都内で一人暮らし、深夜バイトから直接学校で授業を受ける日々、一度でも遅刻・欠席をしては就職できない環境となることで、飽きてる暇がなくなりました。
ここで気付いたのは、飽きは余裕から来るということでした。
何もかもに飽きた経験からわかったのは、何に対しても自分の喜びがなければ直ぐに飽きること、その基盤には生活的余裕や精神的余裕など、生きる上での危機がない前提が必要ということです。
このことを知った時、何もかもに飽きている自分を作って維持していることに気付きます。
飽きるとは、生きる上での余裕がある前提で、喜びがないことで作る自らの状態です。
何もかもに飽きた状態に飽きるかどうかを観察すると見えるものが、ここで伝えたい主旨です。
自分に飽きる、人に飽きる
もう少し、飽きることについて掘り下げたいと思います。
何もかもに飽きる際、自分や他者といった“人”に飽きることが含まれると思います。
人間関係や、同じ人と関わり続けることに飽き、仕舞には自分にも飽きちゃいます。
人間は自分の利益として満足や納得のために生きているので、喜びがなければフォーカスする理由も目的もなくなり、飽きることは自然です。
趣味や仕事だけでなく、人との関係や人自体、どんな飽きでも共通することは“喜びがない”ことです。
自分として生まれた時は新鮮で知らないことだらけです。
「こういうことに私は喜んで、こういうことをしたら笑うんだ、怒るんだ、泣くんだ」と理解することには楽しみがあるので、小さな頃は日々が楽しくてしょうがありません。
ですがある程度自分を知り、それ以上探求や分析をしなくなると喜ぶきっかけがないので、飽きちゃう。
すると、自分以外の他から刺激を貰ったり、喜ばせてもらう行為へ向かいます。ガム必須と。
しかし、関わる人から喜びをもらえず、同じギャグばっかされてもつまらない、人を変えて変えて、物を変えて変えて、全部つまらないと飽きちゃう。
関わる人や環境、他からの物や刺激を変え続けることで、与えられる喜びはさまざまになり、飽きることはありません。
ですが人に飽きる場合、他者から喜びを貰うこと自体に飽きている可能性があります。
それは、自分を知ることをやめたと同時に、他者との関わりでの自分を知る、または他者を知ることをやめた可能性です。
人に飽きるとは、自分や他者を知ることをやめた状態を作っていると考えられます。
あくまで自分で飽きている状態を作っていることに、何もかもに飽きることの真意が潜みます。
※どうでもいいと飽きることの詳細は、人生どうでもいいと思った時の対処法│それは大切な合図だった をご覧ください。

何もかもに飽きたらわかること
何もかもに飽きた時、あることが判明します。
仕事にも飽き、人にも飽き、恋愛にも飽き、自分にも飽き、そして人生にも飽きます。
すると、良いも悪いも評価することに飽き、知覚して認知して認識することにも飽き、感覚や感情や気持ちの体感感受にも飽きます。
「もう亀ばっか観てるの飽きたっ、どういう気持ちで観たらいいのっ、ねぇ?」と。
そこには明確な空虚、空っぽの何かとして意志の空欄があり、まるで心に穴が開いているようにスースーするかもしれません。
しかし、そんなこともどうでもいいです。
ここで何もかもに飽きた自分に対して、一つ質問をしてみるとあることがわかります。
「飽きている状態に飽きない?」
道が二つに分かれます。
- 飽きている状態に飽きない
- 飽きている状態に飽きる
飽きているかいないか。
どっちでもいいと思いますが共通しているのは、自分で喜びを作ることをやめています。
何もかもに飽きた時にわかることは、自分で喜びを作ることをやめている。
さらに、それぞれのタイプにてわかることがあるので掘り下げです。
飽きている状態に飽きない場合にわかること
タイプの一つ、飽きている状態に飽きない場合、何もかもに飽きたことに何かしら自分にとっての喜び、それは満足や納得があります。
現状に満足や納得があるので飽きず、状態を維持しようとします。
すると、変化を拒み、成長を求めず、喜びを作らず、苦痛から逃れます。この状態を得ることに納得があり、ネガティブにならずに済むという利益を得られます。
人それぞれに喜びがあるので、これがいけないなんてことはありません。
この状態を自覚することで、何もかもに飽きたことの意味として、「飽きることも悪くない」
人生色々ってことがわかります。
ですが、飽きている状態に飽きる場合、わかることが大きく変わります。
飽きている状態に飽きる場合にわかること
このタイプの場合、自分で喜びを作らないことに飽きる真意があります。
現状の環境、自分、認識、全てに喜びを自ら作る意志がないことを無意識に自覚しており、喪失・落胆・空虚・興味がない・つまらないとなる。
- 自分で何とかしたいけどできない
- 自覚はあるけど変化をもたらせない
- 行動したいけど動機がなくて動けない
- 感情も感覚もわからなくて自分がどうしたいかわからない
- 自分の意見が見当たらず、見出す気はあるけど何をしたいかがわからない
- 楽しいことがわからない、でも楽しみたい、でも気力がないからどうでもいい
- ……
自覚がどこかに無意識であるために現状に反発がある、しかし実際に反発が具現化しないのでなかったかのような気になり、真相がわからないので考えることを止める。
自分に違和感があるのに違和感の実感ができず、結局何をしたいのかわからず、考えれば考えるほどにパニックになり止める。
どうにかしたいのにできず、できないことに反発したいけどできず、どうなっているかわからず停止、「もう飽きたよ」と投げやりに…。
自己防衛の意識も含まれることで、本当に何もかもに飽きた空虚となります。
この状態、経験している人はわかると思いますが辛いです。辛いのに辛いとも思えないことに辛さがあります。
これは私の経験からわかることでしかありませんが、何もかもに飽きた時には明確に二つのことが判明します。
- 意志が強く誰よりも自分で喜びを作る認識を持っている
- その自分が綺麗に消えてしまった状態が目の前にある
この二つが同時にわかることに大きなポイントがあります。
信じて疑いのない確たる自分と、その自分が完全に今目の前に居ないという、相反する現実が同時並行で認識されます。
現実なのに現実がないという矛盾が現実として目の前にある、と少しややこしい状態が、何もかもに飽きてそれにも飽きた時に起きます。
すると、目の前のことも訳わからないので飽きてしまいます。飽きの連鎖は止まらない循環となります。
この循環の中に居る状態、自覚できません。訳わかりませんので抜けることが困難。私は完全に無理でしたが突然の転機にて、奈落に落ちることで気付けたという具合です。
そのため、何もかもに飽きた時は気楽にすることが何よりも大事です。
そんな気楽さのための改善方法を見ていきましょう。
※人生に飽きた話は、人生に飽きた時に知りたいこと│嬉しい意味をもたらす新しい人生の合図 をご覧ください。

何もかもに飽きた時の改善方法

何もかもに飽きた時に知りたいこと
飽きていることに飽きない場合は、その状態を維持しようとしますので、上述の飽きの循環とは別物です。
その際には自分にとっての喜びとして、変化せずに済む、恐怖がない、苦痛から回避できる、危険を味わわないなどの満足や納得があります。
この状態は故意に作っているので人それぞれに大切な時となり、自ら喜びを作ろうとすることで改善できます。
一方、飽きていることに飽きる場合には知りたいことや注意点が別であります。
それは、むやみに行動しない方がいいことです。
何もかもに飽きた状態で物事に取り掛かろうとすると、悪い方向へ突っ走る可能性が高いです。
私は全て悪い方を完璧に選択するという神の手を得まして、試練の如く続々と針地獄というバカタレでした。
もちろん、人それぞれに修行は必要ですのでご自身で選択をしてもらいたいのですが、綺麗に自分が居ない状態ではすること成すこと訳わからず、手を出すこと行動すること直ぐに飽きると思います。
さらに、喪失や空虚の状態では、飽きからの行動として死を選ぶ人はたくさんいます。
動けば動くほどに飽きと喪失が起きるため一旦休憩、まずはお茶でも飲みましょう。
このことから、何もかもに飽きた時、それは一つの合図になります。
何もかもに飽きた時、自分を一から知る第二の人生の始まりになる。
飽きる要因はこれからの自分の糧となり知恵となる
人それぞれに物事に飽きることには理由と原因があります。
何もかもに飽きる場合には、元々の意志の強さと他の影響による自分の喪失にて、喜びを作らない(または作れない)ことが起きます。
意志の強さ < 他の影響過多 = 喜びを作れず飽きる
意志が強くなければ他の影響に飲み込まれても、他の人や物や出来事から刺激や喜びを貰い与えられることで、いくらでも満足や納得が手に入り、飽きずに過ごせる無知の幸福です。
城に生まれて何もかもが思うまま手に入り、何か言えば現実を叶えてもらえ、いくらでも刺激を与えてもらい、ヘラヘラしていれば最高だと思う人もいれば、それによって自分を見失って飽きることに飽きない状態になる人もいます。
そして、飽きることに飽きる人もいます。意志が強い人がここに該当します。
何もかもに飽きた時は、これまでの記憶や経験は引き継がず一旦置きます。
これまでの自分が消えることはないので、記憶としてこれからの自分の糧となり知恵として活用することができます。
線引きするように“これまでの自分”、そして“これからの自分”と区分けることで何もかもに飽きることの真意として、新しい人生を始めるきっかけにすることができます。
少し大げさかもしれませんが、それだけ重要なことが何もかもに飽きる状態です。
何もかもに飽きる自分を知るために一休み
極端かもしれませんが、仏教の創始者であるインドの釈迦(ブッダ)の話がわかりやすい例になると思います。
シャカ国の王子として生まれたゴータマさん(氏名)は、幼い頃から王を引き継ぐために育てられ、常にたくさんの家来や使用人の中で干渉をされながら、与えられ、喜びを貰い、恵まれて、庶民との違いに疑問を持ちながら生活していたそうです。
そこでは、何もかもが他からの影響にて作られるため、自らの意志を喪失する環境だったのかもしれません。
ある日、ゴータマさんは全てを投げ捨てて王族の家城を出て、修行者としてさまざまな師の元を巡る新しい人生を始めました。
意志が強い人は自らが喜びを作る力を持っているので、他からの影響でどれだけ抑圧、干渉、否定、支配されても意志は消えません。
他の影響が強ければ強いほどに意志は無意識の自覚として一旦消えますが、どこかで違和感を感じるという不明確なものになります。ですが、消えずに必ずどこかにあります。
不明確な認識が相まって飽きるという状態になり、ただ単につまらない、興味がないということではなく、その真相には意志の認知、矛盾との葛藤、反発できない反発、見えない相手と戦う自分がいます。
さまざまな模様が見え隠れすることが“何もかもに飽きる”という状態であり、そこに明確にあるのは、喪失したけど確実にある意志の強さです。
今一度、自分自身を思い出すように確認し、人間性を理解することが大切です。
他の影響や現状へのあらがい、新しい行動を模索する以上に、自分を知るための時間、焦らずに気楽にすることが改善方法です。
何もかもに飽きる自分とは創造性のこと
自分を知って改善することは、飽きない状態を作るきっかけにもなります。
何もかもに飽きた時には休むことが大切ですが、それは逃げではなくあくまで休息であり治癒であり、自分を知るための時間です。
そのために大切なことは、創造性を養うことです。
自ら物事を創る力は喜びを作り、飽きない状態を作る力となります。
自分を知る、そして気楽にするためにも創造する時間にします。することは何でもいいのですが、芸術や音楽、料理や趣味など、取り掛かることに主体性を持つことが大事です。
誰かの真似ではなく、自らが何かを創ることに意味があります。全く新しいものを一から創ることは、制限も縛りもなく自由にすることとなり、他の影響は一切不要です。創造したものを見せる必要なんてありません(披露したければしてください)。
そういった創造タイムを設けて、頭や心の中を具現化するように創造することで、自分を知ることにも繋がる改善方法です。
ぜひ、お試しあれ。
何もかもに飽きる まとめ

「飽きた、どうでもいい、何でもいい」
そんなふうに何もかもに飽きた時には深呼吸。スーハーしたら、お茶をズズズに団子をパクパク。
飽きたら一旦休憩です。
ですが、いつまでも休憩するための休憩ではありません。
自分を知るための気楽な時間、焦らない自分を作るための有効的な時間にして、あくまで切り拓くための休息かつ治癒かつニューライフの準備体操。
自分を思い出すように知り、気楽さを少しでも理解したら始まります。新しい人生です。
私は転機によって強引に飽きた状態が消えました。余裕がなくなることで嫌でも飽きることができなくなりましたが、そこに改善はありませんでした。
結局、転機の数年後、全てを投げ捨てて海外へ旅をすることで新しい人生を始めることになりましたが、ここでの理解は当時は一切なく猪突猛進、壁までまっしぐらでした。
ですがさまざまな人、特に南米の人々と出会うことで自然と気楽さを理解し、自分を知る時間が育まれ、心機一転新しく人生を切る経験とすることができました。
そのため、私のように何もわからず現状打破のために旅をすることは、さらに見失いを強くしますのでおすすめしません。
この時の詳細は、自分がわからない時に読む本|ふざけた人生哲学 幸せはムニュムニュムニュ をご覧ください。
何事にも意味や理解が必ずありますので、せっかく辛い状況や、よくわからない状態を経験している時には今後のために活用してやりましょう。
実際に、何もかもに飽きた状態であれば自らの力で切り抜けることは困難ですので、ここでの内容が何かきっかけや兆しとして、少しでも役立てば何よりです。
と言いましても、飛んだ戯言かもしれませんので気楽に読まれてください。何か思い当たることや理解の一助があれば幸いです。
では、気楽に気楽に。