本当の自分

【怒らない人が見捨てる内情は全く違う】優しい人かサイコパスか、それとも…

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いつも怒らないあの人は、失敗したあの人に今日もニコニコしている。

「うんうん大丈夫だよ、自分のペースでやってね」

どうも優しい人ではなさそうです。

それでも失敗を続けたら、ある日笑顔のまま見捨てることになるからです。

「怒らない人は他人を見捨てがち」と思えます。

が、一方で似た情景でも天と地の違いがあり、同じ“怒らない人”では括れない人もいます。

言葉を明確に分ける大切さがあり、自己理解の邪魔になってしまいます。

そこで、自己理解を促進するために怒らない真意を具体的に露わにしていきます。

  • 怒らない人は本当に見捨てるのか考えたい
  • “優しい人”が見捨てる内情を知りたい

同じように怒らない、かつ、他人に興味がなさそうであっても、内情を露わにすると見出されるのは真逆の人間性。

自己理解を深めるためのご参考になれば幸いです。

Youtubeもありますのでご覧ください。

怒らない人は見捨てる

怒らない人は見捨てる

ある学校にこんな先生がいました。

「なんでお前はいっつも遅刻するんだ!それじゃあダメだぞ!」

そんな光景を横目に、トボトボと今日も遅刻してきた生徒Xはこう思います。

「お、あいつ今日も怒られてる、俺はなんで怒られないんだろう?ま、いっか」トコトコ

ある生徒には怒り、ある生徒には怒らない先生。

この結末はどうでしょうか。

怒られている生徒が遅刻しなくなったら褒め、遅刻し続けるようなら生徒Xと同じように怒らなくなる。

自分に利益がなければ見捨てることを意味します。

私たち人間は期待する、いわゆる執着する気持ちがあるから、不納得や不満足が生まれて怒りに発展していきます。

そして自己愛に従うから、不納得や不満足を受け入れずに反発したい気持ちがあり、怒りが生まれます。

見捨てるというのは見捨てていない前提があって成り立つため、見捨てる人は初めは期待していた人、「こうなって欲しい」と欲や願望があったとわかります。

見捨てる人は人に期待し、執着する前提があります。

人を見捨てるとは、脳内で「切った」と思うのではなく、実際に関係性や繋がりにあるエネルギーや気持ちをブッツリ切り必要があります。

相手に憎悪や怨恨などの強い動機を要し、そこには強い執着と自己愛が必須です。

これに該当するのがサイコパス、と思いきや違います。

 

ある種の怒らず見捨てる人:サイコパス、ダークエンパス傾向

なんでも
なんでも

サイコパスは自分のために他者を利用する傾向があります。
※一部ですが

しかし、自他の線引きが明確で共感しないため、期待や執着は相手に対してではなく自分に対してが主体です。

自分に期待し、自分に執着し、他者を利用(使用)する状態。

他人に興味がない人であり、それを自覚している人です。

使えないとわかった時に見捨てますが、相手に期待執着していないので初めから怒りません。

上述のように、前提は怒っていたけども怒らなくなるとは違い、見捨てていない前提がありません

ダークエンパスも同様です。
※共感性が強い上で、サイコパス的な要素もある

ダークエンパスはサイコパスとは違って共感性が高いため、相手の近くに入り込み仲良しごっこもできながら、ある時にスパッと何の感情もなく見捨てる要注意人物です。

両方共に初めから見捨てていない前提がありません

光景としては躊躇なく見捨てますが、見捨てるもなにも概念がないので、縁や関係性を切る意図や気持ちがエネルギーとして発されません。

見捨てる人はいつまでも相手に執着したり、復讐したいと思うことはありません。

 

ある種の怒らず見捨てる人:優しい人

なんでも
なんでも
サイコパスやダークエンパスのように、見捨てたように見えながら関係性を切る意図のない人がいます。

『優しい人、いい人』と言われる人です。

言い方を変えると、相手に合わせる人、何者でもない人、怒る気がない人

他者に利益を与えることに長けており、相手に合わせて自分を変えることができ、誰とでも分け隔てなく関わる能力があります。

このタイプは自他の線引きがありながら、相手に合わせてそれをも壊すため、人間関係では翻弄されやすく、悩みや辛さが増えます。

相手を翻弄して依存と執着心を引き出し、人を変えてしまう影響力があり、人と関われば我慢や気使いの苦労に絶えません。

それでも怒らない。

「許せない、全部この人のせいだ!」とならない人であり、自責が強く、他責ではない人は怒りません。

我慢の限界が来た時、自分を喪失する直前に来た時、怒らず静かにスーと去っていきます。

突然去っていくので、サイコパスのように外見は見捨てているように思えます。

しかし、こちらもエネルギーとしては見捨ててはおらず、自己防衛にて身を護るため、これ以上の損害を回避するために離れる状態です。

本当に見捨てる人は別にいます。

 

本当に見捨てる人:本当は怒っている(または優しい振りをする)

なんでも
なんでも
「指切りげんまん~嘘ついたら~ハリマンボン~飲~まさず~捨~てる」

本当に見捨てる人はこの歌約束を相手と交わさずに執行します。

「そういうものだろう」
「常識だから言わなくたってわかっているはずだ」

自己表現ではなく、「私にとってはこれが表現だから、あとはそちらで理解して」というスタンスが目立ちます。

※「あなたもわかるべきだ」となる場合は自己中、モラハラの懸念あり
※「言わなくてもわかって欲しい」となる場合は自己愛が強く、一方通行の関係性になりやすい

しかし、そんな素振りは一切表さず、優しい人としてニコニコ関わるのがここでお伝えしたい人です。

見捨てる前は捨て猫をかまうように近付き、接し、距離感近く、強く期待します。

思い通りにいかない不納得や不満足が増えると憤り、イライラしますが、基本的に我慢し続けて怒りに蓋をするように抑圧し続けます。

これが過剰化した時に不納得が暴発しますが、一貫して相手に伝える表現をせず、「この人にはわからないのね」と呆れ、幻滅して見捨てます。

怒らない人で見捨てるのはこのタイプであり、特に目立つ特徴がいくつかあります。

怒らないで見捨てる人の特徴
  1. 過干渉
  2. 自分を抑圧する
  3. 優しい振りをする
  4. 怒っていない振りをする
  5. 自己表現が自己中心的
  6. 自己正当化意識が強い
  7. 無意識に人を利用する(無自覚)
  8. 他者への否定、批判心が強い(表さない)
  9. わかってもらえないと呆れる
  10. 自己愛、被害者意識が強い

優しい人でありたい思いがあると考えられます。

そして最もお伝えしたいのがこちら。

怒らないで見捨てる人は、興味有無が極端です。

・[過干渉↔無関心]
・[興味ある↔興味なし]

※自己利益のみをフォーカスして人と関わっていることが露わになります

期待している時は過干渉、優しく、人のために自分を利用させることも、奉仕もします。

一方、呆れた瞬間、いわゆる思い通りにならない、使えないと相手を認めた時、無関心になります。

同じ“怒らない”でも内情が全く異なり、特に同じ“優しい”でも天と地の違いがあります。

深掘りしていきます。

 

優しい怒らない人の見捨てる内情

優しい怒らない人との大きな違い

なんでも
なんでも
優しくて怒らない、さらに見捨てる人には大きく二つのタイプがあります。
見捨てる優しい人のタイプ
  1. 怒らずに去る
    自己防衛にて見捨てる
  2. 怒らず幻滅する
    思い通りにならないので見捨てる

※ちなみにサイコパス、ダークエンパスは見捨てるも見捨てないもなく、利用価値がなくなって興味関心がなくなった状態なので、②に似ています(幻滅ではないので同じではない)

①怒らずに去る人は見捨てているように思えますが、エネルギーや気持ちを切ったのではなく干渉しなくなった状態です。

②怒らず幻滅する人エネルギーや気持ちとして切っており本当は怒っていますが呆れたり自己世界を正当化することで極端に興味関心をなくします。

サイコパス的ではありますが、優しい人になりたい気持ちや周囲からの評価を気にする恐怖心があるため、自ら見捨てたことを認めず、「この人がダメだからいけない」と正当化します。
※サイコパス達は自ら見捨てたことを認められる

優しく、怒らず、見捨てる人、言葉は同じでも大きな違いとなるのが、相手との関係を自発的かつ意図的に切ったかどうかです。

※この違いによって、見捨てる強い動機、強い意図、強い拒否、強い欲がわかる

 

①怒らずに去る人は無干渉の愛

なんでも
なんでも
ここでお伝えしたい主旨は、「怒らない人は見捨てる」と思えますが、実際には捨てたのではなく干渉しなくなったことです。

それが①怒らずに去る人であり、自己防衛にて見捨てざるを得なかった人。

干渉しないので期待しなくなり、興味もないように見えますが関心はあります。

無関心にならない人

無干渉と無関心はまるで別物です。

自他を線引きし、相手を尊重できるからこそ無干渉になり、冷たく思われやすいですが愛の一つの形です。

これに該当する人は怒りません。

自制力が強く、自分と対象(や出来事)に没入せず、俯瞰する癖があるためです。

怒りの感情がない訳ではなく、怒りが湧く自分を客観的に見ることで自己コントロールします。

ただ、精神に余裕がないとコントロールではなく我慢になってしまい、自己表現したくてもできないために怒れない、怒りたくないから自分を抑圧する場合も。

すると精神を病んでしまうのでやむなく去らざるを得なくなる、自己逃避を続けた挙句にもなります。

自己コントロールがない場合は自己抑圧が強く、解放されていない状態が考えられ、去るなら去るでどうして去らざるを得ないのか、自分に責を見て改善する大切さがあります。

さもなくば同じことを何度も繰り返してしまうので要注意です。

とにもかくにもお伝えしたいのは関心がなくなった訳ではないこと

無自覚でも愛がある、だからこそ自分も相手も支配せず、思うままになるべきだと決め付けず、自他を尊重した線引きや自立を大切にします。

 

②怒らず呆れる人は無関心の闇

なんでも
なんでも
マザーテレサが残した言葉にあるように、愛の反対にあるのが無関心

怒らず幻滅する(呆れる)人は優しい振りをしている人であり、本当は怒っていますが露わにせず、相手に責任を置くことで怒りの真逆、無関心に反転します。

無意識に他者を利用しますが、それを自覚すると自己像が崩れるので拒み、自己世界にのめり込み(思い込みと決め付け)ます。

自分の思うようにならないと不納得や不満足を強く生み出し、自ら行動せずとも周囲が理解努力をして、「私のことをわかるべきだ」という内心が見えます。

これに該当する場合、

「相手に怒らせることをされた、この人のせいで私は怒っている」と認識します。

変わる気がなく、自分は悪くないと思っています

怒りとは自己愛の反発心ですので自らが怒りたいから怒っており、どれだけ周囲の影響があっても自らにしか怒りのエネルギーは作り出せません。

怒りのエネルギーを作っておきながら、相手にそれが付帯するなんてことはありません。

仏教では怒りは三毒である貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の一つ、人間の諸悪の根源とされるものです。

瞋(じん、しん):

仏教における煩悩のひとつで、怒りを指す。瞋恚(しんに)ともいう。

憎しみ、嫌うこと、いかること。心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒りにくむこと。

※Wikipedia 引用

怒りには憎悪があり、許せない念があります。

この許せない気持ちが、無関心に辿り着かせるほど愛と真逆の方向を進みます。

許せない気持ちがありながら自らを我慢させ、優しい像を保とうとすると、“幻滅する”という相手に責を置いて自らを正当化させる策が出てきます。

幻が滅したことを相手のせいにすると、無関心になることで怒らなくなります。

どのように生存戦略を立てるかは自由だと思いますが、これは本人のためになりません。

怒らないほど、優しい振りをするほどに、人と関われば見捨てることになり、邪念を作りながらも発散しなくなってしまいます。

関係性を修復しないだけでなく、する気もなくなり、邪気をまとって愚痴や悪口が止まらなくなります。

不納得になる、自己愛がうずけば他人を否定せずにいられず、自分を棚に上げ続けて本当の愛を失うほど離れてしまいます。

正当化し続けると自分を変える気がなくなるので、人を見捨てたカルマを作った以上は反省して改善する大切さがあります。

 

怒らない人の無干渉と無関心

なんでも
なんでも
両者は天と地の違いがあるので、明確にすることがここでの目的です。

無干渉はひとえに冷たさですが、愛であることに変わりありません。

愛とはオキシトシンによるドキドキ、ドーパミンお菓子を食べたエフェクト、頭の中のウハウハのことではなく、心であり精神理解による繋がり認知、本物のことです。

「この人と一緒にいたい!」と欲するあれではなく、「この人といるとなんか落ち着く」と自然に身を任せる状態です。

本物は常に中庸、陰と陽の真ん中におり、どちらにも偏らない普遍にあります

人を突き放すのではなく相手を敬い、自らを敬う結果で離れるならば、そこにはお互いの話し合いも大切ですが、話し合いなく頓挫することにも大きな意味があります。

何もわからず結果的にボンッと人間関係が途切れた場合、その真意を辿る冒険によって成長と変化がお互いに生まれます。

無干渉の怒らない人は、人を見捨てた後に罪悪を感じ、反省します。

無関心の怒らない人は、人を見捨てる時は正当化して相手を悪にし、反省しません。

両者の違いは明確であり、同じところを見つけるのが困難ですので、はっきり区分けます。

 

最後に:怒らない人は見捨てる

無関心は心を無にする自虐行為でもあります。

愛は心にあり、心が他と関わる繋がりにあります。

その繋がりを切るには本当に強いエネルギーを要し、愛を切るには愛を見捨てなければいけません。

そのためにも、愛を穢す気持ちとして憎悪や怨念があります。

人を見捨てるとは本当の意味での愛、誰しもが持つ根底の繋がりを見捨てることです。

これを本当にしたのかどうか?

見つめたいのは真意であり真実です。

繋がりを切らずに一緒に居続けることにも意味はありますが、離れることは本当に大きな意味を両者にもたらします。

自立、陰の理解、恐怖の克服、反省による自己変革、何より自己理解。

自分が優しい人だとどうしてわかるのか?

自己理解は簡単ではありませんが、区分けることで見つめやすくなると思います。

無干渉は愛、見捨てているのではない。

無関心は闇、見捨てているのは根底の愛。

そんな理解がご自身を見つめるご参考になれば幸いです。

それでは、ありがとうございました。

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

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