スピリチュアル

【繋がりを見る“知”の世界】物を愛する人の哲学とスピリチュアル

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みかんが生きている。

驚かない、当然だから。

これはお化けが見えるのと同じで、その人にとって見えるという事実があります。

物を愛する人は物との関わりを重んじます。

それは大切なクライアントを丁重に接待するのとは違い、自分なりの物との繋がり認知、必然性の理解。

ここでは、物を愛する人の見ている世界を深掘りし、そこにある人間の知性、愛、万物に宿る神のお話しをしていきます。

  • 物を愛する人の世界を知りたい
  • その世界にある愛について考えたい

いたって怪しい内容です。

物との関わりに潜む意識には『知』という愛が詰まっている、という妖怪の神秘を探求する的な。

一つの考え方としてお楽しみいただければ幸いです。

Youtubeもありますのでぜひご覧ください。

物を愛する人の世界

物との関りが表す〖鏡〗

なんでも
なんでも
物をどう捉えているのか?

潜在的に表れる自然な認識には、人となりが映し出されます。

それはまるで本性を表す湖の水面のようです。

物を自分と同等に捉えている人は、扱いが自分と同じになり、人によっては繊細に、人によっては厳しめ。

大切にする人もいれば、壊れても気にしない人もおり、ゴミになっても身近に置いておくなどさまざまです。

一方、物を格下に捉える人もおり、自分が上になるので「利用してやる」といった偉そうなさまが表れます。

ぞんざいに扱い、直ぐ壊したり、直ぐ買い替えたり、壊れてもどうでもよかったり。

共通しているのはその人にとっての“普通”が映ること。

物の捉え方には自分にとっての意識しない自然な在り方が表れます。

意識しない自然な在り方とは、自分が自分に対して普段からしている潜在的在り方です。

例えば、「これだけは絶対大切にする」などと執着する時、自分が自分に執着している接し方を映しています。

ムキーとなった際に物を投げて壊す場合、自分が自分に対して自暴自棄になっているなど、そのまんま自分の状態を映し出しています。

物が壊れて、「あ~あ、使えねぇ」と思ったら、自分に利用価値がなくなった時の自分の反応を映します。

壊れても、「ラッキー、自分で直してもっと強くしよう」と思ったら、自分が失敗しても改善して向上する姿勢を映します。

壊れた際に誰かに直してもらうことしか頭になければ、自分が壊れた時も誰かになんとかしてもらおうとする姿勢を映します。

物との関りは自分を映す鏡。

自分が自分に対する関わり方、接し方を表します。

 

物を愛する人は自分を愛する

なんでも
なんでも
鏡である考え方から、物を大切にすることは自分を大切にする在り方を意味します。

ただ、「大切にする」の意味は人それぞれ特徴が見られます。

例えば、仕事道具は使い終わった後に毎日欠かさず掃除する。

大好きなフィギアには埃一つ付けないようにガラスケースに入れて誰にも触らせない。

バイクの手入れを忘れず、自分仕様にカッコよく装飾し、デザインも塗装する。

大切にする場合、壊れないように、長持ちするように、カッコよくなるようになど、自分にとっての喜びを減らさず増やす活動があります。

自分を喜ばせ、苦しませない働きです。

物を大切にする人は自分を喜ばせて苦しませないという方向に自分を大切にします。

とっても素敵なことですが、ここでお伝えしたいのはこれとは一線を画します。

物を愛する。

物を愛する人は「それがそれである」ことを愛します。

何もしないあるがままとは違い、それそのものの必然性を理解した扱いや関わり方をする意味。

例えば、カップがテーブルに置いてあります。

そのカップを愛する行為は、その位置にカップがあり、そこでカップが存在していることに喜びを感じます。

そこでカップが生きている原因があり、「私がそこに置いた」という必然性があります。

その意味を作ったのは私とカップ。

さらに言えばカップが家にたどり着くまでの軌跡には多大なプロセス、関わる人々、企業、職人、工場、お店があり、あらゆる原因があって今人間の家のそこにある。

全ての点が一本の線で繋がり、その意味がわかった瞬間、それがカップを愛する瞬間です。

このカップがこの位置で生きているという現実ができる原因が繋がり、これまでのあらゆる他々の関わりが一つの全体として集約され、必然性が見えた瞬間。

カップを愛することは、自分が神になった瞬間です。

何か偉い存在になったのではなく、万物に宿り、自らにも宿る自然と一体化した繋がり認知のこと。

この認知を味わうカップを愛するひとときは、カップも世の中も美しくキラキラしています。

それは自分を愛するさま。

物を愛する人は自分を愛します。

そうです、これはとっても怪しい内容。

この世界に入れる人は先へ進みましょう。

 

物を愛すると起こること

➀物を愛する時、物が生きる

子供がおままごとをする時、まるでその人形が喋ったかのように振舞います。

4,5歳くらいになると薄れていると思いますが、もっともっと幼かった頃は本当に喋っていたかもしれません。

なんでも
なんでも
でも忘れていきます。

「バカなこと言ってんじゃない」と言われ、恥を掻き、「そうだよ、自分で演じてるだけだ」と刷り込んでいきます。

どっちが事実だったのかわからなくなっていく。

トイストーリーはなくならないで…とせめてもの希望を託して忘れていく美しかった世界。

子供のように物を愛することができる人は、物が生きている世界を見れます。

それは人形がひとりでに目をギョロギョロさせながら、「バビブベボ」と擬音を発するのではなく。

人形が生きているとしか思えない、もう本当にそうとしか思えない世界を見ている状態です。

例えば、私はみかんが好きで一年中食べているので、家には基本的にみかんが置いてあります。

最近では窓の前に一つ、仕事机に三つ、台所に二つ、本が置いてある所に一つ、お風呂前の棚に三つ、食事用のテーブルに二十、お仏壇に十となんだかたくさん散っています。

私はみかんを愛します。

棚に置いてあるみかんが目に入ると、もうどう考えても生きている、そうとしか思えない認知があります。

ホワホワと温かく、まるで視界にキラキラの光とお花をチラつかせたように美しく見え、今にでも話しかけてくるのではないかと思えます。

特に何も喋りませんし動きもしません。

ですが、じーっとこちらを見つめて何かを伝えてくる、そんな気がして仕方ありません。

もしかしたらウインクしているのかもしれません。

まるでお化けが見えている人にとっては見えているんだからそれが事実というような、そう見えてるんだからそうなんだと紛れもない事実があります。

ただ、この「生きている」というのは人間の言う「生きている」とは違います。

みかんハートがピュンピュン鼓動し、白い血管がポクポクとかわいく波打って、「I’m an orange fountain」とかなんとか喋るスタイルではありません。

みかんにとっての生きているであり、植物であれば植物にとっての、テーブルであればテーブルにとっての、パソコンであればパソコンにとっての、雲であれば雲にとってのもの。

ただ、認識する媒体は私であるため、「生きている」というのは繋がりの認知を意味します。

みかんがそこに置いてあるまでのあらゆる軌跡とみかんと私が繋がった、そんな全体的な繋がりによってもたらされるもの。

全ての点が一本の線になり、さらにそこにある必然性を体得することで全体と繋がる球になるような。

それによって感じる愛のような何かは、とにかく美しく輝かしく、みかんが愛おしく、私は朗らかで笑顔が自然と溢れ、心が温かくなる。

物を愛する時、物が生きます。

物が生きる時、愛を認知している自分がいます。

物を愛するとは、その物と全体(構造、または神)との繋がりを理解することによってもたらされる、生命みなぎる自分の映し出しだと考えます。

※この生命みなぎる状態=自分を愛する状態であり=物が生きる世界が見える状態

 

②物を愛すると馴染む

物を愛する時、そこには世界の美しさがあります。

なんでも
なんでも
心の開きであり、第四チャクラの開放であり、その物がどうしてここにあるか、そういった軌跡への敬いがあります。

親が子を産み、まるで自分の所有物にする。そういった物体や概念による思いとは違い、その子が今日こうなるに至る軌跡を敬い、その子と真に繋がる心の開きです。

スピリチュアルで言うワンネスとは違います。

個対個の繋がり認知であり、物事全てには因果があり、原因があるから結果という今がある理解。

この理解は何かピカーンと閃いた時、どうしてそれが閃いたのか、その閃きがどういう意味かわかるのと似ています。

そしてそれを物という対象に向けた時、物を愛します。

なので、物を愛するとは必然性の理解であり、因果の紐解き。

この世の摂理への近付きであり、愛の認知に知性を用いたさまだと考えます。

言い方を変えると、物が持つ可能性を知ったさまであり、物のポテンシャルを最大限引き出すことができます。

それが物に対する愛としても表れます。

例えば、自転車が愛車の人がいます。

こういう方は、自転車が自分の手元にある必然性を知っています。

「どうしてこの子なのか?どうして私の元にいるのか?」と物事の因果である原因と結果を知っています。

そこには明確なまでの意思、その自転車にした自己決定があり、今後を一緒に過ごす意志があります。

何より心の開きがあり、見るだけで嬉しくなり、見られているような、生きているような、話しかけたくなるのは必然。

自転車そのものを知りたい気持ちが生まれ、運転は優しくも荒くもなり、汚しもするが綺麗にもする。

たくさん転びもするが、どれだけ速いかも強いかも、そして弱いかも知る。

関わるほどにお互いを知り合うように馴染んでいく。

一体化。

「その自転車はあなたにピッタリだね」と周囲からは見えるようになっていく。

「愛しているんだな」とわかる光景が広がります。

 

③物を愛すると汚れが歴史になる

なんでも
なんでも
物が生きる時、みなぎる生命力が物に注がれています。

そのため、物にはエネルギーが移ります。

この時、大きなポイントとなるのが、その物を見る時に自分もそこに入っているということ。

自分を愛していない人は物を愛せず、この世界を見れないため、物は物でしかなく他人事。

ふざけた使い方をしたり、価値を自分で見出さず、汚いから要らない、使わないから直ぐに捨てるなどが起きます。

しかし、自分を愛している人は物を敬います。

すると物持ちがよくなります。

物の見方も変わります。

汚れは歴史になります。

傷は思い出になります。

古さはアンティークになります。

ここは汚いから捨てるなんてありえない世界です。

使わなくなったなら人にあげることが選択肢になり、愛してくれる人に譲ります。

そこにはエネルギーの移管があり、愛の引継ぎがあり、因果を共にして球の中に入る共同が生まれます。

物は愛の橋渡しになり、歴史と共に引き継がれる静けさがあります。

それは人間と物とのあるがままかもしれません。

 

物への愛は世界への愛

なんでも
なんでも
最後にちょっと内容が壮大になりますが、これは本質だと考えます。

ある特定の物を愛する、これは誰しもにあると思います。

愛するとはいわば最大化であり、他人からすれば扱いがぞんざいに思えることもあるかもしれませんが、そこには真に必然性と因果の理解があり、心を開いて点と点を線にしてさらに球にする理解と関わりがあります。

これをする人、いわば子供のことですが、これができる人はその物を見るだけで美しく光り輝く世界にいられます。

この対象を特定の物だけでなく広げていくと、生きていることの意味を体感します。

この世がどれほど美しいかを感受します。

それは本を読んでいたら字が踊り出して、「うわぁああぁ気持ち悪い、きゃああぁあ!」という幻覚や幻想のことではありません。

事実であり現実。

この世は繋がり合って、因果が縁として結ばれ合って構成されている世界。

それを体感することになります。

その世界は普段から目の前に広がり続けていますが、見ないと見えません。

まるでお化けを見れるか見れないかのようですが、見ることで感じられる世界です。

自閉症の方の中には、この世が幾何学模様に見えることがあると言われています。

それは私の理解では六次元の世界なのですが、見れる人は知性を使い、この世を見れるからこそ見れます。

知性とは今の社会が言う頭の使い方ではありません。

人間としての知であり、理論や概念の並べ立てではなく、見たら一瞬でパッと把握される体得です。

音楽を聴いた時に、「あ!これは○○の曲だ」とわかるのに似ており、この世の摂理に対して閃く、「あ!」です。

そんな世界はとても温かく美しいです。

「もう、これが生きている意味だ」と思えてきます。

そこに広がるものは個を持った上での愛。

全体に溶け入るワンネスとは違い、個性化を持った上でのこの世の摂理との一体。

これを「知」と言うのだと思います。

物を愛するとは知を愛すること、そんなお話でした。

なんだか哲学の意味みたいですね。

 

最後に:物を愛する人

人を愛することも大切ですが、同じように物を愛することも大切だと思います。

それが良いのではなく、「そこに広がるものは人間だから」という考え方です。

物との関わり方を私たちはあまり教わってきません。

人と関わる際は迷惑をかけず敬いを持ってなどの綺麗事がありますが、物には何も考えずに接することが多いかもしれません。

反応がないので、「何してんだろう、私…?」と虚しくなる。

しかし、反応なんて要りません。

物には、それには、それそのものの固有のエネルギーがあります。

それにはそれの生きているさまがあります。

「その生きているとは何なのか?」を考えてみるのは面白いと思います。

物を愛する人は理解する人です。

知を使う人であり、閃きを辿る人であり、意味を体得する人です。

孤独の味わいが多い人は人との関わり以上に物との関りが多くなるため、孤独の人ほどこういう世界を見る人かもしれません。

スピリチュアルや精神世界で目立つのはワンネスや悟りといった言葉に思えますが、言葉がなくともこの世の知り方はあります。

そして知の可能域は無限に広がっていると思います。

あとはそれを見るか否か。

物を愛して愛する世界を見ていくために、一つの奇妙なお話がご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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