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人を許せない人が陥りやすい因果応報の罠│「自分を苦しめた人が幸せそう」に見える訳

報いは、一生ジャングルジムとして余生を過ごしてもらいましょう。

自分を傷つけ、苦しめた人だから、許せない。

当然の気持ち。報いを、報復を、復讐を、鉄槌を食らわせたい。

因果応報は絶対の原理、自然の摂理であり、大気があるから風があるようなもの。

人を傷つけた人には相応の因果が返ります。

そこで忘れてはならないのが、人を許せない(許さない)行為も因果を作っていること。

自ら苦しみを増長してしまう可能性があります。

ここでは、人を許せないことに着目し、因果応報の勘違いしやすい注意点をお伝えします。

  • 人を許せない(許さない)行為が作る因果応報を把握したい
  • 自分を苦しめた人が幸せそうな理由を知りたい

傷を負ったからこそご自身をより大切にする必要があり、自らを護れるのは自分だけです。

若干の勉強会となりますので、因果応報を学んでご自身を高める方へ向けて、考え方としてご参考になれば幸いです。

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人を許せない人の因果応報

因果応報は加害者にも被害者にもある

因果(カルマ)には応報がある。

『善いことをすれば善いことが返り、悪いことをすれば悪いことが返る』

古くからインドにある思想、ウパニシャッドの哲学でもあり、仏教でも重んじられる原理。

因果とは行為を意味します

物事は原因と結果があって、行為が完結します。

行為には目的、意志、原因がありますので、波動やエネルギー、または質量の動きが伴い、明確に「働き」があります。

人間を量子として捉える場合、行為はエネルギーの動きや働きであり、何かをしたりさせられれば、自分自身の動きや働き、目的や意志や原因がエネルギーとして内包されます。

この“行為”とやら、完結しないと因果が応報します

因果応報とは、未完の行為を完結させるための原理。

摩訶不思議なファンタジーではなく、エネルギーや質量を基にしたこの世(宇宙)の等価性であり、物理科学や自然科学と言えるかもしれません。

※以下、「エネルギー」は質量も含む意

そんな因果応報、特に人と人が関わる際に、「はい行為、それも行為、はいさ、ほいさ」と因果を量産します。

原理であるため、「おばあちゃんに優しくしたね」「犬を首輪で縛りつけたね」に対する良悪・正否など、社会的に定めた善悪ルールではありません。

「人を痛めつけた、はは」と本人にとって善行であれば、本人にそれ相応のギフトが返るのではなく、行為に含まれるエネルギーの等価として、痛みが返ってきます

エネルギーが重く、波動が低ければ言語上“悪”となりますが、社会的な「悪=ダメ」とは別物。

これを前提理解とします。

加害者でも被害者でも、行為にどんな目的があり、嘘偽りで誤魔化しているのであればどんな真意があるか。

因果応報は善悪の縛りなく、自らがした行為(エネルギー、波動、質量影響、働き、意志、真意、状態)を100%完全に露呈させます。

正確には、行為を作った張本人に現実を自覚するまで繰り返し戻り続けるエネルギーの完結作用

加害者には加害行為の因果があり、被害者には被害行為の因果があるため、共に応報が起きます。

そんな詳細を紐解いていきます。

 

人を許せない人が作る『自因自果』

人を苦しめる人がいれば、苦しめられる人がいます。

加害者には人を苦しめようとする行為人を苦しめさせた行為があり、それぞれに応報が起こります。

被害を受けた時、加害者には二つの因果応報があります。

  1. 相手を傷つける意志や目的のエネルギー
  2. 傷つけた相手に生み出させた痛みや辛さのエネルギー

人に対する行為の場合、原因は自分にあっても、行為を完結させる結果は自分と相手の両方にあります。

「苦しめます、苦しめました」で加害者の行為は完結、しません

苦しんだかどうかは苦しむ張本人しか認められないので、加害者のみの行為は被害者抜きで一生完結せず、苦しめたエネルギーと同等のものが応報します。

「苦しめました」を加害者が認め、「苦しみました」と被害者が認める場合、行為が完結

行為が完結すれば応報はありませんが、傷や痛みが大きければ大きいほど、「苦しみました」と認めるのは難しいです。

なぜならば、私達人間は他者に苦しめられた事実を認めるのはできても、苦しむ自分を認めるのは難しいからです。

この認めない行為によって、「許せない」が作られます。

行為を完結させる仕組みが因果応報であるため、被害者側に応報有無の決定権がある訳ではなく、自他共に現実を認めることに仕組みの成り立ちがあります。

 

苦しむ自分を認められないと、許せない自因自果を作り続ける

苦しむ自分を認めるとは、痛みや傷や記憶の執着を手放し、恐怖心を受け入れること。

痛くて、辛くて、悲しくて、怖い現実を認め、自分と同時に相手を許して受け入れる意味です。
※少しややこしいのですが、相手だけを許すというのはこの世に存在しません

しかし、許したくない。

許せば反省せず、調子に乗る可能性もあります。

苦しむ自分を認めるのが難しい上に、さらに相手を許したくない気持ちも出てきますので、行為の完結は遠くなっていきます。

許す必要などありません。しかし「許せない」と思うか否かは別のお話。

苦しむ自分を認めない場合、許せなくなります。

「この傷は誰がやったんだ?あいつだぁ、ゴゴゴ」

自分の現状やリアルを見つめるのではなく、加害者や加害された記憶(過去)にフォーカスすると、より許せなくなります。

相手が許せない人もいれば、そんな自分を許せない人もおり、両方の人もいます。

着目したいのは、人を許せない(許さない)行為は、相手に作らされたのではなく、自ら作っていること。

相手に作らされたのは、苦しみを与えられたことによる嫌な気持ちや、痛みや恐怖。

その後に、苦しむ自分を認めるか否かがあり、選択は本人次第。

例えば、肩パンチをドンッとされた時、「痛ぇ」が作らされた行為。

苦しむ自分を認めれば、「一回パンチしたからお返しね、ドンッ」と報復など進展へ向かう。

苦しむ自分を認めなければ、「くそ、なんだこいつ、許さねぇ」と自ら因果を作る。

許せない(許さない)行為は、自ら未完の因果を作り、自らに応報させて自らに結果をもたらします。

これを仏教では、自因自果(自分の行いは自分に返ってくる)と言います。

 

人を許せない人に起こる応報とは?

他者から苦しめられることを許せないのは、日本の社会環境では当然に思えます。

しかし、誰しも苦しいのが当たり前であれば、許せないと思うことすらないかもしれません。

それは他者を見ずに、自分を見つめるから。

ジャングルで何も食べるものがなく、見つけたキノコをパクッと食べてギャハハハ。

「笑いがギャハハ、止まらないギャハハ、はぁはぁ、助けて」

「キノコ、許さねぇぞ、全部燃やしきってやる!」と思うのが他を見る場合。

自分を見る場合、「どうしてあんなカラフルキノコを食べようと思ったんだ?」と自らの行為にあった働き、意志、原因を見つめます。

人を許せない(許さない)行為は、自らを見つめずに他を見つめる行為。

怒りや憎悪、怨念に執念を生み出し、恨み辛みの怨恨を作り、逆恨みで加害者にもなり、何十年経っても自己世界(過去への執着)に閉じこもり、出てこれなくなる可能性すらあります。

人を許せない人には自らの行為が応報します。

一体どんな応報なのか。

『過去から離れられず、先へ進めない繰り返しサイクル(変化困難)』と考えられます。

社会的に被害者は擁護される立場であり、そうあるべきだと思いますが、この世の原理である因果応報はシンプルに現実を指さします。

社会性や善悪の定義ルール関係なく、許せないと思う・感じる・発する行為に対して、「はいカルマ、見返りあるからね」と言い去る風のような存在が因果応報です。

 

人を許せない人の因果応報トラップ

詳細:人を許せない人が作る因果応報8選

加害者には相応の報いがあるのは当然ですが、問題は損害や損失を被ったからこそ「許せない」となるのに、因果が関与すること。

「裏切られ、精神がズタボロにされた」と被害を受けたことで、思考がままならず、心が動揺し、生活がままならない。

人それぞれに影響や作用の大小があり、「どれだけの量の痛みと苦しみを被ったか」の動作や時間ではなく、そこにあったエネルギーで考える必要があります。

といってもエネルギーがどうなっているか、見えないしわからない。

困ったものです。

そこで重要なのが、苦しむ自分を認めるか否か

「はい、私は苦しみました」ではなく、起きたことを知り、どんな痛みで傷なのかを把握し、現実を受け止めて自覚すること。

難しいことですが認めると、起きたことは起きたと現実を受け止め、この状態でどう生き、工夫し、学ぶかの次のステップへ向かえます。

苦しむ自分を認めるか否かは個人の選択であるため、許すか許さないかも選択、自分を見るか他を見るかも選択。

「許さない」と決めた場合、現実を見にくくし、怒りを生み、憎悪を作り、執念を育て、過去への執着を強めます。

全て自らに対する行為です。

許せないが故に相手に報復する選択もあるかと思います。

この場合、相手にされた行為と同等のものを両者で決め合い、お互いが納得できるようにすると、お互いに認め合うことができるので行為は完結します。

「この前は私がおごったから今回はおごってね、チャリーン」

しかし、「許せない」と思う場合、なにかしら納得できておらず、お互いの認め合いがありません。

一方通行の関わり合いであればあるほど、利用し合いであればあるほど、どちらかに我慢や妥協があればあるほど、許せなくなります。

このことから、許せないというのは自然発生的なものではなく、社会性の概念、メンタル、コミュニケーション不全、相互理解のなさなどによって、自ら作っていると考えられます。

因果の報いは変化しないスタック、過去から離れなくする要因の与え。

典型例となるのがこちらです。

人を許せないと起こる因果応報
  1. 被害者意識が強くなる
  2. 自己憐憫性
    (自らを可哀そうだと憐れむ)
  3. 自己欺瞞
    (自らを誤魔化し偽る)
  4. 我慢をやめられない
  5. 悲観悲壮のネガティブ
  6. 自分の世界に閉じこもる
  7. あらゆる不都合な現実を自覚しない認識制限
  8. 幸せになることへの怖れ

これに該当する場合、あるトラップに引っかかっている可能性があります。

※報いを受けない人の詳細は、【因果応報なんてない?】報いを受ける人と受けない人の決定的な違い をご覧ください。

 

因果応報のトラップ:「自分を苦しめた人が幸せそう」に見える

因果応報はこの世の原理であり、遅かれ早かれ必ず報いがあります。

しかし、中には本当に応報されたのか疑問な人々がいます

「あの人は会社のお金を横領して、みんなをリストラにする原因を作ったんだ、なのにドバイで豪遊してやがる!」

「あれだけ好き勝手やって、家族全員の人生をぶち壊したのに、毎日酒飲んでのうのうとしている!」

やってらんないところですが、

報いが起きていても、誤魔化して表面を取り繕ったり、現実から逃げ続けて嗜好や快楽やSNSの疑似に陶酔する人もいます。

因果は時間や動作量の概念ではなくエネルギーの等価性ですので、「現段階であの加害者はどうなっているか」で判断は難しいです。

ここで因果応報のトリックになる注意点が表れます。

許せない行為による因果応報は、許したくない相手が幸せに見えるのではなく、自らを不幸にするサイクルに突っ伏し、自分より不幸でないと幸せそうに見えます。

憎悪、執着、執念による自因自果は、嫌なことをされた過去にて見える世界を構成し、認識を条件付けて限定します。

「許せない」と思った瞬間、加害者を見た瞬間、嫌な過去に触発する出来事が起きた瞬間、即座に過去に戻り、自らを憎悪と苦しみの世界に入れます。

これが苦しむ自分を認めないことによる、「許せない行為の因果応報」

自分を苦しめた人が幸せな訳ではなく、その人を見る自分が不幸になるので幸せそうに見える認識を作る、という考え方です。

因果応報は、悪行をしたものや加害者に制裁を食らわすルールではなく、悪行でも善行でも自らのした行為を等価させる絶対的原理。

損害や損失を被ることにも因果は応報するため、注意が必要です。

※許せない時は許さなくていい思想は、「許せない人を許さなくて大丈夫」許すとは過去と執着の手放し をご覧ください。

 

因果応報のトラップ:[我慢、従順、執着]のカルマ

許せない因果応報はとても意味深く、心理やメンタルにも大きな影響を及ぼすと考えられます。

許せない行為による自因自果は、我慢を増やし、他に従う従順や他律意識を強め、執着のサイクルを作る可能性があります。

例えば、友人と一緒にご飯を食べている時。

「モグモグ、クチャクッチャ」と口を開けて食事する友人。

「え、気持ち悪そうにイタリア料理の名前をさえずってるの?」と思いたくなりますが、これは本人にとっていたって普通。

「ねぇ、耳が取れそうだから、口を閉じて食べてほしい」と伝え、一件落着。

人を許せない人は我慢し、「相手に失礼だから常識的には指摘しないほうがいいかな」と迷い、嫌な気持ちにフォーカスし、コミュニケーション不全が起きます。

友人と別れてから悶々が収まらず、「もう許せない、絶対食事は一緒に行かない!」となるかもしれません。

我慢、従順(他律)、執着に気づかないと、許せない気持ちになりやすく、知らぬ間にたくさんの因果を作り、カルマを積むサイクルに入りかねません。

この世は他者との共存環境ですので、見方を変えれば全て自分の思い通りにいかない世界。

そこでは自分次第で全てを被害にでき、全員を加害者にすることもできます。

許せない行為は相手に対するものではなく、自分に対するもの。

過去を忘れないため、戒めるために大切なものですが、相手ではなく自らに抵抗を増やし、抑圧を課す因果応報であることも忘れてはならない原理です。

 

人を許せない人の因果応報 まとめ

辛い苦しみを無理矢理に味わう、さらにそれが故意の加害であれば、許せないのは当然だと思います。

私もこの気持ちによって人を殺す寸前までいったことがありますが、後々気づいたのは、許せないとは因果そのものであり、自らを被害者という縛りから抜け出させないトラップにもなること。

「私は被害者だ」と思う認識の先に、希望は見出しにくいです。

なぜならば、自然と受動的な待ちスタンスになりやすいからです。

因果応報とはわかりにくいもの、加害とは他者を幸せにする材料を与える行為でもあります。

恩恵を与えるよりも遥かに難しく、他者に苦しみと同時に成長機会を与えながら、自らに罰を与える行為、本当に意志と精神の高い人でなければできません。

かといって、未熟な半動物が訳も分からず人に危害を加えることもあり、無知や意図なく傷つけることもあります。

脳みそがクルミサイズだと、相手に何をしたか考えることもなく、そもそも人を苦しめたと思ってすらいないという都市伝説。

相手に裏切られたと思っても、当の本人は全くそのように思っておらず、むしろ助けたと思っているかもしれません。

このように、因果応報とは本人と相手がどう事実を捉え、どれだけ現実を受け取れるかにかかっており、「どれだけの痛み量を味わったか、どれだけ長い時間だったか」は関係ありません。

これを理解するためにも、人と人の関わりで起きる因果の解決にはコミュニケーションが欠かせず、思い込みや決め付けではなく、自分を知ってもらう凸、さらに相手を知る凹が絶対必須です。

一人一人個々の認識次第であり、物事をどのように捉え、感じ、考え、評価、判断するか。

そこには意志があり、観念、歴史、振動、質量、理解、意識、繋がりがあります。

見えないながらもたくさんのことが巡り起きている現実。

何も起きないのがいいのか、全て自分の思い通りになるのがいいのか、良いことだけ起きるのがいいのか。

社会的には利益だけ欲しい、大正解花丸。

現実的には善も悪も、辛さも蜜も、両方あって世界が回ります。

因果応報は不必要なものを撤廃する仕組みではなく、本人にとって必要なものを活かし、大きな飛躍と成長機会にする循環向上システム。

許せない気持ちを持つからこそ、努力にて自らの苦しみを認めた暁には、傷つく前とは比べものにならないほど人間として強くなります。

そんな考え方がお役立ちとなれば幸いです。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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