心理と特徴

【本当に優しい人の正体】レベルが上がっていく“中身のなさ”

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「優しい」という言葉ほど中身のないものはないかもしれません。

中身がないからこそ思い込みや決め付けによって呪縛になり、危険なものにもなります。

「優しいね」と言われると違和感になり、「私は優しいよ」と自ら言うようにもなり、言葉にせずとも本気で自分を優しいと信じ込む信仰にもなります。

わかりにくいものです。

本当に優しい人とは一体なんなのか?

ここでは、優しさの正体を明らかにするために、精神的な探求をして本質を考えていきます。

  • 本当に優しい人の正体を知りたい
  • 精神的な優しさについて考えたい

優しさのレベルにあるのは、「如何に中身をなくすか」という意味深。

自分の在り方や優しさそのものを見つめるために、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

Youtubeもありますのでどうぞご覧ください。

本当に優しい人の特徴

本当に優しい人の決定的特徴:「優しい」と言われることに違和感

他者から、誉め言葉なのか伝えることがないのか、「あなたは優しいね」と言われることがあるかもしれません。

なんでも
なんでも
この発言は本当に優しいとは何たるかを表す初めの一歩になります。

言われて嬉しく思った場合、こんな認識がありそうです。

[優しいね=プラス事、肯定材料、自分の存在価値取得]

言われて違和感を感じる場合、こんな具合かと思います。

[優しいね=ルール的に良だよ、良い評価を出したよ、中身がない]

「中身がない」と捉えるよりも、「肯定された」と捉えた方が良いと思えそうですが、そうでもありません。

褒められるのは嬉しいものですが、肯定材料として受け取ると無意識の影響として、他者によって自分が決まり、他人軸が増長します

優しさとは他人が勝手に評価判断して決める枠組みや区分け。

他人が決めた場合、優しい人とキャラを特定されながら自分がなくなる懸念があります。

無意識に不安が増えるため、この状態で他に優しくするのは困難、できるのはルール従順や不安や恐怖を味わわないための自己ケア、損害回避です。

それならばと自分が決めた場合、「これが優しさだ、さぁみんな喜べ、優しくされているんだぞ」と主義主張が強く、我が増長され、自己演舞が始まります。

自分を何者かにしたい心理であり、他者承認欲求の強さや特別感、周りを見ずに自分ばかり見る自己愛が表れます。

優しさとは他人にも自分にも決められない、霧のようなものかもしれません。

かといって、利益や価値、慈しみや感動を与えた時には優しさは光明のごとくはっきりわかるものにもなります。

わかるようでわからない、曖昧でありながら明確、そんなフワフワしたものが優しさ。

「優しいね」と言われたら違和感や疑問を抱く、「へぇー(あなたはそう思うんだ、私はそう思わないけど)」となる。

優しさを知っている人ほど優しいと言われると違和感がある、と考えられます。

 

本当に優しい人ほど優しさがわからない

「優しい」の中身を決めたり決められたり。

さらにその中身とやらを自らに純化させた時、他人軸で自分を変える気がなくなり、本気で自分のことを優しいと思うようになります。

なんでも
なんでも
「私は優しいよ」と公言する訳ではなく、心の中で、「私は優しいんだ」と信じて疑わなくなる、強い我に執着した状態です。

ある種の信仰です。

こうなると人間関係の悩みが増え、自己承認できないので他者承認を求め続け、見栄とネガティブプライドが強まり、自己愛は強まりメンタルは弱くなります。

「これが優しさだ」という思い込みや他が決めた枠に従う行動規制が無意識に平準化し、優しさという中身のなさによって自分そのものの中身をなくす危険なものです。

中身がないとは虚無ではありません、空っぽのことではありません。

優しさを知っている人ほど優しさのことがわかりません。

無知の知。

本当に優しい人ほど優しさがなんなのかわからないため、言われても影響せず、中身を決め付けず、思い込みません。

シンプルに自分がそうした方がいいと心から感じ、想ったことを相手のためにする。

「食べたそうだったから半分クリームパンあげただけだよ」

「お返し?わざわざいいよそんな、まぁくれるなら喜んで貰うけどね、サンキュー」

「え、テレビはダメなの?だってホテルの小さいシャンプー欲しがってたから、これも欲しいかと思って持ってきたよ…」

優しさに中身はありません。

 

本当に優しい人は他が決めたことに執着しない

誰が何をどう決めて伝えるか、全て自由です。

自由を許すということは、自制して自らを律する力を持たなければならないことも意味します。

なんでも
なんでも
優しさは自でも他でも誰が決めることでもない、かといって社会的には決めるものなので自由に言えばいい。

「いつもみんなに率先して挨拶して、優しいね」

誰が決めることでもない前提があれば、違和感があっても相手側の立場や気持ちになって、伝えてくれた意図を汲み取れます。

「見てくれてるんだ、ありがとう」

他者の意見や認識を尊重するさまであり、無用な干渉をしないのは期待しないさまでもあります。

本当に優しい人は優しさに執着しない人。

言葉の色や意味に翻弄されず、自分にもたらされる影響だけを見るのでもなく、

しっかりと自分と他の関わりや合わさり、人間関係の相互認識を大切にする人、という考え方です。

言葉や他からの影響に執着しない人は、自分も相手も共に尊重していることを意味します。

中身がないからこそ自分と相手の自他の関わりによって、中身を一緒に築き、作っていこうとします。

 

優しさの呪縛と危険性

なんでも
なんでも
多種多様な色が混ざり合ったような、時と場合によっても変わる、悪い人のお手伝いをしても善い人のお手伝いをしても優しさ。

人を喜ばせるアイテムになりながら、人を沼にハメて依存させる危険なものにもなります。

優しさの中身を「これだ!」と決めた場合、急速に他人軸になるか自己都合の妄想世界に入ります。

そんな典型例が、「優しい=肯定材料」として自分を優しい人だとみなした場合です。

優しいを良い意味で捉えることは喜びや満足感として大事ですが、「私は優しい人なんだ」と決めることで社会的認識(他律)が自分を覆います

優しさは自分にも他人にも決められませんが、社会にはルールと枠組みを必要とするので優しさに中身を入れます。

社会的優しさは、他人が満足や納得、または不満足や不納得の解消をしてもらうなど、自己利益を得たら見出されます。

自分の行動努力によって他人が決める仕組みです。

自分には決められず、他人には決められるため、「私は優しいんだ」と肯定することは、他によって自分が決まったことを意味します。

これによって、優しいと言ってもらうため、自分の存在価値を見出すために活動することが起きます。

他者承認欲求に支配され、他人によって自らの良悪が決まり、自分の存在価値すら誰かに決めてもらうことにもなりかねません。

自分で自分を肯定せず、他人に決定を委ねられるので依存する懸念があり、大きな事が起きます。

不変にハマります。

変われなくなってしまうので要注意です。

 

本当に優しい人の正体

精神:本当の優しさとは「空(くう)」

精神理解では優しい人の枠組みは“善人”です。

善人とはただ善い人ではありません。

エゴを知り、悪に入り、不安と恐怖を克服し、エゴを手放す道のりを進み続ける人です。

善人は一様に悪人であり、恐怖も持ち合わせ、その先の受け入れる光も持ち合わせます。

地獄の門番、鬼のような一面もあるために厳しさがあり人の傷つけ方を知っており本に怖ろしい人にもなります。

善人であるために光へ導く一面もあり、手を差し伸べる助けや慈しみがあり、心に蜂蜜を注ぐ美しい人でもあります。

他者を打ち負かすのではなく、自分に負けない強さがあります。

善人とはまるで空っぽであり無、しかし全てが在る有。

空とは何も無く全てが在ります

優しさも同様でして、何も無く全てが在ります。

これを人間関係での行動として、使用する在り方に優しさがあります。

本当に優しい人は何も無く、全てが在る空(くう)の人。

といってもこれは極端な表現です。

これを優しさレベルトップとして、イエス・キリストを当てはめます。

 

本当に優しい人ほど、優しくしているつもりがない

なんでも
なんでも
陰徳を積む人は人知れず善い行いをしています。

「周囲に知ってもらう必要はなく、わざわざ見せびらかすつもりもない」

そんな気持ちにあるのは、ただ相手のためを想った心からの善意であり、自分ができることを一生懸命する姿です。

これは、「良かれと思って」ではありません。

相手を想っても相手のためになるかどうかは相手にしかわからず、さらに相手自身もわかっていない、10年後には全く違う結果をもたらしもします。

相手のためを心から想い、自分ができることをただ全力で行うには、相手の立場・思考・気持ちに少しでも近付く必要があります。

だからこそ優しさの中身は何もなく、実行するのは難しいもの。

本人は優しくしているつもりは微塵もなく、ただただ心に従い、相手を理解しようと努力し、学び、自分ができることをする。

そんな行為や在り方に優しさがあります。

 

執着しない優しさ

なんでも
なんでも
優しさは空っぽで何もないからこそ執着したくてもできない、そんなことをお伝えしたい内容でもあります。

そんな考え方では、誰しも優しさの潜在才能を持っています。

誰しもが持つ優しさの潜在才能は、自分のできることを磨き、人間関係で披露する行為や在り方です。

優しい人ほど優しいとは違い、優しい潜在才能を発揮する邪魔がありません。

空想や幻想にふけず、自己世界に入り込まず、概念に縛られず、嫌なことでも辛いことでも現実を見ようとします。

本当に優しい人ほど自分を何者かにせず、そのままの自分をそのままにするために執着しません。

自分のできることを磨き、人間関係で発揮する、そんな潜在才能の邪魔のなさ。

才能を磨いて、人間関係で発揮する行為、そのために邪魔(執着やエゴ)をなくす在り方に優しさがあります。

素直に子供のように自分のできることを発揮し、披露し、ダメならダメで認めてさらに磨く。

磨けば磨くほど他を喜ばせることが自然と起こります

結果、人それぞれに優しさの形が表れ、個性が追加されます。

人々に喜んでもらうために、絵を描き続ける人もいます。

近所の平和が守られるように、毎日見回りする人もいます。

身近な人を手助けできるように、国のために働く人もいます。

みんなの心が豊かになるように、知恵を共有し続ける人もいます。

目的が人助けかどうか関係なく、どれだけの数を喜ばせたかはなんでもよく、自分のできることを一生懸命した結果、それが世のため人のためになる人ほど本当に優しい人、という考え方です。

 

本当に優しい人ほどいなくなる(あることを除いて)

  • 「優しさがわからない(知っているからこそ)」
  • 「何者でもない自分」
  • 「執着のなさ」
  • 「潜在才能の磨きと発揮」

これらがある人ほど、突然消えて、いなくなり、戻ってきません。

そこにはさまざまな理由があると思いますが、優しい人ほど優しさとは何もないことを知っています

執着するだけでなく執着される無意味さを感じています。

執着するもされるも優しさの潜在才能の邪魔、いわゆる自分を自分ではなくする原因になります。
※優しい人として認識されていれば優しい人ではなくする原因

優しい人ほど自分の優しいさまによって周囲が関わってくれることを知っており、優しくなくなれば相手のためにもなりません。

「この人は優しいからいい人だ」と中身を決めて関わってくる人もいるため、相手を怠惰と依存でダメにすることもあり、厳しさや尊重として離れざるを得なくもなります。

潜在才能を磨いて発揮することが優しさでありながら、自分だけでなく相手が行為や言葉の中身を入れてしまった場合には、現実が歪んで問題が起きます。

相手の認識や世界を尊重したい気持ちもある、「それならば相手と一緒に決め合おう」となりますが、同じように執着しない同士でなければルールで縛り、無意識の強制や我慢も起き、ひずみは徐々に広がる。

それは彼女彼氏と型枠を決めることが、他との差別化、自己顕示欲、特別感欲しさのエゴ、支配になっていると気付きにくいように。

それならばと自分だけ我慢して気付いてもらえるようにするが、根本の解決にはならず自分は全然優しくないからと去る。

根本的に合っていない

合わせる場合には、主に助けるためか、利用される関係性になりやすいです。

同じように執着しない人でなければ、合っていないので遅かれ早かれいなくなります。

本当に優しい人になるほど合う人はいなくなっていくため、基本的にいつの日か消えます。

イエス・キリストのようになれればいいものですが、そんなレベルではない、葛藤渦巻く無知の知がある者の定めかもしれません。

 

特例:本当に優しい人は何があっても離れない人がいる

なんでも
なんでも
いつの日か、自分と同じように執着がなく、何者でもない人と出会えたら。

本当に優しい人は何があっても離れません。

何も無くて全てが在る「空」の本質には、自分という存在を全て他に調和させる意識が根付きます。

「捧げる」ということもできるかと思います。

融合であり、融和。

その人のために何の躊躇もなく死ぬことができます。

執着がないとはこういう領域です。

愛があり、愛を行為化させたそこに、“優しさ”という空があります。

同じ土台の人と出会った時、“私”というのは“あなた”になります。

それが本当に優しい人。

 

最後に:本当に優しい人の特徴と正体

男も女もありません。

多いも少ないもありません。

本当に優しい人は自分のできることを磨き、発揮し、認め、さらに磨き、人間関係を作っていきます。

誰しもに優しさの潜在才能があると考えます。

それは何もない“空”の才能、何者でもなく、何もない優しさを持ち、執着をしないさま。

自分のできることを高めて発揮することに邪魔をしない在り方です。

人それぞれできることが必ずあり、それは一つや二つではありません。

真っ直ぐに自らを見つめ、辛いことも苦しいことも味わい、大切な経験として学び、不安と恐怖を乗り越え、悪を内包して光を広げる。

強さ、怖さ、冷たさ、温かさ。

そこにあるのは愛、愛とは現実です。

現実を行為にしたものが優しさであり、それが何なのか、中身なんてありません。

現実も中身も必ず自分と他の両方が組み合い、作り合うものです。

社会的な優しさは動作や型枠なのでいつでもどこでも誰でもできます。

しかし、本質的な優しさは意味深な人間理解の先にあるため、できるできないが明確に分かれ、本当に優しい人と合う人はほとんどいません。

すると遅かれ早かれ人との関わりはなくなっていきますが、一人でもそんな人がいれば。

何者でもない自分が、フワッと何でもない優しさになる。

そこには何も無くて全てが在る。

そんな考え方が理解を深める一助となれば幸いです。

ありがとうございました。

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

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