スピリチュアル

【楽園者の愛と意識】優しい心があるからこその人間嫌い・人間不信

基本的に誰も信用せず、心を開かず、反吐感を浴びながら人間を経験し続ける。

小学四年生までの私のモットーです。

人間不信だった私は人間嫌いになり、嫌悪と疑いを抱えながら社会人となり、なお生きていました。

振り返ると苦行を続けていたように思います。

そんなことを考えたのは、人間嫌いや人間不信の人々と関わり、傍から垣間見たためでした。

ですが、そこには人間嫌いだからこその愛があり、優しい心を持っている人々がいました。

ここでは、人間嫌いや人間不信の原因に潜む、わかりにくいけれどもはっきりとある無意識の人間性を見ていかれてください。

  • 人間嫌い(人間不信)になる原因と目的とは?
  • 人間嫌い(人間不信)な人は優しいの?
  • 人間性に潜む愛とは?

これらを紐解き、「楽園を追放されていないから味わう気持ちなんだ」と知っていただく内容となっております。

目的を持って人間嫌いになっている場合、滲み出る愛がありますので、自己理解を深める一つの考え方となれば幸いです。

誰しもに該当するものではありませんが、怪しい物語としてお楽しみください。

人間嫌い・人間不信になる人の意識

人間嫌い・人間不信になる原因と目的

※人間嫌い(以下人間不信も含めます)

人間を嫌い、疑い、信用せず、距離を取り、様子を伺い、現実を直視する。

まるで人間関係が心理戦であり、相手に剣と盾を突きかざすスタンス。

どうしてそうなったのか。

遡れば過去に周囲の影響、家や学校や職場環境からの干渉があり、自分の存在を肯定できず、否定せざるを得なくされ、受け入れられず拒否された経験があったかもしれません。

心を開いて飛び込むと切り刻まれる。

心をズタボロにされ、トラウマが拭えず、対人恐怖症にもなる。

人間嫌いになるには、それだけ人に対する拒否や抵抗を抱く要因が人それぞれにあり、虐待やいじめや裏切りなどは典型例です。

ここで着目したいのは、人格や存在そのものを否定され、受け入れられない拒否をされ続ける経験によって、共同体の中で孤立する点

否定や拒否をコミュニティの中でされるほど、抗体がない状態で強引に孤独という恐怖を味わわせられます

これによって、目の前の親などを嫌いになったり信用できなくなるだけでなく、コミュニティから疎外される気持ちを抱き、特定の人ではなく人間そのものに嫌悪や疑いを抱きます

共同体の中で拒否されたことに強いフォーカスがあると、人ではなく人間が対象になります。

「人ではなく人間」なのは、自らが認識する範囲の人間全般を対象にしているためです。

この理解によって、原因と目的が表れます。

 

人間嫌いになる原因:共同体意識の強さ

家族、コミュニティ、学校、社会など、共にある集団の中に自分がいる(またはいたい)意識が強ければ強いほど、集団から疎外(否定や拒否)される経験は、特定の人ではなく自分が認識する人間全般を対象に捉えます。

共同体意識があればあるほど、周囲からの否定や拒否によって人間嫌いになると考えます。

  • 嫌いになるのは自己愛に基づく反発心であり、ポジティブな気持ちに分類
  • 不信になるのは自己愛に基づく自己防衛であり、ネガティブな気持ちに分類

陰陽共に内包するのが私達ですので、嫌いにも不信にもなります。

ポジティブに偏ると、自己愛によって人々を嫌いになり、自らの存在認知を見出せるように人間を否定します。

過剰化すると、人間への嫌悪は恨みや呪いになり、自分も嫌いになります。

ネガティブに偏ると、自らの心に嫌な影響、不利益がないように徹底的な防衛スタンスに入り、存在認知を消させないように人々を信じずに距離を図ります。

過剰化すると、人間への不信は恐怖や自己喪失になります。

周囲からの否定と自己愛による心の防衛が相まみえ、共同体から疎外されたと認識することで、「孤独感を味わわせられた」と恐怖爆弾を味わう気分になります。

もし共同体意識がなければ、周囲から不利益を被ると相手に干渉し返して排他するか、興味をなくして無関心になります(人間嫌いとは違う状態)。

 

共同体意識がある人は全体の中で個として生きる意志がある

共同体意識といっても、「みんなで頑張って生きよう、えいえいおー」とは違います。

共同体意識とは、

「自分は全体の中の一つである」

人々が組み合わさることで家族やコミュニティや社会などの全体が構成されており、そのために個々が重要であり、一人一人が確立されてお互いを理解し合うことで初めて全体の一部になる。

この考えが無意識でもある場合、全体の中で個として生きる意志があり、自分や他者の個を尊重するのが当たり前だと心が認識します。

個をなくす執着や排他や他責や集団依存へ向かわず、一人一人が自立して身近な人と尊重し合うことを好みます。

共同体意識は初めに個々の確立が必須であるため、レベルや段差を作る差別や区分けをせず、物事を平等に捉えます。

「人は人」
「人も動物も虫も植物も同じ命」
「この世は人間が頂点のピラミッドではない」

理想や空想や勝手に決めたルールではなく、現実を現実として捉える人は共同体意識があり、今の社会では人間嫌いになりやすいと考えます。

※人間嫌いになる日本の仕組みは、【嫌いで良かった】人間嫌いで気持ち悪い│日本ならではの原因と仕組み をご参照ください。

 

人間嫌いになる目的:共同体意識を消さないため

あらゆる周囲からの影響や干渉、逃げることもできず、自尊心が奪われ、自己肯定感が下がり、今日も拒否されて恐怖を味わう。

しかし、相手を攻撃せず排他せず、耐え忍ぶ道を選ぶ。

相手が怖いからではありません。個々を尊重する意志を貫く人は、苦しくても排他へ向かわず、自分と戦って唇を噛みしめます。

全体を平等に見る人は、辛くても差作りと差別でレベル分けをせず、意志を消しません。

結果的に周囲からの抑圧や受け入れられないことが増え、人間嫌いになり、信用もできなくなりますが、共同体意識は消えません。

自分を消さず、意志を折らず、意識を貫きながら、他を否定したり、疑うことで心を護る対処をします。

心は愛であり意志であり意識の源。

共同体意識を消さない目的があるために人間嫌いになるのは、愛を手放さない覚悟であり、自分を消さない勇気と同じです。

※人間嫌いである大切さは、人間嫌いでいいじゃない。動物好きな特徴から見える原因と人間性 をご覧ください。

 

人間嫌い・人間不信の優しい人

タイプ:優しい人と優しくない人

人間嫌いは優しい人が多いですが、タイプが分かれます。

人間嫌いのタイプ
  1. 心優しい人間嫌い
    …強さを持つ優しさ
  2. 知的で優しい人間嫌い
    …弱さを持つ優しさ
  3. 優しさを忘れた人間嫌い

一つずつ見ていきます。

 

①心優しい人間嫌い

強さを併せ持つ優しさ。

同じ生命体として尊重する結果、やられたことをやり返さず、相手を攻撃や排他せず、誰しもを平等に捉えます。

しかし、否定や拒否された経験から心を開いて関わる理由がないので、自己防衛として否定や疑いを活用して(相手を傷つける意志がない)、関わらずに距離感を取りながら生活します。

我慢や忍耐にて影を生きるように表舞台から離れ、肩身を狭めることが増えながら、生命体への根源的愛を手放しません。

このさまが顕著になるのは、人間は嫌いでも動物や自然は好き

動物や虫、植物や自然界など、同じ共同体として関わり合える生命体とは心を開いて接します。

本当は人間嫌いではなく、過去の影響と環境によって身を護るために嫌いにならざるを得なかった場合、心を開いて平等に関われる相手がいれば本来の愛を持って関わります。

  • 比較して上下勝負の区分けをせず
  • 優劣と正否にて差を作るレベル分けをせず
  • 人間都合で解釈を曲げるルールを善にせず
  • 大衆にそぐわない少数を悪にする思考停止の支配下に入らず

共同体意識を消さない目的を無意識に持ちながら、自分として生きる意志を貫き、平等に個々を尊重する認識を維持するさまに、強さを併せ持つ心の優しさが見られます。

消さないために人間を大いに嫌いになり、大いに嫌悪を抱き、大いに信じません。

大いに動物や自然を愛します。

どれだけ抑圧されても人間を嫌い、信用せず、動物や自然を愛し信頼するさまは、本当の優しい心です。

※優しさの詳細は、辛い経験は優しさを育む機会を与える│人の悲しみを知る優しい人 をご覧ください。

 

②知的で優しい人間嫌い

弱さを併せ持つ優しさ。

人間嫌いである場合、あらゆる他からの抑圧によって心は疲弊し、トラウマや傷にて自分を護ることに徹する状況が多くなります。

そのため、明確に強さを誇示することはできませんし、する必要もありません。

心の火を消させず、他からの影響がどれだけあっても自らと向き合うことが、人間嫌いな人の強さです。

しかし、せっかくの優しさがあっても強さを見出せなくなる人もいます

「人間嫌いはよくない」と自己否定する人です。

既存のルール、他者が決めた善悪に従う真面目さは、他者に利益を与える優しさにはなりますが、強さを消してしまいます。

消す場合、他からの影響や干渉を怖れ、自分をなくします。

個への尊重(自分を含む個々への共同体意識)も消えます。

その分、相手から嫌なことをされず、不安や恐怖がなくなり、善悪ルールに従いながら損害や不利益をなくす見返りを得ます。

頭脳を使った知的な優しさは、心の優しさとは別物です。

八方美人やいい人を取り繕い、無用な干渉をせずに相手を敬っていると演じ、明るく笑顔を振りまき、自己保身のために頭を使う方法です。

心と頭の優しさ、どちらも大切なものであり、人間嫌いの状況であれば不安や恐怖を回避したくなるのは自然ですが、自らとの向き合いがなくなると優しさは別物になります

我慢や自己犠牲や他者優先の優しさは、自らの抑圧とストレスを増やし、人間嫌いだからこそ不幸になる、そんな矛盾が起きます。

せっかく人間嫌いになったのですが、目的を喪失した状態です。

人間嫌いとは明確な個々の尊重であり、共同体意識を消さない愛。

これほどはっきりした答えはないほどに、嫌いなものは嫌いと認められる、自分という個の尊重そのものです。

※他人に興味がない人の優しさは、【日本の優しさ】他人に興味がない人が優しいと思われる仕組み をご覧ください。

 

③優しさを忘れた人間嫌い

最後のタイプは、共同体意識に翻弄される状態です。

人間嫌いである目的、「共同体意識を消さない」がなくなると、人間嫌いになった原因のみが残ります。

共同体意識の強さです。

しかし、目的がなくなると共同体意識があるとかないとかは、どうでもよくなります。

周囲からの否定や拒否、味わわせられた孤独感や恐怖心が記憶に残り、人間嫌いにならざるを得なかった状態から、進んで人間を嫌う状態に変化します

人間を喜んで否定することが自分の存在認知を際立たせる利益となり、否定は攻撃性に。

人間を喜んで疑うことも利益となり、不信は他者を蔑み落とす排他に変化します。

人間嫌いであることの目的がなくなると、「人間嫌いにさせられた負の記憶と現状」のみが残り、本来の優しさが消えていきます。

私がこの状態になった時、見える世界のあらゆるものを排他したくなりました。

人間全般を比較対象にして、自分の存在を確かめる自己利益にはまった状態です。

例えば、スーパーに並ぶお肉、毛が飛び散らず、叫び声も聞こえない、原形の跡形もない肉片に値札が貼られているさまは狂気。

野菜コーナーで山積みされる命は袋に入れ放題。「これが人間だったらやっと何か思うのか」と考えてやまない。

消費意識を持って自然を破壊しながら、ジャンクフードを食べては残し、我欲を満たすために他者と社会性に執着し、自覚せずに事実を誤魔化して満足を得続けようとするさまは、奪い取るバイキングと同じ。

人間同士はダメだけど、動物はいくら滅してもいい勝手なルールを鎧代わりに、今日も何かを滅してお金を得る仕組みを循環させ、現実から目を背けて笑顔で自己満足を得続ける。

止まることなく人間への反吐、気持ち悪さが生まれ、どうして平気で生きられるかわからない壊れた世界だと否定する私は自分をも嫌いになり、優しさの欠片もなく自分という存在を求めてやまない血吸うゾンビ化。

自らの存在を自らで認知できなくなった結果、自己愛の強さと防衛意識から自分のこと(自分が見てる世界)しか捉えられなくなった状態です。

「人間なんて嫌いだ」と思うようになった原因に留まると、否定と排他を多用するあらがいにはまる可能性があり、共同体意識を持つが故の翻弄にて自分も世の中もわけがわからなくなります。

これはどれだけ辛い経験をしたかどうかではなく、自分そのものに翻弄されるメンタルかどうかだと、私の経験からは理解しています。

※徐々に人間が嫌いになっていく時は、【恩恵がある】年々人嫌いになっていく│人との関わりを見つめる時が来た をご覧ください。

 

愛のある人間性&楽園への想い

旧約聖書にアダムとイヴが楽園から追放されるお話があります。

善悪の知識を得る果物を食べてしまったそうで、ポンッと追放。

苦しみと死のある人間界の誕生です。

人間嫌いの大きな特徴となる共同体意識は、全てを平等に捉えると同時に個々を敬い、全体の一部として自らを認識する意識です。

表現を変えると、物事の善悪や正否ルールのない真っ新な自由を駆け巡る平和であり、上下左右の差別をしないフラットな現実世界を見る心。

楽園追放物語りを引用すると、「共同体意識を消さないことは楽園に残る意志」と捉えられるかもしれません。

世の中で生きるために善悪ルールは大切ですが、法律と常識が違うように、従うものと自ら考えるものがそれぞれに必要です。

外部にはルールを貼り付けながらも、根底の意識や内面には自ら考えて創り出すものがあります。

物事に善悪で区分けや差作りをすることは、ルールという現実もどきが現実だと思い込む世界になります。

宇宙や自然の原理に則るのではなく、まるでルールを作る人間がこの世の神であるかのごとく所業、勘違いとうぬぼれによる自己世界を主張する押し付けや決め付け。

現実とは善も悪もなく、かといってあればあったでそのまま。

善悪があるならば両方を内包し、自も他も含めて現実となるのがありのままであり、区分けも差別もない真っ新な中庸を愛(現実)とも言います。

共同体意識を消さない意志は愛を手放さない覚悟であり、楽園に残るために自らを消させず、現実を現実のままに見る心を護る決意。

「私は人間が嫌い」と認めることは、人間嫌いになった原因を踏まえて、目的を持って自らを護り貫くさまだと思います。

強さのある優しい心、愛のある人間性。そんなお話です。

※人間嫌いの克服は、【極度の人間嫌いならではの生き方】克服は人間と関わらずに自分を取り戻す をご参照ください。

 

人間嫌い・人間不信は優しい人 まとめ

嫌わなければならない人もおり、信用してはならない人もおり、さまざまな人々が共存する未熟な社会に私達は生きています。

楽園追放が本当のことかどうかはどっちでもいいと思いますが、「正しい、間違っている」とルールを決められるほど人間は完成した存在ではありません。

だからこそみんなで変化させ続け、進歩し続け、法律や制約で共通認識を作り、切磋琢磨しながら考え合い、作り合います。

心のどこかでこのことを認識している人は、人間を大いに嫌いになる自分を大いに敬い、楽園と苦しい世界、それは愛を知る世界と愛を知らない世界の狭間にいるのかもしれません。

人間嫌いや人間不信の人にもタイプがあり、原因に留まるか目的を持つかの分かれ道があります。

私は原因に留まっていた時間が長かったですが、自らの状態や気持ちを認め、目的を持って大いに人間を嫌い、人間を信じなかったことで先へ進めました。

その後、私はアラスカにて野生動物と共存する野蛮生活を試みましたが、人間社会に戻った時には人間嫌いが嘘のように解消されていました。

「人間なんて嫌いだ!」と叫んだ時のどでかい角を生やしたムースの反応が、「は、何言ってんの?この自然界で人間がどうとか言ってるやつ、遅れてるぅ」と思えたから解消したのかもしれません。

人を信用できなくても自分は信用し、一度大いに認めると目的を持って次へ向かえます。

目的があるとないとでは、天と地ほど生き方が変わります。

好きがあるから嫌いになり、嫌いがあるから好きになり、どちらもなくなった時は無関心か愛か。

目的があれば愛の一択です。

そんな優しい心を表す物語。奇妙な考え方として読んでいただければ何よりです。

それでは、人間嫌いと人間不信は優しいというお話を終了します。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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