精神に重きを置くと、世の中は執着助長制度真っ只中。
そこで明確に自覚したい選択が、世俗にまみれて執着と共に生きることかもしれません。
あえて執着を増やす環境に身を投じる意識。
何が起きるか観察し、染まっていくさまを味わい、己を彷徨い、脳をまやかし、どう生きるか切磋琢磨する。
雑多な世の中をどう見るか。
ここでは、自分との向き合い、精神性を大切にする方へ向けて、執着に対する見方について考え方をお伝えします。
- 執着を手放す意識がある
- どう社会を見ていくか考えたい
雑多な世の中だからこそ育めるものがあり、意図的に苦しみを経験するからこその人間質があります。
奇妙な内容ですので、一つの考え方としてお楽しみいただければ幸いです。
Contents
あえて執着を増やす大切さ

あえて増やす『執着心』
誰しも多かれ少なかれ執着心は生まれます。
しかし、自然の中で規律正しく生き、身を清め、心安らかに、余裕を持つなど。
環境を選び、誓約を課し、条件を付けると、ある程度執着を生み出しにくい状態にでき、精神を育むための基盤作りになったりと工夫できます。
プップー!
トラックの煙が顔にかかり、人混みでどれが人間かわかりにくく、道を尋ねているそれは郵便ポスト。
あぶら汗が出てきた、空気を取り込みたくない、潜在的に身体は緊張している、人々の顔がのっぺらぼうに見えてきたと思ったら本当に仮面被ってる!
目を向けたくなくなる光景、俗世。
歓楽、遊楽、金のため、寂しさを拭うため、権利を奪うためになんでもする世の中。
心を失いながら心を満たすために承認欲求を満たそうとする矛盾は、まるで床の汚れを舐めながら、「非常に芳醇で誇り高き香りですね」と言っているソムリエのよう。
テイカーの社会構造、サービス特典と言われて契約したが全くその通りにならず、アップグレードにて料金はどんどん増えていく、話しが違う。
優しい顔をしている人間ほど薄汚い内面、少しだけ知性を使える人間ほど世間の評価はなぜか高く、まるでいい人とすら思われている。
世の中は幻想、矛盾、もとい執着で溢れています。
そんな世俗とあえて親密に関わることにどんな意味があるのか。
意図的な執着増やしは結果的に自らを高める重要な戦略ですので、理由を深掘りしていきます。
あえて執着を増やす大切さ6選

あえて執着を増やす大切さ:➀唯一の改善ポイントがわかる
執着心が増えるほどにエゴが強まり、損害回避の在り方に特化していきます。
我欲を主体にした見方が構築され、
・「自分がいい思いをする」
・「自分が嫌な思いをしない」
利他の心から離れた自己都合の世界にこもる状態、心が満たされていないさまです。
こうなると事実を認めるのが難しくなり、自己都合の幻想や空想、誠実さのない、尊重のない関わりが増えます。
不安と恐怖に向き合えなくなり、自己防衛を特化させて損害回避傾向が強まり、現実を見なくなります。
あえて執着を増やすことで、あえて現実を見ない自分を作ります。

この状態での改善対象は明確に『自分』になります。
最も初めにするのは、『自分を認めること』だと明確にわかります。
あえて執着を増やすからこそ、自分を見つめ直し、改善努力へ向かい、修行や鍛錬、成長のための意識を強めることができます。
現実を見る、見れる自分になるために執着心を増やすのは、精神を高める本質だと考えます。
執着や邪気から離れたとしても、元居た場所に戻れば即座に元通り。
だからこそ問題は自分にあり、自らを変化させる行動へ向かい、自力、自責、自律、自因の意識を高められます。
現実を認めがたい環境だからこそ、不安と恐怖をまざまざと体感し、克服対象を見定められる。
自己都合の世界から抜け出る行動が真にできるため、物事の事実を見つめ、認めることに繋がります。
あえて執着を増やす大切さ:➁肯定する心の育み

執着は煩悩のもとであり修行を妨げる厄介、という見方があります。
一方、捉え様を変えるとこうなります。

事実を見れない、現実を認められない状態を作る役目。
あえてこれらを作る意識は、それを乗り越えると知っている表れでもあります。
どんな世の中でも事象でも、あらゆる物事を認めることは、起きていること、起きたことをそのままにする意。
現実を歪めないありのまま、そのままをそのままに干渉しない現実の尊重。

老子の言葉、『無為自然』です。
無為自然に向かうプロセスの一つが世俗との関わり、執着の多い環境に身を起くこと。
飲まれれば不安と恐怖を乗り越えず、尊重も誠実さもなく、我欲と怠惰、誤魔化しと幻想の中、自分から逃げ続ける道に入ります。
負のエネルギーを心身から排出するために、執着心は怒りや悲しみをスイッチにして、否定、批判、悪口、陰口、文句、愚痴、泣き言を始めたくなります。
あえての意識が潜在的でもどこかにある人は、この状態に違和感があります。
無為自然への道の始まりは、現実を認められない自分を認めること。
執着を手放すのも、利他の心を持つのも、愛を育むのも、その媒体である自分を認めずしてなにもなり得ない。
物事を肯定できるのは、その自分を自分自身が肯定できているからこそのもの。
[自分が、自分を肯定する]
この俯瞰や客観が無為自然の道行きに入るための意識を作ります。
無知の知があって初めて知に向かえるのと同じ仕組みです。
自分を肯定できると、自分以外の他である外側に対象が広がっていき、執着が手放せるほどに肯定も広がります。
肯定のフリでも、自分に嘘をつくでも誤魔化すでもなく、世の中の事実、現実を認める。
物事、出来事を肯定する。
これは執着心を意図的に増やすからこそ構築できる心の細胞作り、心を大きくする方法です。
※執着しない人の特徴は、執着しない人のタイプ別特徴12選【サイコパス,回避性依存&悟り】をご覧ください。
あえて執着を増やす大切さ:③否定の質が高まる

肯定によって自分を認められると、事実味がよりクリアになります。
「グミのあの色ヤバイな、あの優しさには裏がある」
「乳飲料を牛乳っぽく売ってるぞこの会社」
「80%衣じゃん」
事実が見える人ほど否定心が増えるのは当然だと思います。
ただ、肯定できる人(執着心を手放せる)の否定と、肯定できない人(執着心を手放せない)の否定は天と地です。
否定する意図、中身がまるで違います。

執着を手放せる人の否定は事実を見つめ、改善や肯定できる状態へ向かわせるための“想い”があります。
否定は否定でも心があり、質量ギュウギュウのエネルギー、意思、気持ちがあります。
言葉巧みかどうか関係なく、否定心からの言動は心臓がぶるつき、時に恐怖をも感じます。
一方、執着を手放せない人の否定は中身がありません。

現象としての事実が見えている場合もありますが、意思がなく、気持ちがなく、代わりに邪気や邪念という負の思考や私利私欲のための企みがあります。
自己利益を得るための否定であり、不安を煽りながら何も解決に向かわない、向かっても一時凌ぎで継続性のなさが際立ちます。
はりぼての虚像であり、周囲のエゴや我欲を助長する害迷惑。
企みのこもった否定に肯定する気持ちなどなく、私利私欲を満たす我欲が届くのは不安になりたい人の脳を煽り、微量の刺激を誘発させることくらいです。
気持ちのこもった否定は肯定する気持ちがあるからこそのもの、届く人には明瞭に届きます。
※冷める現象は、「これでいいの?」執着を手放したら冷める現象【合図になる】をご覧ください。
あえて執着を増やす大切さ:④世の中を楽しめる

実相が見える人には、肯定と否定する『心』があります。
この心の大前提は、そのままをそのまま見る、認める無為自然、ナチュラルリアリティ。
「そういうもんだ、くそっ」ではなく。
「そういうもんだ、よし」
この肯定があると、「嫌だけどしようがない、そういうもんだからやるしかない」になりません。
「やるならやる、やらないならやらない」と明確に選択と責任が生まれます。
嫌々の我慢や頑張りをする必要がなくなるのではなく、必要がない世界を自分で創るようになります。
「ここで働くと決めたんだから、やるからにはスキルアップするぞ!」
「人間関係はややこしいけど、みんな一人一人に才能があって、素敵な部分がある」
「でもどうしようもない部分もあるから、それされたら思いっきり言ったろ」
世の中の見方が変わります。
映画館なんて行かなかったこれまでがあれば、「あるならある、行ってみっか」と試し、「やったことないからポップコーン食べながら観てみようかな」なんて。
「パチンコ屋ってどんな感じなんだろ?日本人はギャンブル好きだから、私もその血があるか見てみよう」
「うん、もう二度と行かなくていいや」とこれもまた経験。
そのままを認める心があると、億劫なく率先して挑戦、何事も試して取捨選択、反面教師で大いに否定し自己内省。
起きるあらゆる物事から得られるものが増え、一つ一つの出来事から吸収するものが何かしら見え、生きていることがイベントのように楽しくなります。

家の中にいる虫、窓から見える鳥、夜な夜な飛んでいるカナブン、実は屋根裏に住んでいる猫とタヌキ。
「この世はペットという関係性でなくても、自然と多種多様な生命と関われるんだ!」
多様な生物、生態、美しい自然があり、木々は風と共に音を奏でる一体化遊び。
娯楽施設も生活恩恵のスーパーもあり、この世は常に[他]との関わりで溢れており、一人でいるなんてことは到底できない。
「ブーン、バチッ」
「いてっ!頭に直撃かよ。おいコガネ、何してんだ?」
いつまでも頭の上を歩き続けているコガネムシ。

今日も私の人生の記憶になっている。
「地球は多用な生命との関わりで溢れているんだな、あぁ、生きてるって楽しい」
※我慢を手放すと起こることは、我慢という執着の手放し【手放すと起こる素敵なこと5選】をご覧ください。
あえて執着を増やす大切さ:⑤本当に好きなものがわかる

事実を肯定し、そのままをそのまま見ると、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。
嫌いだとしても、何かをきっかけに好きになり、反対も然りです。
物事が自然と流れていくように、心も認識も流れながら変化していくさまがよくわかるようになります。

あらゆる物事がクリアに見えるため、本当に自分の好きなものがわかります。
「私は着物が好き」
着物を見るのが好き、作るのが好きな人もいるかもしれません。
プロになる必要も、それでお金を稼ぐ必要もなく、したいならすればいい。
事実を肯定する世界では、プロもアマチュアも素人も関係なく、あるのは、「好き」「どれだけ好き」「これくらい好き」
これだけです。
好きだから極める人もいれば、好きだからただ見ている人もいる、好きだから夕方1時間の趣味にする人もいる。
「ただ好き」という事実をそのまま肯定するシンプルな姿です。
あえて執着を増やしたからこそ、あえて苦しみや辛さを買って出たからこそ、物事を肯定して見始めると執着の手放しと共に好きなことをする時間が増えます。
嫌なことも嫌だと認められるからこそ、「好きなことがあるから嫌なことも楽しめる」と工夫にも繋がっていきます。

本人にとって良いか悪いか、好きか嫌いか、受け入れるか拒絶するかが明確。
だからこそ“良い、好き、受け入れる物事”は、エゴだろうが欲だろうが、情に流されていようがなんだろうが取り入れる。
肯定できる人は社会で生きるも、インディアンのように自然の中で生きるも、僧侶のように規律正しく生きるも、楽しそうです。
何歳になってもなんでもできる、「今月はジムにでも行ってみようかな」
※幸せを見つけるのが上手な人については、【根源的幸福】小さな幸せを感じられる人の共通点3選&精神本質をご覧ください。
あえて執着を増やす大切さ:⑥静かな暮らしになっていく

執着に飲まれると静かに黙っていられなくなります。
寂しいので人のいるところにいたい、つまらないので誰かから利益が欲しい、何も用はないのにお金を使うなど、不安回避の活動が増えます。
人に自慢したい、承認欲求を満たしたい、支配欲がうずくなど、“騒がしさ”が際立ちながらその自覚を持てません。
あえて執着を増やしたからこそ、これら“騒がしさ”は自然ではない、馴染まない不合致だとわかりやすくなり、客観視にて自覚できます。
その事実を肯定して手放すと、
精神の高まりによって一つ一つの意味、所作を重んじるようになります。

「今どういう呼吸をしているか?」
「どうしてカップをそこに置いたのか?」
そして一つ一つの事実や現実に目を向けます。
「洗ったお皿の積み重ね方はこんな感じ」
「あの人は笑顔で歩いている」
「このナスの味は実に美味い」
些細なことでもそこにある事実を見つめ、感じ、味わい、経験側になっていきます。
日常にある言動や経験に目を向ける人は執着が少なく、我と乖離があるために客観視、冷静さ、落ち着き、穏やかさ、そして遊び心が溢れます。
小さな幸せを噛み締め、ふとした物事の意味、運命性を感じ、心の平穏を見出します。
誰に会うでもなく、パートナーがいれば二人の時空、毎朝のコーヒーを湖畔で噛み締めるように、生きていることが幸せそのもの。
それはとっても静かな暮らしです。
※執着と愛の理解は、【精神理解:愛の歪み】執着を手放す本質3選&方法 をご覧ください。
[あえての執着=修行]

修行する人には大きな目的や使命があり、遅かれ早かれ気づく日がやってきます。
目的を達成するフェーズに昇れるだけの技量や許容、人間性を身に付けるために自己を成長させる必要があります。
そのために仏門をくぐり、森にこもり、洞窟に住み、部族と生活するなど、いわゆる修行っぽい修行を選ぶ人もいると思います。
一方、瞑想の本質は場所や時間など環境問わず、いつでもどこでもできることであるように。
瞑想を山奥の静かでエアコンの効いた場所でできるか、野ざらしで蚊だらけの森の中でできるか、はたまた満員電車の中でできるかのように。
淀みも荒れも静寂もある大海に飛び込み、多種多様な人々・物事に揉まれながら自分を見つめることは本当に大切だと思います。
調子に乗っている人、自分を見失いながら誤魔化している人、着ぐるみを身に付けながらチャックがあるのを忘れた人。
病気の人もいる、身分で差別される、納得できる訳がない不条理、理不尽な環境。
・ブラック企業で働くからこそ
・欲にまみれた街だからこそ
・人混みを味わうからこそ
・便利で溢れた都市部だからこそ
・村八分する陰惨集落だからこそ
・仮面を被った人間しかいないからこそ
・見栄と競争と自己利益のみのテイカーの巣窟だからこそ
…
私たち日本人の多くはどこに住むも、海外にいくも、何をして生きるも選べます。
にもかかわらず、意図してドブ臭いヘドロの中に入る意志がある人は勇敢な修行者。
本質を見たい方だと思います。
障害や弊害の多い境遇や環境での実現には、これまでの認識とは違う新たな世界の広がり、心の細胞増やし、真実の開拓があります。
探検家、冒険者など、創造者にとってあえての執着はこれ以上ないほど重要。
自分を見失いながら切磋琢磨し、工夫しながら生きることは強さそのものだと思います。
その強さこそに実相を見る眼識が培われます。
実相を見つめる心の育みは、周囲が何と言おうが結局楽しい。
※別人になる件は、【6つの楽しみ】執着を手放した瞬間『別人になる』をご覧ください。
最後に:あえて執着を増やす大切さ
日々が学びと成長機会で溢れている、そんな雑多な世の中は貴重な環境そのものだと思います。
私が海外を旅して気づいたのは、日々を有難く生きることの事実でした。
大きな経験も大切ですが、日常の些細な出来事一つ一つにかけがえのない経験があったりします。
その認識世界を作るためにも、あえての修行をされている方はいると思います。
肯定が難しい状態にいながらも肯定できることに本意があり、これができるまでには辛く痛い経験と、その乗り越えがあります。
社会構図を楽しむ外面として、執着の中でエゴに寄りかかって脳をまやかし、刺激を得ることでの楽しさとは似て非なるものです。
ドブの中であると気づかず幻想を見る楽しさと、ドブの臭さを痛感し、現実を認めて楽しめるものを楽しむ、この違いは明白です。
幻想の中は刺激的で一見楽しそうですが、現実の中での楽しさは一線を画します。
空騒ぎはなく、常に中身があり、おふざけがあり、遊びがあり、誠実で、尊重あり。
心が躍る楽しさです。
修行は心のため。
大海原に飛び出す勇者は、心を重んじ、心に生きる。
どれだけ辛かろうが、精神が壊れようが、心は死なない意志がある。
自分を信じて、今日も修行。
全ては事実を、現実を認める世の肯定。
みんなが求める普遍の欲求、遊びだと思います。
それでは、ありがとうございました。