対処・解消法

真面目な人は損するから次へ進める【適当のすすめ】

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旅をしながら多くの家庭にお邪魔すると、一方が怠け者で一方が真面目、そんなペアをよく見かけます。

片方はとっても働き者、外で働き、家事に働き、近所付き合いに親戚付き合い、毎週の自治会掃除もしっかり参加。

真面目な人ほど損しているように見えます。

蟻の法則【2:6:2】があるように、組織には真面目な人がいれば不真面目な人がいます。

真面目な人がいなくなればそうでなかった人が真面目にシフトして、【2】の部分を補います。

続くサイクル、ずっと損するポジションにはいたくありません。

そこで考えたいのは、損したら次へ進むこと。

ここでは、真面目の力を緩めて、適当を盛り込めていく、そんな考え方と構造をお話ししていきます。

  • 真面目な人が損する訳を考えたい
  • 真面目から適当にシフトしていきたい

どうして損するのか紐解きながらすすめる物語り。

一つの考え方として気楽になれば幸いです。

真面目な人は損する

「真面目」という役割

なんでも
なんでも
“真面目”は個人や性格だけでなく、役割にもなるのでやっかいです。

実直な人、誠実な人、優しい人、いい人、頑張る人、できる人

これらに該当する人は損する役割になりやすいと思います。

「この人は真面目だ」と役割を認識される、そんな環境では「不真面目」「etc」と認識される人と比べると圧倒的に頼まれ事が増えていきます。

「ごめんね、うちの店この時間だけ忙しいから助けてほしいんだ」

「忙しい仕事だけさせるなら、給料も高いんでしょうね?」と常識。

しかし、「いやぁ、他の人と違いを作っちゃうと…ね、同じでお願い」

三倍の業務量でも十倍こなそうとも、同じ価値とみなされる。

「じゃあやらない、プイ」となれば損しません。

が、いかんせん真面目な人ほど、「この人は困ってる、助けよう、この時間だけなら別にいいか」となる。

お願いは日に日に増えていき、断りずらくなっていき、我慢が増えていきます。

人間は役割を持つと、「仕方がないんだ、こういうものなんだ」と正当化し始めます

「仕事だから、どれだけ忙しくても終わらせないといけないんだ」

「社長だから、どれだけ冷たくても会社のために切らないといけないんだ」

「家族だから、お母さんができない時は長男がやらないといけないんだ」

役割は個々人としての認識を消します。

「息子ザンギエフ」ではなく、「やってくれる長男」

「営業の桜子さん」ではなく、「これくらいならできる従業員」

名前で呼ばない、個人の名前を認識していない環境ほど、個人や性格ではなくその人を役割として見ているため、平気で当たり前のように“利用”します。

役割である以上、真面目な人が転職しても別の真面目な人がその役割にシフトされ、同じことが繰り返されます。

人材不足になれば、上司や管理者、会社や家族など組織の代表者がその役割を請け負い、ヒーヒー言うことになります。

個人として認識されず、役割として認識されると損しやすくなります。

 

真面目は損する=正義の裏返し

どうして「損する」と思うのか?

なんでも
なんでも
認識を個人にフォーカスした場合、見出されるポイントがあります。

例えば、職場のご老成Xじいは断トツで給料トップ、ですが全く使い物にならない3軍。

ただ勤続50年、重鎮、文句言いたいけど言えない。

かたや入社3年目まだまだ若手のサボリジニGさん。

仕事はできないが口達者で他者否定が上手い、指示出しだけで仕事できそうに見える、ずるく暗躍して昇格。

これらは本人の功績や力の賜物であるため損とは思いにくいですが、ここに自分との対比・比較を持ち込むと、「私はあれだけやっているのに」「あの人はずるいことしたのに」とモンモンします。

アンフェアー。

平等を重んじる人、責任感が強い人ほど、「納得いかない=損する」になります。

他にも、自分の努力や頑張りが評価されないことへの不納得

正確に人を評価判断できる人がいないことへの憤り

頼まれ事が多いのにそのお返しがない不満もありそうです。

全てに共通していることがあります。

正しいことをしているのにおかしい、間違っていないのにおかしい。

※問題の本質は、損得以上に正義

「正しいことしているのに損するって変だ」

「正しいことしていないのに得するっておかしい」

[役割+正しさ]

これまでの内容から、役割だと認識される環境で正しさを糧に一生懸命するほど、「損する」という気持ちが生まれる。

学級委員長みたい。

朝早くから学校でみんなのために働き、家に帰っても行事のために資料を作り、クラスではみんなの前で伝えてもいじられ、給食で自分だけ好きなものが増える訳でもない。

内申書に書いてもらう、目立ってキャーキャー言われたいなど、事前に求めるものがなければ損以外の何ものでもない、なんて具合です。

 

真面目をやめられない?

仕事ができる人ほど、一生懸命に働く人ほど、努力できる人ほど、よく気づく人ほど…。

「労費に対する見返りが合っていない」と思えることが多い。

不真面目にさぼっている、手を抜いているのに評価されて得しているなんてのはよく見かける事象です。

なんでも
なんでも
「じゃあ、そんなに頑張らなければ損しないんじゃない?」と純粋に疑問を持つ坊主の少年。

一体何が問題なのでしょうか?

真面目な人は自分の在り方に真っ直ぐ、純粋

であるからにして、手抜きや全力を出さないこと、責任を持たないことに後ろめたさや罪悪を感じます。

後ろめたさは、エゴに基づくからか、信念が強いからか、原因は人によって違います

例えばエゴの場合、「真面目に生きろ、それが正義だ!」と幼い頃から親に固定観念を承認欲求と恐怖心を基にインプットされ、思考停止、意志喪失。

その通りにしていたら褒められ、期待通りにしなければ否定された経験にて、言われたようにする以外がない、またはできない。

一方、信念が強い人の場合、親に従っていようがそうでなかろうが、意志にて自らがすることに真っ直ぐ。

違和感が少しでもあればしない、やるからには全力、本気、「そうだ!」と想った以上は壁にぶち当たるまで突き進みます。

「そんなに頑張らなければ損しない」とわかっているならば、誰にだって真面目をやめる選択があります。

しかし、やめていないのであれば自分がしたいからしている、または言われたこと以外ができない状態が考えられます。

どちらも共通しているのは、選択肢がない状態

石のように在り方を曲げない、力んで生きている。

自分の現状の在り方から抜ける術を知らないと、真面目をやめられない可能性があります。

 

選択肢がないと真面目は損する

「それをする他ない」

「売り切れだから、あの誰も食べない臭まずラーメンを食べる他ない」

物に溢れる環境では選択肢は腐るほどあります。

しかし今も昔も、自分が自分をどう生かすかの選択肢は限られています。

なんでも
なんでも
どうして選択肢がないのか?

選択肢は経験に応じて増えていきます。

経験には現状の色を濃くする“深み”ともう一つ、他にも色があると知る“拡大”があります。

“拡大”は多彩で混ぜ合わせる創作、適応性と柔軟性を生みます。

真面目で損するのは“深み”へ入る一辺倒の人。

 

深みへ入る経験をするほどに選択肢がなくなる

経験したからこそ、「やっぱり私はこのままでいいんだ!」と確証を増しやすいのが深みインです。

深みへ入る人は切り替えが苦手な傾向があります。

一つにのめり込み、新しいものを取り込んだり他を受け入れるのが苦手。

その場に合わせて自分を作る、生み出すのが苦手。

自分を手放すことが苦手です。

自分を手放さないから意志はより強固に認識され、「強い信念がある」と自覚できる(近くにいさせられます)。

しかし、意志の強さは選択肢があって全力発揮できます

選択肢がないと意志に囚われる可能性があり、その囚われは思考がしています。

私はインドにて瞑想修行をすることがあります。

稀に見かけるのが、自分のやり方を教えてもらう環境でもする人です。

自己に囚われると自己の深みに入り込み、唯我独尊。

真面目はとても大切ですが、環境によっては邁進そのものが不真面目になります。

その“自己”はより鋭敏になるため、深くなるほど他人や他の環境はより合わなくなり、邪魔されたり嫌われたりと損が増えていきます。

※一人山にこもるなど、修行的にはナイスな道だと思います。

 

経験値がない場合も選択肢がないので損しやすい

なんでも
なんでも
シンプルに経験値がない場合、似て非なるものですが“深く行く経験”と結果は似ます。

誰しも子供の頃は経験がなく、何事も成果や価値を残すには全力で挑みます。

子供ほど自立がないため、他からの承認を求めて全力になります。

期待通りの結果を残せればいいのですが、どれだけやっても認めてもらえない、褒めてもらえない、喜んでもらえない結果。

「承認されない」という欲求不満がどんどん蓄積します。

報われないので、「仕方がない、こういうものだ、妥協しよう、我慢すればいい」と防衛対処へシフト。

精神喪失を防ぎ、メンタルを守るのが優先、経験はもうやめやめ。

我慢と防衛に全力を注ぐと、承認して欲しい欲求不満は内部でうずき暴れ続けます。

他者承認欲求を満たすために真面目にしながらも、それを自覚しない誤魔化しができます。

他のためでも自分のためでもない働き、やめることのできない動き、自らの行動を報う人が不在。

「なんのために真面目にしているの?」がわからないと損ばかりになります。

これまでの内容から改善の最重要ポイントになるのが、選択肢を増やすことです。

 

真面目から適当に

適当のすすめ

なんでも
なんでも
私自身、真面目だと思います。

働くとなればその仕事や分野を極められるように勉強し、研究を必ずします。

多角的に学ぶためにもたくさん質問し、資格を取りもします。

例えば、明らかな損や不公平を実感した会社員時代がありました。

「給料上げてくれ!」と上司に直談判を毎日していました。

「もうやめてくれ、普通に仕事してくれよ」と拒絶され続けました。

余裕のない環境では誰かが穴埋めしなければならず、年功序列のルールもあるため即座に評価も上げられない、平等性を出すのは難しい仕組みがあります。

そういうところほど無駄が大量にあったりするので、より穴埋めによる不平等は蔓延します。

その後、会社をやめて海外での旅を始めたのですが、その時とその後を比べると明確なまでの違いがあります。

経験が“拡大”の意味を持ったことです。

新しいもの、自分にないものを吸収する大切さ。

色を増やし、混ぜ混ぜ組み合わせて作る大切さ。

固着せず、広い視野を持ち、長い目線を持ち、柔軟にする大切さ。

その場その時に適応し、自らを変化させながら環境を尊重する大切さ。

何より、現状の自分を手放す大切さ。

「この環境だからだ」と環境要因で損する場合もあると思いますが、他は他、他人は変わりません。

自分を変える。

そのために、経験に拡大の意味を持たせるのがおすすめです。

適応性や柔軟性となる“拡大”。

これが適当。

現状の拡大は言い方を変えると、『適当』です。

適当は最適を狙う策であり在り方
※ベストや最大値、大きな結果を狙うのではない

舟に乗って釣りに行く、「大物狙うぞ!」とマグロを狙うのではなく、その海その季節その日に適した魚を狙うのが適当。

自分に適するため、周りがどうこう気にせずいられるとっても気楽な自然体です。

それでは、実際に適当にしていきましょう。

 

適当とは、真面目に手を抜くこと

「テキトーにちょこちょこっと誤魔化しときゃいいよ」とこれは不真面目であり無責任。

これではないので大きく線引きします。

なんでも
なんでも
適当には真面目が要ります。

大真面目に手を抜く、気楽にする、自然体になるのが適当です。

例えば、営業周りでサボるサラリーマン。

公園の駐車場で休憩して時間を潰すにしても、真面目にさぼるのか不真面目にさぼるのか違いがあります。

「くわー、よく眠れたー」とばっちし快調なのが適当です。

「はぁ、やっと夕方だ、今日も終わった、ふぅ」と気だるそうにさぼるのは不真面目。

適当は気楽で心地よく、嬉しい気分になります。

といっても、さぼること自体に後ろめたさがあると思います。

大切なのは休憩です。

手を抜くのはやる気をなくすのではなく、休憩を挟むこと、気を緩めること。

例えば、社内でデスクワーク、周りに人の目もあって席を離れられないなんてシチュエーションがあります。

真面目に働きながらも、1h業務に集中したら15分勝手に休憩するのが適当です。

自分に合わせて仕事の合間を作り、しっかり何度も休む。

休憩するからこそ業務が集中できる、となればやることはやっており、休憩もれっきとした働き。

「あぁ、時間なくなっちゃった、急いでこれやらないと!」ではなく。

「15分休憩も1h仕事に集中するための業務の一環であり、ちゃんとした仕事だ」とニッコリ納得。

気を張らない工夫をするのが適当です。

 

適当とは、「正しさ」に固着しないこと

なんでも
なんでも
適当にする際、邪魔になるのが「正しい」という固定観念です。

海外旅を始めた当初、ニュージーランドにて私は真面目に働いても評価されず、ペチャクチャお話している南米の人々の方が評価される現実がありました。

当時の私にとっては驚愕。

「私はちゃんと働いているのにおかしい」という不満。

正しさに囚われると正否にて縛り付け、自由とは程遠い息苦しさを自らに課してしまいます。

適当には思い込みや決め付けは不要。

重要なのは“今”であり、今この瞬間を認識するための身軽さ、自由度

適当はより俯瞰的で、全体を円滑に流動させ、周囲に楽しさや躍動を生み、雰囲気作りにもなります

自分は目立たなくても全体の効率や成績が上がる、チーム一人一人の力を引き延ばすなど、リーダー能力でもあります。

私自身、急がず適当に、正しさより楽しむことにフォーカスしたところ…

社長がすすめてくるので、一緒にビールを飲みながら仕事するようになっていました。

ちなみに、真面目に業務量を多くこなし、かつ適当にして気に入ってもらえると、ボスは最上級の喜びを表現し、相応の見返りもいただける『全て善し』状態になります。

 

適当とは、怒られる勇気を持つこと

なんでも
なんでも

適当に重要なのは手放しです。

のめり込むのではなく、フワっと飛んで全体を見るイメージ。

これには勇気が要ります。

なぜならば、「正しい」と思える自分を手放すからであり、遊ぶからです。

「正しさ」は固執であり防衛でもあります。

否定されても、「あなたの方が間違っている」と思えるのでメンタルを守るバックアップ付き。

一方、適当は自分にとっての自然体であり、世間的にも大衆的にも大人的にも「間違い」だと思われる可能性が高まります。

例えば、ある家では母親が忙しいからと長男が毎日夕食の買い出し、調理、配膳、片づけと全てを任されています。

真面目から適当にすると、天ぷらの揚げ方なんて衣半分着せときゃいい、食べられりゃいい。

すると、「なにこれ、ふざけてんの!」と怒られた。

不真面目な場合、「文句言うなら自分でやれよ」と手を抜き、「ちゃんと衣付いてないけど知らねぇ、これでいいだろ、ポイッ、ジュ」なんて具合ですが、

適当は、「あ、これ衣付いてないや、付け直…さない~、ジュ」とあえての衣抜きであり、衣カスでも申し訳程度にふさっと乗せればOKです。

適当は真面目な人から怒られます。

けれども、知ったことではありません

反省なんかしません、無責任ではなく遊びなので謝る必要もありません。

反省しないし謝らない選択をします。

もちろん反省したければ反省すればいいですが、自然体であり適応、柔軟、そこには自分の選択によって執り行われたプロセスがあります。

自ら選んで行為しているので、怒られたら怒られたであり、もはや怒られることに重きなし、どうでもいい。

適当は遊びです

人生は遊びであり、正しさなんて存在しないリアルな世界。

正しさが存在するのは概念であり思考による疑似的世界、そちらの方がリアルに思えますが逆です。

怒られ慣れた時、真面目と適当の混ざり具合は絶妙に微妙、善き塩梅と思いきやのそこはかとなくです。

なんでもいいってことですね。

 

最後に:真面目は損する

真面目にもスタイルがあります。

働かずに豊かな生活を作ることに一生懸命な人もいます。

フラフラしながら不食をひたむきにやっている人もいます。

カエルに餌やりをしながら、伸びた舌を真顔で触ろうとする人もいます。

適当には真面目が要ります。

自然体で、適応があり、柔軟な在り方は、意志を使う選択が要ります。

「私はこれから宙を浮く」なんてことではありません。

「私はこれから休憩し、その休憩も仕事の内であるとはっきり思うぞ」ということ。

芸術家やクリエイターの仕事は作業している時ではなく、創作に取り掛かる以前の散歩が仕事そのものだったりします。

適当は俯瞰的です。

成果そのものではなく、自分に合っているかどうか、その場にどう適応したいかの選択が大切です。

意志ある上で遊ぶ選択、手を抜く選択、「私がこれでいいと思ったからする」の全うが大切です。

そしてなにより、真面目が大切です。

真面目だからこそ、損する経験があるからこそ、次のステップとなるのが適当との交じり。

新たな拡大は楽しいものです。

ありがとうございました。

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