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頑張らなくていいと言われた時の解釈「頑張らないって難しい」

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「頑張らなくていいよ」

それは誕生日会の大きなプリンか、炙ったマシュマロか。

どちらにしろ甘過ぎる。

頑張らなくていいと言われた時、困っちゃうかもしれません。

なんせ、頑張らないとは選択ではなく、できるかできないかの行為です。

頑張らないことができれば苦労しない、できないから頑張る。

「頑張らなくていい」と言われて意味があるのは、張り詰めて無理をして限界間近まで来た人に一瞬のㇹっ。また限界まで走り出すのは必至。

ここでは、「頑張らなくていい」と言われた場合の解釈と、頑張らないようにするための理解をお伝えします。

頑張らなくていいと言われることを、ご自身のために活用する理解となることを願います。

頑張らなくていいと言われた

頑張らなくていいと言う真意とは?

「もう、そんなに頑張らなくていいからね」

優しいの?偽善かい?モテたい?良い人キャラ?恐怖心理?

私達人間はいろいろなことを考えます。

“頑張らなくていい”という言葉はとても優しいと思います。しかし、そこに優しさがあるかどうかは、頑張らなくていいと言った後のケア有無で分かれます。

頑張らなくていい、そりゃ頑張らなくていいなら楽ですしラッキー。
怠け者の私ならそうなります。

張り詰めて頑張りまくる人も、自分では歯止めが利かなくなった際に言われると安堵でㇹっ。

その後どうなるでしょうか?

私ならフニャフニャして猫みたいになります。頑張らない、もうふざけちゃう。

「家族のために働くの頑張らない、今日は夕日が沈むまで日向ぼっこニャー」なんつって本気。

頑張りまくる人は、モゾモゾして膝がガタガタし始めます。禁煙中の人のように。

「頑張らなくていい」と言った後に、頑張らなくていいの意味とその後の事を伝えない放置プレイは結構キツイです。

頑張らなくていいと言う場合、「どうして頑張らなくていいのか?」「頑張らなくていいならどうすればいいのか?」を伝えることが頑張る人への思いやりとなります。

 

「頑張らなくていい」と言う意味

“頑張らなくていい”の言葉にはいくつかの意味があります。

頑張らなくていいの意味
  1. 頑張る意味を間違えているよ
  2. 自分を大切にして
  3. 自分をコントロールして
  4. 心配しているよ
  5. あなたを思っているよ
  6. あなたに好かれたい

現状の頑張りを傍から見ていて違和感を感じるために、助言や思いやりとして伝える意味があります。

そのため、言う際には相手の人間性を理解した前提があります。

相手のことを何も知らずに言うことで、心配や優しさの偽善、好かれるための作戦など、企みを持って発言することもできます。

特に“心配”にて勝手に心苦しくなったり、悩まれている場合には、頑張っている人を気づかう行為にて、「頑張らなくていい」と言う自らが納得するために利用する心理の可能性があったりなかったり、あったり。

 

頑張り過ぎる人を思いやる人は、頑張らないためのケアも併せてしている

頑張るからには頑張る人間性があり、頑張りたい理由があるので、頑張らなくていいという言葉には現状を否定する意味合いもあります。

「今のあなた、ちょっと違うよ」

そこには、心配があり、干渉があり、押し付けがあり、助言があり、敬いがあり。

陰も陽もさまざまに意味が含まれる言葉ですので、頑張っている人を思いやる場合には、頑張らなくていい意味や理由を一緒に伝えることが大事です。

頑張らなくていいと思う理由や、頑張らなくても大丈夫だと思ってもらうための理解、頑張り過ぎている人を労わるための敬いとして、助言や応援や見守りが頑張らなくていいと言う際のケア。

 

頑張らなくていいと言われた際の受け取り方

「は、うるせー」

「え、ありがとう」

「それってどういう意味?」

受け取り方は人それぞれにあると思います。

上述のように、「頑張らなくていい」という言葉にはさまざまな捉え方がありますので、どのように受け取るのかわかりにくいものです。

ですが、共通していることが一つあるため、言われたことを自分のために活用できます。

その共通とは、頑張り過ぎている自分がいるということです。

人を思いやる発言か自己満足かは置いておいて、「もう頑張らなくていいよ」と言われることには、「なんか、辛そうだね」と見える現状があります。

許容オーバー状態が周囲に露呈しています。

「まぁまぁ、お茶でも一緒に飲みませんか?」
「うるせー、こんなもんいるか!ガシャン、パリンパリン…パリン」「はっ!ごめん!」

頑張らなくていいと言われたことは、頑張り過ぎている現状というリアルから、「頑張るの意味が違うかも」という気づく機会になります。

言ってくる相手の真意を理解する必要はありません。

言われたことを自分のためのチャンスにしたい。そんな内容がここでの主旨です。

※頑張っても報われない原因は、【報われない人生に疲れたからこそわかる】頑張っても報われない人と報われる人の決定的違い をどうぞ。

 

無理に頑張らなくていい

頑張らなくていいと言われたことを活用する

「頑張らなくていい」が思いやりの優しさであれば、「無理に頑張らなくていい」というものです。

許容オーバーの人に対して、「ほらほら、もっと頑張れ、もっとだもっとだ」と言う人はいますが少数派です。

筋トレや物理的な修行の際には、痛めつけることで筋肉が付くので、やれよやれよとはやし立てることが本人のためになる“優しさ”だったりします。

しかし、頑張り過ぎている人が物理的な痛めつけを追加されたらピーポーパー、ただ病院送りです。

なぜならば、鍛えている概念がないためです。

言い方を変えると、頑張ることに目的がない場合、頑張り過ぎても本人のためになる直接的な利益はなく、あるのは一つの気づきです。

目を覚ますと病院の天井が。限界突破で強制的に“自分の見失いに気づく”というものです。

この気づきがなければ同じことを繰り返してしまうかもしれません。

 

頑張っている目的が明確にわかっているか否かが重要

無理に頑張る場合は自分の許容を超えているので、続けていれば限界に達するのは自然なことです。

ですが、「なんのために自分は頑張っているのか?」という目的がわかっている場合には、限界に達する前に調整ができます。

目的を得るという自分の利益が頑張る行為によってもたらされるので、自分を苦しめるかどうかを求める目的と比較する天秤にかけて、調整しながら頑張ります。

この場合、「頑張らなくていい」と言われても自分が見えているので、「うん、ありがとう」「大丈夫、自分のために頑張っているから無理はしない」と余裕があります。

許容を超えている場合には、頑張っている目的が明確に分かっていない可能性があり、頑張らなくていいと言われる時は、“自分を見つめ直す機会にする”という活用法が見出せます。

頑張る目的が明確にわからない場合、「頑張らなくていい」と言われることを、“自らを見つめ直す機会”にすることで自分のためになります。

※壁があると言われた際は、壁があると言われるのは気づきの機会│壁を無自覚に作る心理と改善 をご覧ください。

 

頑張らなくていいと言われてもできない

頑張る目的がわからずに突き進むと猪突猛進になります。

猪の如くまっしぐら、木を倒し、森を駆けずり、木霊ケラケラもののけ姫。

この場合、「頑張らなくていい」と言われても頑張らないことができないと思います。

頑張らないとは自分を支配しないことです。

頑張るとは自分を支配せずに目的のために努力することです。

頑張る目的がわからない場合は、努力や気張るという行為を使用して自らを頑張るように支配していたりします。

頑張らないも頑張るも共に自分を支配しない前提があり、支配を取り払うと頑張らないことも頑張ることもできます。

 

頑張らないことは難しい

頑張らないとはとても難しいことです。

頑張らなくていいと言われても、五分後には頑張っていたりします。
「あれ、頑張りを止められない、どうしよう」と。

仕事場で上司に、「まぁ落ち着いて、そんなに気張って頑張らなくていいから」と言われ、お茶を飲んで休憩。

「ちょっと君、いつまで休憩しているんだい?」とつけこましてきたらぶっ飛ばしてやりましょう、なんて冗談冗談。

デスクに戻り、気を緩めて楽にやろうとしますがなかなかできない。

「キーボードをカタカタする速度を遅くして、ボトボト打ってみよう」
「トイレ休憩を10分間隔で入れてこう」
「あの人みたいに無駄話をたくさんしよう」

「できねー」と。

やろうと思っても自分の中で歯止めがかかる、頑張ってしまう、頑張らないなんて嫌だ、ぎこちない、苦しい、無理、ヤダヤダ。

これは完全に支配下の兆候です。

自らや他(他者や社会性のルールや常識)からの支配の中では、頑張らないことはとても難しく、支配を取り払う必要があります。

ここでわかるのは、頑張るというのは辛いことではなく楽なこと。

頑張っている自分だとすんなり認められ、他者から否定や批判をされず肯定や評価してもらえる利益があり、違和感も抵抗もなく頑張れる。しかし、頑張らないことなんて利益がない。

すると、頑張らないことを頑張るという、何がしたいのかわからないことに。

利益があると確証する過去の経験から、汗水垂らして頑張ることに抵抗がありません。それが、認識であり価値観であり自他からの支配です。

「頑張らないなんて不真面目みたいで自分らしくない」と思うかもしれませんが、頑張らないとは選択ではなく、頑張らないことができるかできないかの話です。

頑張らないと言っても、自らのためではなく独自欲求や承認欲求として、他とは違うことや他からの評価にて肯定されることを望む頑張らない見かけ行為もあったりします。偽りの演技は全く別の話ですのでここでは割愛します。

 

自分の支配と他の支配

頑張ることには、目的を持ち自分のために頑張る場合と、目的を持たずに自分のために頑張る場合があります。

両者の違いは“自分のため”という利益が、自分を大切にすることか、ルールに則って喜びを見出すことかです。

そこに支配されているか否かの違いが見られます。

頑張るの種類

  • 目的を持ち、自分を大切にする利益のために頑張る
  • 目的を持たず、ルールに則ることでの利益のために頑張る

自分を大切にする利益の場合は自らを敬う気持ちがあり、頑張る目的と、頑張る行為による苦しみや辛さを天秤にかけて調整します。

例えば、お金を稼ぐ目的を自分を大切にするために持って頑張ります。

仕事をたくさん頑張る場合には、過労やストレスと対価交換してお金を得るのではなく、身体や心を大切にできる環境を選んだり、努力の度合を猪突猛進ではなくより俯瞰的にします。

お金を稼ぐための頑張りがルールのためであれば、お金を得ることは自分のためではなく、「家族を養わなければならない」「ルールに反しない」「常識に従う」というルール順守の利益のためとなり、お金を稼ぐ目的が自分のためではありません。

すると自らの意志を持って頑張ることができず、何かに頑張ることをさせられる=他からの支配にて猪突猛進です。

ここでわかるのは、「家族を養いたい」「社会性に沿わせたい」などの気持ちではなく、自分の行為にあらがう他からの縛りによる支配があることです。

 

他の支配を抜けた後は自分の支配を知る

他の支配を手放すことで自分の好きなように頑張ることができます。

その際は、家族のために働くのであれば、家族を養うことが自分の喜びという認識にて頑張る目的を持てます。

しかし、自らの支配がまだあり、“頑張らない”ということはまだできません。

「お金を稼げば堂々と顔見せできる」「自信を持つことができる」「好きなことして何が悪い、良いじゃないか」と、既に自分の中に設定したルールを基準にした“自分のためという利益”を見出そうとします

“他”から影響されたルールや認識がインプットされた上で目的を持つことで、頑張ることはとんでもなくできますが、頑張らないことはできません。

自らの支配があることに何も悪いことはありません。むしろ、目的に反骨心や野心を含められるので、頑張るための動機作りを強くできます。

自らの支配を手放すことで、頑張るも頑張らないも自由になります。

その際は頑張ることで、「お金はまぁ、普通に好きなもの食べられる程度あればいい」「住む場所も山奥でもどこでもいいや」という具合に、自分や大切な人に合わせて頑張ったり頑張らなかったりになります。

※自由人への道の話と同じですので、自由になりたい人は意味を知る│自由に生きる方法は解放ではない手放し をご覧ください。

 

本当に無理に頑張らなくていい

最後にこれまでの内容から、頑張らない理解をお伝えして終了します。

同じ頑張る行為でも種類があることで、頑張らないことができるかできないかの違いが表れます。

自らを大切にするために頑張る人は緩くてキュッ、です。ノホーンとして、やる時はメッチャやるという具合。

ルールに則るために頑張る人は、則ることで他から認められ褒められという喜びがあり、さらに則らないことで否定や批判される恐怖を味わわない喜びがあり、多くの利益があります。

社会という他者との共存環境ではルールに則ることの利益が多く、自分を大切にすることは山奥に追いやられるような風潮があるかもしれません。

ですが、今の時代そんなことはどうでもいいと思います。他者のために生きるかどうかは選択です。

家族が大切であれば家族のために頑張ることが自分を大切にする行為です。そこには、本当に頑張りたいのかどうかの“意志”が明確にあります。

頑張る上で大切なポイントは、「それって本当に頑張るほど重要ですか?=自分の時間と寿命と労力を使用してでも欲しいの?」を知ることだと思います。

重要であれば重要、必要でなければ必要ではない。人それぞれで、自分にとっては紛れもない答えです。

もし自分の頑張る行為に“?”があるならば。少しでもある場合はそれが真意です。

それは、目的を持たずに頑張っていることを表すので、「頑張らなくていい」と言われることは合図であり機会です。

頑張ることは自らの努力と労力を使用し、さらに時間という寿命も使用します。その行為が自らのためなのか、それは本当に欲する喜びなのか、支配下での安泰なのか、自分らしいのか。

見つめ直し、意見と認識をはっきりさせる気づきの時間。

自分自身とは大切な存在です。少しでも頑張っている現状に違和感があれば、それは無理に頑張らなくていいと自らの意志が伝えています。

人間性を知っている周囲の人だからこそ、許容を超えている無理さ加減が見え、自らの支配によるコントロールの逸脱を教えます。

そのため、「頑張らなくていい」と言われることはとても大切な気づきの機会となり、自らを見つめるブレーキになります。

他者からの意見、嬉しくても気に食わなくても、その中から自分のためになる活用が見られることに真意があります。

 

頑張らなくていいと言われた まとめ

自分のことを知っている人から言われたかどうかが初めのポイントになります。

知らずに言われても、それが本人のための思いやりかどうかははなはな疑問なものです。

思いやりがあれば、心配ではなく配慮や応援や助言となります。

思いやりを持って言われた場合は、とても大切な気づきの機会となります。

できないからこそ頑張り、許容を超えるまですることで言われます。チャンスです、気づきです、見直しの時です。

生き方の基にあるルールや他の影響があり、他から支配されているのか、自ら支配しているのか、全て手放されているのか。

そんな自分を知ることで頑張るか頑張らないかの真意がはっきり見えます。

大切な気づきと理解がここでの内容にあることを願います。頭だけでなく体だけでなく心もありますので、あらゆるあなたを大切にされてください。

それでは、読んでいただきましてありがとうございました。

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

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