優しさなくして成り立たないのが私たち人間。
優しさは反発や抵抗を緩和させ、合わせる力。
合わせる力がないと起こるのは衝突、破壊、争い。
“お互いさま”がなければ、バランスが保てなければ、片方が優しくし、片方がその上で怠けて胡坐をかくことも。
優しくする側は我慢が増えます。
「私は優しくしているのか?一体何をしたいのか?もしかして何もされたくないだけなのか?」
ここでは、優しい人の我慢している内情を紐解き、そこからわかる優しさの中身をお伝えします。
- 優しい人がなぜ我慢するのか知りたい
- 優しさが何でできているか考えたい
優しさには欠かせないものがあります。
それなくして言葉の意味は別物になります。
より持っている力を飛躍させるためにも、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。
Contents
優しい人はなぜ我慢するのか

優しい人が我慢する理由
体力も時間も消費し、人によってはお金や精神も消費します。

例えば、相手の嬉しそうな顔を見るために毎日ご飯を作ってあげた。
しかし、毎日作るのは疲れる、忙しく、自分の仕事ができなくなる、何より相手は何もしないので不平等。
「今日のご飯は何?」なんて聞かれれば、「自分で作れ!」と内心思い始めます。
例えば、目の前で言い争いをしており、周囲が怖がり子供も泣いているので仲裁に。
沸騰状態をなだめ、落ち着かせ、話し合いに持っていき、なんとか一件落着で解散。でももう終電がない。
対価となる見返りがなければ“不納得”になるのは自然です。
一つの不納得、なにかしらスムーズにいかない心の違和感を皮切りに、優しくすることは疲れの蓄積、ストレス増加行為、負のエネルギーを心身に淀めていきます。
嫌々の行為の継続。
我慢です。

夫婦など関係性の継続、かつ離れるのが容易ではない状況ほど、少しの違和感から我慢は増え、優しくしたくないのにしなければならなくもなります。
「ボランティアじゃないんだよ」
「執事じゃないんだよ、お金もらってないんだよ」
「常識じゃないんだよ、尊重なくして成り立たないんだよ」と思えてくる。
関係性は悪化しながら表出しないので、床下で漬け込むようにフツフツと不穏な香りがしてくる。
前兆は硫黄のにおいか何なのか。
遅かれ早かれ爆発します。
優しさとは相手に利益を与える、または不利益を与えない働き。
他を想う・思う気持ち、“与える”行為でありながら、衝突や争いの緩衝になる“吸収”行為でもあります。
これらを一方的に見返りなく継続すると、不納得、疲れ、ストレスを増やしながら我慢して優しくすることに。
自ら与え、自ら吸収するという、一歩間違えれば犠牲になる行為。
「相手が喜んでくれる」と嬉しくても、そこに“不納得”があれば我慢になります。
“不納得”の大きな要因と考えられるのは、一方的、見返りがない、対価がないこと。
ですが、より着目したい根本的なものがあります。
※優しい人が消える理由は、【優しい人は突然離れる】いなくなる前の最後の優しさをご覧ください。
我慢が優しさになる

優しくしたがために我慢になる一方。
我慢することが優しさになることが多々あります。
例えば、「これもっと安くなるでしょ?ねぇねぇ」と客がたかってきた。
「え、それはちょっと…」と困りながら安く売ってしまう。

理不尽な要望を聞き入れ、自分が損失を出すことが相手にとって利益になる。
言いたいことがあっても黙っていれば静かで優しい人だと言われる、賢い人だとすら言われるように。
我慢できると周囲は好印象を持ちます。
働く行為に不納得があっても、[我慢する=相手の利益増加、または不利益緩和]
[我慢する=優しさ]になります。
着目したいのは、「どうして我慢するのか?」
我慢に流れる。
考えられるのは、我慢する方が楽、事が収まる、嫌われる恐れをなくせる、不安と向き合わずに済むなどがあります。
が、ここでお伝えしたいのはより根本。
面倒が嫌いであり、自分に嘘をつかないからです。
[優しい人が我慢する理由 = 面倒が嫌いな性格 + 自分に誠実な意識]
という考え方、紐解いていきます。
※優しいと思われる詳細は、【優しさのスキル】他人の内側に興味がない人は優しいと思われる をご覧ください。
優しい人が我慢する内情

➀[面倒が嫌いな性格]

事を荒立てない、衝突は起きない、嫌われる懸念をなくせる、本性を知られずに済む、変化せずにいられる。
これら全てに共通しているのが、面倒を減らせること。
わずらわしくて手間がかかる厄介事を減らせる。
「これ以上言うと面倒になる、から言わない」
「これ以上関わると面倒になる、から関わらない」
「これ以上話し合うと面倒になる、から話さない」
面倒を減らせることは、自分にとって嫌な事象を減らせるという損害回避策になります。
嫌なことを減らせる、かつ優しさとして周囲から好印象を持ってもらえる。
一方で、不納得を蓄積していく構図でもあります。
優しいフリにもなる

[面倒を嫌う]
「優しい人」という名札を得ることで、アイデンティティを補修し自己満や自尊心を補強したように思い込むのが容易になります。
相手のためではなく、「優しい自分である」というヴィジョン凝視によって自己保持を図れます。
[優しい=常識的で教養がある]などと捉えることで相手より上となり、余裕を示して優位性も持てる。
自己満足が行き過ぎると支配的になり、否定されたら攻撃的になり、被害者面するかモラハラする可能性もあります。
人によっては「優しい私」によって他を見下す、比較上の自己存在意義の見出し法にもなります。
ここでお伝えしたいのは、優しいフリや上っ面だけ仮面を被る類ではありません。
[面倒が嫌いな性格]だけでなく、[自分に誠実な意識]を持つ人です。
※優しいフリの詳細は、【いい人そうで実は自己中】優しいふりして人を利用する人の見抜き方 をご覧ください。
➁[自分に誠実な意識]

誠実さが表すのは、自分に嘘をつかないこと。
自分を誤魔化さない、誤魔化しても嘘をついても明確に罪悪を感じる。
自分に誠実な意識を持つ人は、心と向き合い、心に嘘をつかない人。
心を痛め、苦しくなれる人。
心を薄めずに護ってきた人、心の感受が生きているです。
心を薄めると優しいフリをする人のようになり、嘘をついても誤魔化しても何にも痛みを感じなくなります。
ここに、優しい人が我慢する紐解きがあります。
そもそもですが、日本で生まれ育った場合、誰しもが常に我慢していると思います。
常に抑圧と管理体制の環境があり、我慢できなければ社会適合は難しい。
ということは誰しもが優しい人なのかもしれない、と思えそうですが、誠実さが大きく関わります。
自分に嘘をつけない、つくと心が痛い、心の感受が死んでいない人は、認識も事実も誤魔化さない人は、嫌々の我慢を継続すると心、精神が壊れます。

嫌々の我慢は自分を意図的に苦しめる行為であるため、継続できません。
それを防ぐためにも、定期的に人間関係リセットに依存する懸念もあります。
自分に誠実な人は遅かれ早かれ我慢を継続できなくなり、面倒をなくそうと我慢に流れたとしてもある行為にシフトします。
許容です。
許容すると我慢は我慢ではなくなります。

外側からの様相は同じでも中身が一変します。
- 忍耐力
- 知性
- 献身
- 忖度
- 共感力
- 受容、寛容
- 思いやり
- 他者認識力
- 慈悲の気持ち
- 愛しい気持ち
優しい人は我慢ばかりしながらも、許容するために我慢とは似て非なるものになっていきます。
我慢は嫌々耐えることですが、忍耐力は耐える力。
喜んで耐える動機があり、自分のために耐えていると知る状態です。
面倒を嫌いながらも、誠実さによって許容へシフトするために優しい人になる、という見方です。
※誠実だからこそ社会構造や現代社会、邪気の多い環境にて心が壊れる経験となり、壊れる勇気があるからこそ許容へ向かえる、そんな考え方もできる
※心が壊れる要因は、【受けてばかりはご法度】優しい人が壊れる要因4つ『毒親+〇〇』をご覧ください。
ポイント:優しさは我慢か許容か

我慢の継続は自分を誤魔化し、自分に嘘をつかなければ(または自分を大っ嫌いにならないと)できません。
※またはその自分を許容できれば成せる
許容は不安や恐怖と向き合わずに誤魔化すのではなく、向き合って事実として認める、または受け入れるため、自分を誤魔化しません。
嫌なことでもしっかり負のエネルギーを発散してから許容する人もおり、その場合は文句が多くなりますが結局受け入れます。
優しそうな風貌有無は関係ありません。
口が悪くても、当たりが強くても優しい。
「嫌々あなたのためにやってます」という雰囲気はありません。
我慢でも人によっては相手に利益を与え、不利益を与えない働きであることに変わりありません。
ですが、大きな違いがあります。
・我慢…思いやりがない、自分のための優しさ
※「自分のため」を主体にしているテイカーから利用されやすい
・許容…優しく思いやりもある
我慢の場合、ルール従順、誰かに言われたことにずっと従い続けている可能性があります。
優しさであることに変わりありませんが、相手に意思決定があります。
相手が恩恵を受けたか、嫌なことをされなかったかどうか、「こっちが働いているのに、あなたが優しさかどうか決める」という矛盾。
不納得が生まれやすく、社会性や常識などをバックアップにした正当化や被害者意識、「これだけやってあげてるのにおかしい」と犠牲的になりやすい特徴があります。
許容は相手に意思決定はありません。
自分と他者の繋がりで決まり、どちらが決めるもなく、お互いが感覚的にわかり合うもの。
わかり合えなければそれまで、シンプルに許容がないだけ、「え、嫌だよ、そんなの受け入れたくないもん」とはっきりしています。
言う時は言う、従うかどうかの意志決定は自分にあり、自分の頭で考えます。
疲れるほど働いている、ストレスを溜めているかどうかの“頑張り”ではなく。
優しさには誠実さがあるかないか、自分を誤魔化しているかいないか、心を護れているかいないかの違いがあります。
※日本ならではの優しさについては、【日本の特性】優しいけど思いやりがない人の特徴と心理 をご覧ください。
優しさの中身『徳』

誰しも我慢している…けれども優しい人はこれが違う
我慢すれば優しいと思ってもらいやすい、周囲から好印象を持たれやすくなります。
いわゆる、外部が自分を決める状態ができやすい。
外部が自分を決めることに我慢すると、優しさはパフォーマンスになりえます。
一方、決められることに抗うと露骨さを避けた思考的支配、攻撃も出てきます。
優しさにはどうしても許容が要ります。
「許容とは何なのか?」
お伝えしたいのが、『徳』です。
優しさの中身を決める『徳』

・徳が高い人は優しく思いやりがある
・徳が低い人は優しくない思いやりがない
徳には嘘も誤魔化しも通用しません。
演技やフリに邪があればマイナスに働きます。
因果・業(カルマ)で成り立ち、行為という働きかけが重点になります。
そんな徳の高い人と低い人を表すものに、中国の思想家孔子の言葉があります。
「君子は和して同ぜず小人は同じて和せず」
by 孔子(論語より)
君子…徳の高い人、人格者
小人…徳の低い人、性根のひねくれた人
徳の高い人は仲良く(協調)するが安易に同調しない、徳の低い人は同調はするが仲良く(協調)しない意。
もう一つあります。
「君子は周して比せず、小人は比して周せず」
by 孔子(論語より)
徳の高い人は広く公平に人と親しみ、徳の低い人は特定のものとだけ慣れ合い、偏った小さな党派をつくる意。
これら孔子の言葉から考えたいことがあります。
『協調』の大切さ、『自分の軸や芯』を自らで保つ大切さ。
『固執や執着を善しとせず』、『不変を正当とする慣れ合い以上に経験を広げる』大切さ。
これらを要約すると考えられるのがこちらです。

『能動的経験則』の大切さ。
自ら考え、主体的に経験していく働きかけ。
許容に徳があり、徳に優しさがあり、優しさに能動的経験則がある。
優しい人は自分から考えて働きかけ、主体的に経験を積み重ねていくさまがあります。
固執や執着にて変化・改善しない状態を正当するのではなく、真逆。
固執や執着を手放し、自分軸を持ち、新しい経験を増やしていく行動、それをする勇気、強さがあります。
この積み重ねによって許容が広がり、優しくなり、徳も積まれていく、全て善し。
これが優しさの中身を決める仕組み、というお話です。
※優しさの本物は、【本当に優しい人の正体】レベルが上がっていく“中身のなさ”をご覧ください。
最後に:優しい人は我慢している
我慢なのか許容なのか、ぜひ見つめてみてください。
二つは見かけは似ており、中身が別物。
我慢は抑圧、隠蔽であり、内側にギュウギュウと押し込める自虐です。
許容するためにも発散が要り、負のエネルギーになるならば吐き出すために文句も感情表現もしっかりすることになります。
受け入れられるものから許し、受容していきます。
受け入れが増えるほどに優しさの中身はカラフルに光ります。
しかし、許容とはする・しないではなく、できる・できないであるために難しいもの。
そこには能動的経験則が要ります。
「もう嫌だからここを離れよう、嫌なことをされたから辞める」といった固執や執着、受動的、他人によって自らの言動が決まるのではなく。
自発的、主体的、能動的に経験を増やす働きかけであり、自ら考えて他に働きかける行動が大切になります。
そこには常に『強さ』があります。
優しさには必ず強さ、忍耐であり許容がある。
そんな理解がご参考になれば幸いです。
ありがとうございました。


















