生き方

【気づけばしている】人に期待しない方法の精神理解『期待の正体とは?』

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どうして怒るのか?
どうして悲しくなるのか?
どうして人を信じられないのか?

「人に期待しているから」が全ての答えだったりします。

執着の原料となる“期待”。

やめたいのはやまやまでも知らぬ間に、どうしても人に期待している。

自然発生的、無意識であることが多いので気づくのも難しいです。

そんな時は精神的な自己理解が得策です。

ここでは、「期待とは何たるか?」の精神探求をしながら、「どこにアプローチするべきか?」のポイントを突いていきます。

  • どうして人に期待してしまうのか知りたい
  • 期待しないために具体的に何をすればいいか考えたい

私たち人間は多種多様な複合体であるため、物事の原因を一つに特定するのが難しいです。

それが故にどう対処改善するかわかりにくく、成長という一言で片づけがちです。

一つに特定するというのは誰しもに該当しなくなることを意味しますが、特定によってアプローチの鍵が見つかりますので、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

Youtubeもありますので、こちらをご覧ください。

人に期待する人と期待しない人の違い

人に期待する人と期待しない人の違い

北斗
北斗
期待しないためには、両者の違う点を見出すとわかりやすくなります。

期待とは、当てにして心待ちにすること。

「旦那なんだから、優しくしてくれるものだ」
「今回の宝くじは一等の予感、お願ぇだ、頼む」
「あの人ならこの国を変えてくれるかもしれない」

期待するから能動的に活動でき、やる気を出し、不安と恐怖を回避し、人間関係を溶接できます。

上司が部下の仕事を期待するように、親が子の成績に期待するように、育成するための道しるべ、矯正にもなるのが人への期待です。

一方、期待しないとどうなるのか。

「あはは、きゃはは、仕事?ヤダね、今日は公園で泥団子ぉ!」

自由。

人によっては歯止めがつかない、何しでかすかわからない、見ていて将来が不安。

不安を感じるほど期待するのは当然かもしれません。

さらに、周囲の目を気にする体裁ケアや承認欲求があるほど、不安を拭う対処法になるので人に期待したくなります

逆で捉えると、周囲に期待してもらえたからこそ自らを枠にはめて、道を外さずにいられます

周囲に期待されたからこそ自分のやりたいようにできず、やりたいことがわからなくもなります

 

人に期待しないためには勇気が要る

人に期待しないのは他者に自由や解放を与えても許容できる人であり、それによって起こる結果を見守れる人と言えそうです。

“自由”とは言葉の響きはいいですが、自由を他者に与えることは心配の種であり、不安が増長され、膝がカタカタ止まらず、緊張して気が休まず、「あーどうしよどうしよ」と思考が止まらなくなります。

心配が多く、干渉が増えると、期待も増えます。

気づけば決め付けと思い込みが強くなり、他人を自己や社会ルールで縛り付け、本人の意思を尊重しなくなる可能性もあります。

人に期待する人と期待しない人の違いで目立つのは、干渉せずに見守れるか否か。

親子で例えると、「自分の子供を信頼して放っておけますか?」の答えの違いです。

ここでわかるのは、自分の子供や直属の後輩など、身近な人ほど期待すること。

「子供に良い学校に入って欲しい」
「優しい子だから人のために生きて欲しい」
「優秀な後輩だから認められる存在になって欲しい」

距離感が近い人ほど期待し、遠い人ほど興味がないので期待しないのは人間のデフォルト心理だと考えられます。

この距離感は一体何なのか、気になるところです。

 

相手に期待する=相手のことを知らない

北斗
北斗
距離感覚の近遠によって変わるのは、自分を相手に投影して見ようとする度合いです。

誰しも自分以外は“他”であり、他のことはわかりたくてもわかりません。だからこそ認識力や共感力を高め、相手側に近づいて理解しようとする努力が要ります。

私達人間は実際に自分で知覚し、認知し、経験することで、初めて“自分なりにわかった”を手にします。

経験や体験なくして、「わかった」すらありません。

自分が絶対的中心であり、自分の認識が物事を捉える全てであるため、目の前の他人のことはわかりたくてもわからない私達(するとわかったと思い込みやすい)。

「そのハンバーグ美味しそうだね、ゴクリ」
「うん美味しいよ、どれだけ美味しいかってこれだけだよ、フワー」と腕で丸を作る

そんなことされてもわからない、「くれよ」と、自分で味わって経験してやっとわかります。

「なぁるほど、こりゃ美味い」

これを禅宗では、自覚聖知と言います。

自覚聖知…自分で体験して初めてわかる、気づく

※他に冷暖自知という言葉もあります。
自分で体験してわかる意味+【自知…自分を知る、自分をわきまえる】

「距離感が近い人であるほど知りたい、知っているものだ」と思いやすいのが人間。

自分の見方を相手に投影、または押し付けることが起きます。

すると相手側の認識、見方や考え方、気持ちそのものの尊重がなくなります。

身近でありながら相手のことを知らない、そういう関係性であるほど期待します。

例えば、特定のプロ野球選手に興味がある人。

テレビで試合の放送を見ながら、「ホームラン打って!」と期待し、打たなければ「ちぇっ」と落胆し、怒ったり、ふてくされたり。

自分にとって身近で応援したいからこそ期待しますが、会ったことがなければ相手を知らない。

もし直接会って話す機会があると寄り添う気持ちが生まれ、実体験によって一方的な決め付けや無知がなくなり、期待が減り、信じて見守る気持ちが増えます。

 

人に期待する過剰例:私物化、支配、強制

北斗
北斗
期待とは執着の種、エゴそのものです。

“期待”を特定する上で、わかりやすくしてくれるのが過剰な期待をする人間関係です。

私物化する親子、ブラック企業、ストーカーなんかが典型例

他人を自分のものとみなした時、相手を理解する気持ちは限りなくゼロになってしまいます。

自分の思うままに相手を強要し強制し、支配して利用すらします。

もはや相手は自分なので本人にとって距離感は近い、しかし相手を知る気がないので到底理解に遠い、すると期待しまくります。

「モー、なんで言ったようにできないの!」
「今日までノルマ達成しろって言っただろ!」
「失敗なんて許さないわ、キーのキーのキー!」

知覚能力はあっても認識能力が乏しく、相手の理解はどこ吹く風か。

期待して思い通りにしようと強制し、まるでそれが愛だと思い込みながら自分限定の愛着プールを泳ぎ、執着心を強めて心配も増えていく。

執着が強まると過干渉、モラハラ、虐待、DVになってしまい、自制が壊れている兆候が表れます。

そこに自分などおらず、我の強い、エゴの強い、精神骨身の浮遊化が起こります。

 

期待しないための『正体』把握

北斗
北斗
これまでの内容から、期待の特定に近づいてまいりましたので、正体を暴きに向かいましょう。

①【前提編】不平等が期待を生む土台

『相手を知らないほどに期待する』

北斗
北斗
相手を知るのは過度に難しい行為ですので、方法がわからなければ歪んだやり方に向かってしまいます。

相手を知るために必要なのは、自分に対する固執の手放し。

相手を知ろうと相手にアプローチすればするほど、相手のことはわからなくなっていくのが人間であり、精神の難しい所です。

そのため、期待が多いのは相手に距離感を近づけるために頑張ろうとする状態が考えられます。

  • 相手を知ろうと頑張っている人
  • 相手に近付こうと頑張っている人
  • 自分の心を開こうと頑張っている人

ほど、人に期待します。

相手を知ろうとする方法が正しくないと期待は膨らむ、という考え方です。

私達コンプレックス(複合的)ヒューマンは、社会性と人間性と動物性を混在していますが、一緒くたにはなりません。

会社での自分とプライベートでの自分を分けるように、誰かと一緒にいる時と一人の時は別人になるように、さらに欲にまみれた自分もいれば愛に満ちた自分もいるように。

相手を知るには社会性ではなく人間味、その人そのものの内面です

私達の人間味は本来平等の上に成り立ちます。

そこに社会性やルールにて上下格差を付けたり、左右高低のヒエラルキーを張りぼて、自分が何者かのような舞台遊びをしています、仮想的に。

相手を知るためには平等な立場、対等な関係、バランスの取れた認識が要ります

これが自分と他が均一に繋がる状態です。

親子関係で上下ができた瞬間、期待が生まれます。

「私の子、私が育てた、私がご飯をあげた、私がお金を払った」

「Let’s payback time!なんて言いたくない、言わないのが優しさでしょ、でも見返りは求めるよ、自然と望むよ」

「こっちだって親の言うこと聞いてきた、嫌なことも我慢してきた、従ったんだから貰えるものは貰うよ」

「これまでお菓子買ってくれたじゃん、いいよって言ったじゃん、嘘ついたのはそっちだ、ストライキだ!」

「お姉ちゃんばっか新しい洋服買ってもらってずるい」「弟ばっか甘やかされて、少しくらい褒めてくれよ!」

・平等、対等がなければないほど“差”が生まれ、自他が繋がる人間関係の土台が崩れる

・平等、対等がなければないほど信頼と尊重は無、期待しないことが難しくなる

・不平等、不納得、不満足、疑心、見下し、蔑み、我欲、無知、怠惰、無自制…が生まれる

・コントロールがなくなり過干渉、心配と進み、強制、支配、利用と暗闇へ行くことも

不平等は信頼と尊重の人間関係、自他の繋がりを作る土台を破壊します。

ここにもう一つエッセンスを加えると“期待”が完成します。

 

②【条件編】不平等+〇〇で期待が生まれる

北斗
北斗

上述の不平等は、信頼や尊重を持つための人間関係の土台を壊す要因です。

この前提環境にプラスして、あることを追加すると期待が生まれます。

それは、見栄です。

人間関係の土台を壊す“差”は、主に上下・強弱格差にて発生します。

平等、信用、尊重のない人間関係、[自+他]の繋がりのない人間関係を生みます。

繋がりは思い込むことで保持するしかできず、社会性、ルール、常識、決まり事、我欲、依存、執着が関係性継続に必要になります。

「彼氏だから、妻だから、親なんだから、上司なんだから、契約上そうなんだから…」

これだけでは人に落胆し、興味を持たず、無関心を選択する人も多く、違う意味で期待しないことも可能です。

しかし、それでも関わった際に見栄を持ったら期待します

見栄は自分を下にしないように頑張り、上になるように頑張ります。

見栄は自分を卑下せず、価値ある存在とみなすために認識を作り、時に詐称します。

見栄はメンタルを守り、人間関係に優劣・勝負・上下を見出し、自分を何者かに仕立て上げます。

自他の繋がりがない前提関係で、見栄を持つと相手に期待します。

例えば、レストランで客として喫食する時、料理、接客、愛想を期待する。

「お金を払っているんだから、客だから」という前提によって上下関係を作り、自他が繋がる土台を壊し、見栄があるほど接客態度が悪いなど不納得があると憤ります

期待していることを意味します。

過剰化するとクレーマーになっていきます。

 

③【完結編】相手のために心を開かないと期待が完成する

北斗
北斗

見栄を言語化するとこうなります。

「自分のためだけに心を開く」「相手のために心を開かない」

自他を繋げる時、平等が土台にあると信頼を作ることができ、自他両方を敬う尊重があり、思いやりが共有されます。

自他の繋がりがあると、お互いに心を開き合った関係ができます

赤ちゃんと親が典型例です。

赤ちゃんは初めから心を開いて関わってくれるので、後はこちらが心を開けばお互いに繋がり合い、期待も執着も存在しません。

あるのはシンプルに守りたい気持ちであり、見守りたい思いやり、相手のために心を開く尊重(または愛を貰ったからお返しする平等な気持ち)です。

平等のない関係性で見栄を持ち込むと、言葉には表さずともこうなっているかもしれません。

「距離感を近付けたい気持ちはある、そして無関心になる気はない、でもあなたのために私の心を開く気はない、私自身のために私の心を開く気はある」

この気持ちがあると距離感は近く、関わろうとする動機も目的もある、しかし相手のために自らを労して嫌なことをする気はありません。

その嫌なこととは、自分の心を目の前の相手のために開くこと。

「自他を繋げるために頑張る気はあっても、勇気の要ることをする気はない」ことを意味します。

※この時、「相手のためだけでなく、私自身のためにも私の心を開く気はない」となる場合、心を開く動機がないので興味がないことを意味し、期待したくてもできなくなります。

北斗
北斗
見栄は心の防衛システムをエゴで代用する働きです。

見栄によって心を守り、傷を負わず、不安や恐怖を回避できます。

一方、平等性をなくし、上下格差を作り、自他の繋がりを難しくし、勇気を持ちにくくします。

勇気がないと待つことがマストになり、信頼、敬い、尊重、思いやりが持てなくなります。

見栄に飲まれた時、制御なく自動的に期待するようになり、自分が期待しているから怒る、悲しむ、裏切られたと思い込むことも自覚できなくなります。

相手を知ることから遠ざけるだけでなく、自分をも知れなくなっていきます

社会的には大切ですが、人間味としては邪魔モノ。

思考が手放せなくなり、優劣、勝負、上下の差作り認識が強まり、執着心が膨らみます。

以上から、期待の正体とは前提環境の破綻の上にある、相手のために心を開きたくない見栄、という考え方です。

 

人に期待しない方法

人に期待しない方法①:期待する自分と期待しない自分を分ける

期待とは執着ですので、私達誰しもがしていることです。

興味や関心のない人に対して期待する気がなくとも、親や子や家族、血やDNA記憶の繋がりがある以上は期待が生まれます

会社など対等な土台が邪魔になる環境では、期待とは時と場合に応じて必要なものでもあり、見栄なくして社会での従属を果たすのは困難にもなります。

そのため、期待する自分(社会性主体の自分)と、期待しない自分(プライベートなど人間味主体の自分)を分ける大切さがあります。

環境によって期待して問題ありません。

ただ、その自分を客観的に捉えて自覚すると役立ちます。

あとは期待しない自分を作り、環境と相手に合わせて使い分けられるようになるのが最善です。

 

人に期待しない方法②:見栄をなくす

期待しない自分を作るために、見栄をなくすのが方法です。

見栄とは心を守るためのエゴ。

「傷つきたくない、大切にされたい、不安と恐怖から逃れたい、嫌なことを味わいたくない」と防衛を固める意識。

社会的には活用的なものであり、相手が嫌な人、エゴの強い人であれば見栄がないと傷つけられるので大事です。

そのように観念化しています。

これをなくすには勇気が要り、恐怖の克服が要るので今すぐどうこうできる話ではありません。

簡単ではないので、「この人とは平等に対等に、上下格差を付けずに関わりたい」と思える人を見つけ、その人に対してのみ見栄をなくせるようになるのが大切です。

この人にだけは見栄をなくせるようにしよう」と決め、努力するのが期待しない方法です。

誰しもに対して期待しない自分になるのは困難であり、期待の構造上、環境如何で期待してしまうものです。

親とは上下関係の家庭環境だったならば、実家に帰ったら期待されるしするのは自然です。

それを変えるには親そのものの観念も変える必要があるので、それだけで人生二回必要です。

人に期待しないためには、「この人にだけは」と思える人を探し、見つけ出し、その人にだけ見栄をなくせるように努力することが方法です。

 

人に期待しないポイント:尊重

「相手のために心を開く」と決め、実際に行動できた時、期待しない自分が存在しています。

あとはそれぞれを自覚しながら使い分けると、自制が深まり、より期待しない自分を作りやすくなっていきます。

北斗
北斗
心を開いていない前提が私達現在人にはあり、特に日本に住んでいるとその在り方や見栄は顕著です。

そのため、心を開くことは自分自身のためであっても難しい人はいます。

「相手のために心を開く」ことは、自らの時間と労力を払いながら傷つくかもしれない怖いことなので、難しい。

これができる人は、『人を尊重できる人』です。

そのため、尊重を意識して人と関わると、期待しない自分を作りやすくなります。

人を尊重する人は相手のことを相手のために信じ、見守り、尊重し、期待しません。

他人に干渉せず、個々の在り方を敬い、本人がしたいことをさせ、失敗を恐れず味わわせます。

人を尊重する人は、自分の心以外に恐れるものはありません

恐れるものがないから見栄を持つ必要もなくなります。

エゴもなくなり、本当の優しい人になります。

そこにあるのが、愛。

社会的な偽りでも、利己的な誤魔化しでも、自己都合の歪んだエゴでもない、正真正銘の愛です。

そのような人々が増えたら素敵ですよね。

だからこそ仏教は期待しない、執着しない有難さと大切さを説くのだと思います。

 

最後に:人に期待しない方法

期待という名の執着の構造は複雑なものです。

「どうして勝手に他人を当てにして、自分の利益を得ようとするの?」と純粋に疑問に思えますが、気づいた時にはしてしまっている期待。

構造を紐解くと平等や対等のない前提環境があるため、自分一人では何とも解決が難しいものだったりします。

過去の継承であり、親からの躾であり、社会の在り方であるならば、期待するのは至極当然。

しかし、継承に自分の歴史を追加して、変化を加えられるのが私たち人間です。

人のために自らの時間と労力を払い、勇気の要る心を開く行為をする。

こんな素晴らしい善行は必ず自分のためとなり、相手のためにもなります。

難しい働きですが、他人を尊重する気持ちを育む先にあるのは、精神磨きの美しさと強さ、本当の意味での優しさ。

そんな進化を歩むために、一つのご参考になれば幸いです。

最後までありがとうございました。

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