悩み

【絶対自我の手放し】執着しないとは「適当に生きる」こと。

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執着しないようにすることが既に執着…

誰かからそんなことを聞いたかもしれません。

はたして本当にそうでしょうか。

私の理解ではそれが意思か意志かで全く答えが変わります。

さらに、あるラインまでは執着しない意識が大切であり、それを超えた場合にそれさえも手放す段階があるため、ラインの見極めが欠かせません。

なんだかややこしい、それが執着しないこと。

ここではシンプルに理解を深められればと思い、「執着しないとは適当に生きること」

そんな内容をお伝えしていきます。

  • 執着しないことの理解が難しいと思っている
  • どうすれば執着しないようになれるか知りたい

私自身や人々を洞察して気づいた“ある意識”の理解。

一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

執着しないとは

執着しないように、それが既に執着…?

なんでも
なんでも
執着、何かに心が囚われて離れない状態。

「もうあの人に未練なんて持たないぞ!もう…どうでも…いいんだ…ぐす」

力なく笑う顔、上を見ながらも目には涙が溜まっている。

思いが強ければ強いほど、「執着したくない!してはならない!」という囚われになっている。

思いが強くなくても、例えば悟りを開くために修行すること自体が道に囚われ、既に執着になりかねない。

こういった解釈があります。

執着を手放そうとすること自体が執着というのは一概ではありません。

ただ考えたいのは、この世が正しさも間違いもない世界だったら?

例えば真理の探究には、目指すべく明確な答えがありません。

「ダライ・ラマ法王のようになればいいんだ」はモデルケースや尊敬の対象になるけれども答えにはならないということ。

わからないものであるにもかかわらず、なにかそこにゴールがあるような、目指すべく何かがあるような認識。

これが執着になります。

わからないから執着を手放せていない以上、執着しないようにすること自体がわからない自分を認めていない、答えがあると決め込んでいる、それが正しいと思い込んでいる。

要約すると、

正しさや答えがあると思っていること自体が既に執着。

「仏教は宗教ではない」と創始者のゴータマ・ブッダは言います。

仏教は答えではなく光の灯、道しるべ、継承システム、探求心、思いやり。

だからこそ自分を重んじた時、その“わからない”の先を見れる人がいるのだと思います。

わからないならばわからない、何をすればいいかわからない、だからがむしゃらに生きる、だから失敗する、だから教えを乞う。

でも、教えてもらってもそれはその人にとっての答えかもしれない、自分にとっての答えかわからない。

執着しないようにする、これは既に答えがわかっている人の認識です。

無知でありながらまるで正しさ、答え、行くべき場所があると決め付ける思いが既に囚われている状態、という理解。

[わかっていないのにわかっているつもり]=これも執着です。

 

執着しないとは誰かを真似して生きることではない

なんでも
なんでも
「執着しないように」と聞くと、「お坊さんのように生活する、精神的に生きることだ」と思う人がいるかもしれません。

これも一概ではありません。

偉い人が言ったように質素倹約、慎ましやかに謙虚に生きると、外見上「っぽさ」がでますが、「それが正しい」と思っていると既に執着の中。

野球の偉人、王さんのように一本足打法を真似しても、同じように大記録を作れる訳ではありません。

誰かの真似事は上達や勉強として大切ですが、そのまま進んでも他人のレールであり、本質的には自分がしていることの真理や摂理に気づく、自分流の道行きがあります

「守・破・離」です。

自らの理解、気づき、創造なくして、執着から離れることはないと私は理解しています。

これらのない状態が無知、正しさ、つもり、〇〇風。

ゆで卵面したゆで卵風を入れているお弁当は一生執着弁当であり、だからこそ社会では大流行り。

執着しないためには、自分そのものが欠かせません。

私は不食を半年(実際にほとんど食べなかったのは内約二ヵ月)続けたことがありますが、ここで理解したのは物理的にエネルギーを吸収しなくなっただけで、大気や自然エネルギーを代替的に吸収したということでした。

口で食べなくなっただけ、というお話です。

何も食べない、これは執着していない訳ではありません。

執着しないとは、執着している状態を否定するものでも、その反対が正しいのでもありません。

「正しい、間違い」のない世界

正しさという戯言に囚われない

間違いという腐れ事に囚われない

正しさに矯正し、整えた理想の自己像、その仮想で生きないこと

間違いに強制され、抑圧された都合の自己像、その空虚で生きないこと

まるでそれが答えだと決め付けた概念、それによって見せられる疑似的現実を生きないこと。

例えば、「恥ずかしいからしない」となった認識に囚われない世界です。

「そっか、それじゃあこういう生き方はダメなんだ、これがいいんだ」とならない自分です。

 

執着とは、正しさ

なんでも
なんでも
これまでの内容から、執着の正体が少し視える化したように思います。

執着とは、正しい・間違いと思い込み、決め付けている認識、またはその世界や自己そのもの。

この世は執着の塊です。

私たち人間も執着の塊です。

正しさも間違いもないわかりっこない、わかるのは神くらい、その理解や仕組み構造そのものを神と言うのかもしれません。

ただ、「わかりっこない」というのが理解ではなく決め付けであれば、それは何もわかっていないのにわかっているつもりなので執着になります。

例えば、「他人の気持ちなんてわかりっこない、わかる訳ないでしょ」

相手の気持ちは相手にしかわからないというのは事実ですが、それに固執してわかろうとしない人は自ら現実を創造していく気がなく、正しさに留まります。

このことからわかるのは、執着する人は正当化して留まり終了していること

執着とは正しさ(や間違い)という解釈であり、自分は正しい(間違い)と思っていることそのものです。

例えばこんな人がいます。

「私は悟った」と。

静かで達観しており、見かけはそれっぽい。

これを正しさだと思いたい場合、態度が上からで偉そうなエネルギーを出すので、執着の多さは一目瞭然となります。

関わることはありません、災難が起きたら他人を押しのけて逃げていきます。

 

執着しないとは適当に生きること

執着の特定:『絶対自我』

なんでも
なんでも
その人にはその人の正しさがあり、とっても大切なものです。

自分にとっての正しさを理解していれば、指標にも道しるべにもなります。

一方、理解していればそれが正しいと思うこともありません

正しさを答えだと思い込んでいる、または理解していない場合、「自分が・は正しい」という意識が強まります。

これを私の辞書では『絶対自我』と言います。

執着とは絶対自我のことです。

【絶対自我とは:自分を正しいと思いたい意識】

「自分のことを絶対的なまでに自分だと認識したい欲求や縛りとも言える」

・存在意義や価値を自らで見出し、自己保持するための意識

・自分にとっての正義を糧に主義・主張する働き

・思い込みと決め付けにて正当化する働き

・自分を正しいと思うために他の否定、批判を好む

・エゴを多用して生存を図る

※エゴとは他によってあえて自分を認めようとする意識(記憶の集合体)

※次元で言うと三次元にエゴ、四次元に絶対自我、四~五次元に自我、五次元以降に超意識(魂)がある

絶対自我は主義的で、頑固で、自分を変えずに貫く意識でして、親からの植え付けでもあります。

正しさを糧に制約と制限に縛った状態、例えばルールや倫理観に従って生真面目に生きているのが典型例です。

戦いを生むのも絶対自我です。

少しややこしくなりますが、“自我”が私たち人間の中枢であり、バランスを図ります。

悟った自分もエゴの自分も把握しながら、調整しバランスを図るのは全て自我の働きです。

ただ、自我は絶対自我やエゴに飲まれて支配されることがあります、超意識にも飲まれます

自制を要するもので、絶対自我に飲まれるとエゴを多用するので、正当化に攻撃性や見栄が入り、モラハラやDV人間になりかねません。

人を見下したり蔑む、論破し出す、相手を配慮しないでズバズバ言う、傷つけている自覚がないなど、相手の気持ちがわからないだけでなくわかる気がない思いやりのない人間になります。

絶対自我とは別にエゴ(我)があり、これも執着です。

執着しないためにエゴの理解は重要ですが、絶対自我の理解は必要です。

最重要ポイントとなるのが、エゴを手放しても絶対自我を手放していなければ、執着していないつもりになるだけで執着していることです。

 

執着しないとは適当に生きること

なんでも
なんでも

これまでの内容は心について言及していました。

正しさや間違い、決め付けや思い込みに囚われず、無知に留まらず理解し、真似事ではなく自分の道に入るために気づき、創造する。

そんなさまには千差万別の道があります。

のことです。

では、心で生きるとは何なのか?

お伝えしたいのが、『適当に生きる』ことです。

適当は絶対自我の入れない領域。

無責任なテキトー、真面目系クズと言った類ではありません、それらはエゴです。

適当とは:

正しさや間違いを手放した世界

思い込みや決め付けを手放した世界

正義も悪も偏りのない世界

「心」と言われても絶対自我で生きている状態は真逆なのでわかりにくいと思います。

そこで、「絶対自我を手放して適当にする」がわかりやすいかなと思います。

 

執着しないために:方法➀「正しいと思いたい自分」を見つける

なんでも
なんでも
適当にするため(執着しなくするため)には、まず絶対自我を見つける作業をしていきます。

例えば、恋人に執着している。

適当になるには、「別れない方が正しい」と思い込んだり、こだわって固執している自分を見つけます。

一緒にいる際、「なんで私はこの人と一緒にいたいんだ?」と自問。

執着は選択の余地を排除する特徴があり、「恋人だから一緒にいて当然でしょ」と疑問を挟む隙間をくれません。

これが絶対自我です。

ちなみに、この自問したり疑問に思う自分が自我です。

なので意図的に自問して自らを暴きに行きます。

そこにいるのは「一緒にいるのが正しいと思っている自分」ではなく、「正しいと思いたい自分」です。

例えば、お風呂掃除をしています。

洗剤を使ってスポンジでキュッキュした時、「どうして洗剤を使ったの?」

「洗剤を使えば綺麗になる、そうに決まってるでしょ」

「知らぬ間にそれが正しいと思い込んでいる」

これが無数に私たちにはあり、これらを見つけていくと自分の理解が深まります。

「居酒屋行ったらまずはビールに決まってるでしょ、ちょっと後輩、いきなりサイダーって」

「あ、絶対自我だ!」とわかりやすくなっていきます。

ビールを飲んでカァッとかっくらう自分を絶対的に認識でき、潜在的な無価値観を見ずに済み、存在意義を見出して安息を得るなど、多くの不安恐怖回避や現実逃避の恩恵を得ています。

言い方を変えると、見たくない自分や認めたくない自分を見つける作業ですので、この初めの段階で執着を本当に手放したいかどうか、いわゆる意思なのか意志なのかがわかります。
※意思は頭、他の情報や干渉。意志は心、自らの覚悟や決意

 

執着しないために:方法②「正しくなくてもいっか」

なんでも
なんでも
絶対自我が特定されたらあとは手放しです。

「ま、正しくなくてもいっか」

「ま、いっか」

これができたら適当の領域に入ります。

「あれ、もう22:00だ、夜ご飯食べるの忘れちゃった」

「もうなんでそうなるの!絶対なにか食べて、このまま寝るなんて嫌だからね!」が絶対自我。

ちなみに、「ああ、あの人が突然来たからこうなったんだ」「あなたのせいだから!」となれば絶対自我がエゴを使っているダブルコンボ、極執着。

適当は、「ま、いっか、チョコでも食べて寝ようかな」

人によって適当のさまがあり、「よし、せっかくだから久しぶりの夜食ラーメンでも食べちゃおー」なんて人も、「このまま眠っちゃおう」の人も。

怪我したって、失敗したって、間違ったっていい。

「お風呂が沸いてると思ったら水!」

「今日は苦行だ!ジャポン!ひょえええ~」

「この料理、まずい!」

「でもなんか食べてるとハマりそう」

食べず嫌い、やったことないのにやらない、怖くてやらない、不安でやらない、全部執着です。

「やらなければならない」は絶対自我ですが、「失敗してもいいからやってみるか」は手放した状態。

誰かに寄り添う際、「間違ってもいいんだよ、失敗してもいいんだよ」と助言するのも手放しているさまです。
※「そう言った方がいいらしい」と思っている場合は絶対自我

絶対自我の手放しは適当でもありますが、思いやりにもなります。

 

注意点:力みをなくす=怠惰になる懸念

「とにかく掃除して綺麗じゃなきゃダメ、そうでない家は最悪だ」と自らを縛ると期待や心配や文句が生まれやすく、他によって納得や不納得な自分ができるというエゴにもなります。

なんでも
なんでも
ただ、適当になりすぎて一切掃除しないとなる場合、話が変わります。

「いいじゃんしなくて、これまでたくさんやったからもうやりたくない」

これまで頑張ってきたからこそやらない

これは適当ではなく放棄になりかねないのでご注意ください。

エゴの怠惰に飲まれた状態、プラス、絶対自我による正当化の一種です。

「正しさ」は思考的に頭を縛り付ける状態であり、適当はこの縛りを解くための力み抜きとでも言えるものです。

力んでいた状態からダルーンと一気に抜くと、「え、もうやりたくなーい」

執着をなくすには意志が要ります

実際に執着をなくしたい気持ち、心の想いが大切でして、これがないと物理上の力み抜きになるので風船が萎れるのと同じ。

ここで難しいポイントになるのが、執着をなくそうとする気持ちがなければエゴにて怠惰に向かい、より執着が深まるという。

「ま、いっか」が放棄(という名の怠惰や正当化)なのか適当なのかで道行きが真逆になります。

 

ポイント:できない自分も認める

なんでも
なんでも
放棄(という名の怠惰や正当化)なのか適当なのか、両者には明確な違いがあります。

「今の私にはできない、わからない」と理解して認めたかどうかです。

「ま、いっか」が放棄の場合、何も理解しておらず、何も認めておらず、これまでと何も変わりません。

適当の場合、「ムリムリ、できないからやらない、わからない」があり、「ま、いっか」となります。

適当は力みを抜き、怠惰に向かわず、自らを律します。

例えば、私はよくカフェに行くのですが、「いいお店だぁ」と思うところは絶対自我が少ないのでこちらも気楽にいられます。

「一人じゃそこまで手が回らないの、自分で水入れてね、掃除は昨日したからまだキレイでしょ」

一方、執着が強いと一人でも全部やろうと頑張ります。

「あれもやってこれもやって、すいませんちょっと待ってください、もう無理、なにこれやってらんない(ちょっと注文しないでもらえます)」

他にも例えば、「今日の試験に受かって、どうしても先生になりたかったのに、くそう」

「ま、いっか」が放棄であれば、もう二度と再試験に挑戦しなくなります。

適当であれば、その後に別のことに打ち込み、「本当に塾の講師になってよかった」などと心から想える別の新たな道行きがあります。

または、「来たるタイミングを待とう」と焦りも迷いもなく、十年後に気が向いたから再試験を受けている。

これは、「今の私ではできない、わからない」と理解して認めたかどうかの違いです。

できない自分もわからない自分も認めるからこそ適当になります。

陰陽で言うの部分、認めたくない嫌だと思える自分をしっかり認められる人は執着しなくなっていきます。

 

最後に:執着しないとは適当に生きること

適当には柔軟や俯瞰、その場その時に合わせる柔らかさがあります。

それは物事の移り行きを表し、常に変わり行く自然の摂理を物語ります。

この世に答えはおそらくありません。

適当とは答えのない在り方です。

「ま、いっか」

これは正しさ(や間違い)を手放した領域に向かうための言葉です。

そのためにも絶対自我の理解が鍵になります。

自分を正しいと思いたい意識。

これを私たちは誰しもが持っています。

そしてこの社会はこの意識によって成り立っています。

だからこそ執着を手放す人は街中から離れていきます。

しかし、絶対自我はいつでもどこでも手放せるため、街中でもジャングルの洞窟でもどこでもよくなります。

理解が深まっていくと、執着を手放そうしてもしなくてもどちらでもいい状態になります。

それはエゴに揉まれるのも、正当化に忙しないのも、悟るのも自然のように生きるのも全てを許容し、選択して領域を遊び謳歌する在り方。

これからの時代、執着の手放しは悟ることではなく、バランスを取ることになるかもしれません。

次元は別領域ですが、身の丈を知るという現実味があります。

私たちの中枢でバランスを取るのは常に『自我意識』です。

偏りをなくす方法が適当であり、自己理解の大切さがあると思います。

自らを正しいと思おうとする時、一コマ自らに吹き込んでみると、物事は変わっていく。

そんな考え方が一つのご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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