意味

身近な人の死ほど大切なものはない【死別のスピリチュアルな死生観】

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※本気で人生を変える方専用。

この世に断言できるものは数少ないですが、その一つとなるいつか必ず訪れる死。

人間の真理となる生死の死。

身近な人とのお別れとなる時は、辛く、悲しく、受け入れ難い気持ちが襲います。

そんな身近な人の死には、精神であるスピリチュアルな意味として、「学び」が存在します。

ここでは、身近な人の死にあるとても大切な意味をお伝えします。

  • 身近な人の死との向き合いとは?
  • 人の死にあるスピリチュアルな意味とは?
  • 身近な人の死を体験した時の気づきとは?

これらの疑問の紐解きにて、大切な人の死に潜む、残った人への多大な意味を知っていただく内容となっております。

辛い死と向き合い、大切な人との死別にて際立つ「生」を知るための、一つの考え方としてお役立ちできれば幸いです。

生死に潜む私達人間の強さへの道をご覧ください。

身近な人の死にあるスピリチュアル

身近な人の死との向き合いに「学び」

家族や恋人、友人や知人、人によってはペットや植物も家族の一員としての大切で身近な存在。

自らに訪れる死とは別の気持ちを体感することとなるのが、身近な人の死です。

思い入れがあればあるほどに死別にて感情が湧き、辛く、苦しい記憶になると思います。

「死」が訪れた状態は二つの意味を知る時となります。

「その人がもういない」という現実に対して、亡くなった人側の目線に立つか、残された自分側の目線に立つかが分かれます。

  1. 亡くなった人を想う目線(愛と恐怖を知る)
  2. 死を身近にして自らを知る目線(死生観の育み)

亡くなった人の目線に立つとは、自らではなく故人を主体に認識することでして、自らがどれほど相手を主体に物事を見て、感じて、考えて、想うかです。

相手側と自分側の目線を知ることは物事の理解を広げる学びとなり、身近な人の死には大きな意味があります。

 

身近な人の死によってわかる愛と恐怖

人との別れにて自らの愛と恐怖を体感します。

愛とは受け入れ、恐怖とは拒否を意味します。

人を想う愛を知り、自らを想う愛を知り、死を身近にした恐怖を知り、別れたくないと事実を拒否する恐怖を知ります。

愛と恐怖は、亡くなった人を想う目線を知る体感そのものだと考えられます。

愛によって人を想い、供養し、心配させず、起きたことを大切な経験として吸収し、亡くなった人との記憶にて自分が作られている自覚をし、事実を受け入れて先へ進みます。

恐怖によって死を身近に感じ、別れを拒否し、起きた現実に反発し、認めない自分自身を拒否します。

どちらも思考にて誤魔化せるものではなく、明確な体感と意思が伴う愛と恐怖を知る時となります。

 

死生観の育みとなる大切な記憶

亡くなった人との思い出は記憶に残り、自らの価値観や観念、生き方に在り方など、自分を構成する基盤の一部となります。

記憶によって私達人間はできており、「自分」だけで作られているものなどないと言っても過言ではありません。

あらゆる自分は他の産物、他の情報、他の命、他との関わりによって作られ生きており、これからも生きていきます。

身近な人の死との直面には、自分を構成するかけがえのない貴重な記憶となります。

これが死生観を育む経験です。

死生観は死を身近にすることで自分を知る目線の育みとなり、大切な人であればあるほどに「死」が大きくて重い貴重なものになります。

死生観を知ることは精神を育む学びとなり、人の死による影響を一切無駄にせずに吸収し、自らを成長させ、他者にも影響を紡ぎ、循環を作る繋がりになります。

人は一人では生きていない理解になり、生死の概念によってどれほど自らの在り方が作られているかを知ることができる、本当に貴重な学びです。

 

身近な人の死にあるスピリチュアルな意味

人の死と自分の死はどれほど違うか想像できないほどです。

自分が死ぬとどうなるか、どんな気持ちなのかは死んだ時にわかり、実際にはわかるかどうかもその時にならないとわかりません。

スピリチュアルな認知では、死ぬと肉体から意識が抜け、魂の記憶に戻ると言われます。

死ぬことでこの世の三次元概念から抜けて、思念と感情の世界(幽界)へ入り、その後に想念の世界(霊界)へ入る順序となります。

自らの死は死んだ時のお話ですが、人の死によってもたらされるのはこの世でどう生きるかの寿命までの時間の再認識です。

身近な人の死によって残りの時間をいかに使い、どうやって生きていくか、どんな心持ちで、どんな価値観や観念で生きていくか。

ここに大きく関わるのが死生観であり、別れの記憶や経験によって作られる精神です。

「お葬式を笑顔でしたい」と思う人や文化が世界中にあるように、愛を知り、人を想い、記憶を大切に自分の一部にすると、受け入れるという喜びを表現してお見送りし、お盆の際には笑顔で迎え入れます。

笑顔だから、愛だから良いということはありません。

恐怖によって拒否し、悲しみに暮れ、毎年亡くなった人を考え続けることも人によって大切です。

精神性というスピリチュアルでは、死によってもたらされる意味に良い悪いはなく、生を知る意味があります。

死によって生を知り、生によって死を知ります。

 

生死は常に一体で同時に走り出す

私達がこの世に生まれた時、あの世での人生が死にました。

スピリチュアルではあの世がホーム、元々住む場所です。あの世から一時的にやってくるのがこの世であり、死と同時にこちらで生を受けます。

こちらで死があればあちらに生を受けます。

これは概念ですので信じるか信じないかの自由なお話。

大切なのはこの世では自分以外の他者の死でも、自らの生に関わっていることです。

この世で自分一人で生きている人は存在せず、常に誰かや何かや自然や環境と関わり、作られ、作り、影響され、影響して生きています。

[自分+他=自分]によって存在している私達。他者でも身近で大切であればあるほどより自分のように認識され、身近な人の死は自らの死と同じようになります。

しかし、肉体は別々に存在しているために死の体感は伴わず、生死一体の精神が伴い、生の認知や生を明確にする経験となります。

これが一人では生きていないことの表れであり、「この人は自分と同じように大切だ」と思える人であればあるほどに、もたらされる精神理解は大きな「生」を教えてくれます。

※スピリチュアルの意味は、【スピリチュアルとは一体なに?】簡単に言うと意識。深掘りすると宇宙。をどうぞ。

 

身近な人の死を体験した気づきと精神性

身近な人の死にて学ぶ体験

少しわかりにくい内容だったかもしれませんので、私自身の身近な人の死を体験したことで気づいた、死との向き合いをお伝えします。

私がまだ小学生低学年だった頃におじいちゃんが亡くなりました。一番仲が良かった身近な人でした。

おそらく子供は幼ければ幼いほど誰しもが真理を無自覚に捉え、自然な認識にて物事を理解しています。

私もその一人でして、おじいちゃんが死んだから悲しいとは到底ならず、「バイバイ、またね」という気楽なものでした。

良いも悪いもなく、死生観や物事の見方に偏りがなくバランスがとれた自然なさまだったと思います。

しかし、身体の成育を重ねると同時に全く捉え方が変わっていきます。

 

生き延びるための共同体の片割れが死んだ時

私は家庭環境の影響にて少しユニークな生活を中学・高校生時代に過ごしており、生きるために本気にならなければなりませんでした。

ある身近な人と協力し合いながら、生きるか死ぬかの日々でした。しかし、結局身近な人の方が死にました。

これによって隠されていた私達の環境は公けになり、私は本気で生きずとも生きられる環境を得るのですが、なかなかもう一人の死を受け入れられずに過ごしました。

しかし、「私は二人分の人生を生きなければならない」という誓いを立て、何をするのも後悔なく生きるようになりました。

その後に執着もなくなり、恐怖の克服と共に死を受け入れ、自らの生を強く自覚し、死は常に隣合わせであることを知る記憶となりました。

私一人では到底この考え方はできず、もう一人がいてくれたからこそであり、死によって生きるための大切な理解を学ばせてもらいました。

一人では生きていないと明確にわかる体験だと思っています。

スピリチュアルな死後の世界を含めると、私ともう一人は生前に関わり方と死ぬタイミングを約束していたことを今では理解しています。

しかしそれは特に重要な理解ではなく、実際に無我夢中で死を知り、生を知って生きている事実が、身近で大切な人の死によってもたらされると考えられます。

 

身近な人の死は愛と恐怖を教え、死生観を教えてくれる

体験によってわかったのは、冒頭でお伝えしている「学び」となる、愛と恐怖です。

愛を持ち、大いに受け入れたり、嫌だと拒否し、事実との向き合いに大いに恐怖を感じます。

その愛が相手へのものであるか、自分へのものであるかは自覚しておきたいもので、自分へのものであれば恐怖が増大され、事実の受け入れが困難になります。

どんな状況でも生と死を意識する死別では、愛も恐怖も共に大切であることを学ばせてくれるのが死だと思います。

愛と恐怖は生死と同じで表裏一体の関係性です。

愛と恐怖を知れるからこそ、死生観を知れます。

生まれれば死が始まるように生があるから死があり、死を知ると生を知れるのは、愛と恐怖を身近な人の死に対して強く抱いたからこそだと私は理解しています。

受け入れに時間がかかっても、大いに悲しみ、大いに苦しみ、大いに事実との向き合いを経験することが、人の死を一切無駄にせず、記憶として自分の一部で生きる大きな力になります。

身近で大切な人の死ほど貴重で重要なものはないと思います。それほどに残る人に影響と力を与えてくれる出来事であり、自分を知る経験です。

※大切な人との別れについては、大切な人との別れに重要な意味がある│スピリチュアルな出会いと別れ をご覧ください。

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生死を知る精神性

身近で大切であることは、他者が自らであるように、自らが他者であるように自分を認識し、[自分+他=自分]が構成されます。

他の死によって自の生がもたらされる理解は、他者の命と死という経験を一切無駄にしない智慧であり、自らの中に存在する身近な人を敬い尊重し、記憶という自らの一部を大切にする在り方です。

この生死による理解には精神性という人間としての高まりがあると考えられ、生死によって私達は他者と繋がり合っていることがわかります。

死生観は生死を知るだけでなく人の繋がりを知り、自分とは何なのかを知り、この世の仕組みであり真理へ続きます。

 

生にも死にも偏らない精神性を学ぶ機会が死

陰陽思想での生死は、生が陽、死が陰。生が始まり、死が終わりの意味です。

生死は表裏の関係であり一体であるため、生があれば死があり、死があれば生があるのが偏りのない理解となり、バランスの取れた自然な状態です。

死ねば同時に生きるのが始まります。亡くなった本人も然り、亡くなった人を自分の一部だとしている人も然り、「自分」という他も含めた存在には生死が一体で付随します。

誰かが死ねば誰かが生きるのではなく、今も生きている人はこの世で生きる意味を強くします。

この世で生き続ける人は生を再認識することで死を知ります。今生きているのであれば今死ぬかもしれないのが自然の理解です。

それは生も死も愛でないことであり、恐れないことであり、愛でずに拒否せずにの中立です。

生も死もそのままにする自然なさまは、現実をそのまま捉えるさまとなり、今生きていれば生きることに全力になり、全力になれるのは誰のおかげかがはっきりわかります。

常に身近な人は記憶として生き、自分という存在を作り、今日も大切に生き、大切に死んでいくのだと思います。

※死に関わる無と精神の詳細は、【無になる材料がある】無の境地にある精神的な意味とは? をご覧ください。

【無になる材料がある】無の境地にある精神的な意味とは?無に至ることでの静寂と平穏。 「無の境地」と聞くと、仏教の悟りというなんだか崇高な意味に思えるかもしれません。 この境地、意...

 

身近な人の死にあるスピリチュアル まとめ

死が与える影響は多大です。

自分だけでは自分が構成されていない表れであり、人の死があれば自らの生は大きく始まります。

身近な人の死は人を前に進めるためのものだと考えられます。

しかし、前に進むためには留まる時間も大切です。泣く時は死ぬほど泣くとある一線を越えます。

辛い時は大いに辛くなり、悲しむ時は大いに悲しむ。

これは拒否という恐怖を大いに受け入れた意味となり、死生観の育みへ繋がり、生と死が常に一体である気づきになり、強さを得ます。

死への距離を遠ざけるのが今の常識かもしれません。しかし、生死とはルールではなく、思考ではなく、リアルです。

リアルとは自然です。

自然とは状態であり、生も死も状態です。

私達には意識があり精神があります。精神の根底には魂があり、魂とは記憶のことです。

記憶によって私達は作られ、この世では他によって作られていきます。

死を知ることは自分を知ることであり、自分を知るとわかるのは身近な人の大切さであり、今も記憶を共にする共同体であることです。

今を生きましょう。そしてその内に大いに死んでやりましょう。

その際には記憶は組み合わされた複合体として、あらゆる人々を含めた意識に集約され、今日も誰かが生まれる意味をもたらし、記憶を引継ぐ人を紡ぎます。

身近な人の死を経験された貴重な記憶と精神を大切にされてください。そんな一助となれば幸いです。

それでは、身近な人の死にあるスピリチュアルなお話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

『心理とスピリチュアルの学び場』

誰しもに人生を変える機会と選択があると信じています。

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