悩み

「特定の人にしか心を開けない」を「開かない」に変える精神作戦

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心を開けないことは甘えにも思われますが、実際のところどうなのでしょうか。

その答えは、特定の人にしか心を開けない内情を紐解くとわかります。

そこには自分との戦いに負けたかどうかの結果があり、心を開けない本当の意味が明かされます。

ここでは、特定の人にしか心を開けない意味を紐解き、どう心と向き合っていくかを私の体験理解から言及していきます。

  • 特定の人にしか心を開けない理由を知りたい
  • どうすれば改善できるか考えたい

心を開けないのは錯綜や迷いがありますが、「心を開ない」には錯綜や迷いがない。

「それじゃあ特定の人にしか心を開かない、にしよう」というお話が、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

特定の人にしか心を開けない

特定の人にしか心を開けない理由

一度閉じた心はなかなか開かない、と思いきや、一瞬でまた開いたりします。

なんでも
なんでも
私たち人間の心は複雑に見えながら、実はとてもシンプルです。

心を閉じる方法は、「拒否、拒絶する」(恐怖心)

心を開く方法は、「許しを出す」(受容)

一度閉じても許しを出せれば開きます。

しかし、「開けない」場合は話が変わります。

心の開閉がコントロールできない状態、心がどこかに行ってしまい見つからない、心を把握できない彷徨いです。

自分で心を開いたり閉じたりができないことを意味します。

心の開閉は自分次第ではなくなり、相手次第になります。

この自分を許してくれる、受容してくれると明確に示し、確証を提示してくれる、そんな特定の人にしか心を開けなくなります。

特定の人にしか心を開けないのは、自分を許してくれる、受け入れてくれる人がいる表しでもあります。

 

「心が恐れでいっぱい」だと心を開けない

なんでも
なんでも

過去の私がそうでした。

家族にも心を開けず、家ではほとんど口を開くことのなかった私。

小さな頃は保育士の先生2名(内1名は一日だけ関わった)と、おじいちゃんのみに心を開いていました。

そこに私の努力は何一つありません。

心を閉じ切った私、傷つけられる懸念しかないにもかかわらず、保育士の先生やおじいちゃんは勇気を持って心を開いて近付き、私を許し、受け入れ、愛を与えてくれました。

先生2人のことは名前も声も憶えていませんが、今でもはっきり顔と人柄、存在を憶えており、忘れることができないほどです。

なぜならば、大好きな方々だからです。

愛を与えてくれる人ありきの心の開き、私が心を開いているのではなく、開いてもらった状態。

まるでベッドに横たわり、自分では何もできないような。

特定の人にしか心を開けないのは、心が恐怖で凍り切っている可能性があります。

心は恐怖心で閉じ、受容の愛で開きます。

心を開けないのは恐怖で心が弱り、自力で勇気を出したり、頑張って奮い立たせたりができない。自己防衛特化になり傷つけられないことを強く優先するからです。

誰とも関わろうとしない、または攻撃的なアンタッチャブルになり、人を傷つけるようにもなります。

イメージは北極の雪吹く中、かまくらでガタガタしながら動けなくなり、身体がカチカチに固まってしまった。

「動けない、どうにもできない、くっ」

そんな時にパァーっと女神様のような登場人物がいないと何も起きない、そんな所に行った状況です。

 

生きることの辛さ、大変さ

なんでも
なんでも

心が恐怖に覆われていっぱいになった時、私たちはどうなるか。

闇へ向かい、悪へ向かいます。

他人への興味はなくなり、人への希望が消え、利他の愛を失い、利己的な愛にフォーカスし、人間を自分のためだけに利用するようになります。

人によってはその道を拒もうと頑張り、誤魔化しや嘘を多用し、自己否定や嫌悪に向かい、虚無化して精神を病む人もいます。

特定の人に心を開ける場合、悪と自己嫌悪に苛まれる環境にいながらも染まることを拒み、人への希望は捨てずに守り続けた意志があります。

これは人でも犬でも猫でも同じ、利己的な愛に逃げなかったことを意味します。

利己的な愛に向かえば、刺激や快楽に走り、欲望発散にて苦しみから逃れ、他人を巻き込んで辛さを凌げる。

逃げる道を選ばない人は徹底的に我慢し、耐え忍び、恐怖と辛酸を舐めて自己内部の拒否する心を泣き喚きながら味わい続けます。

毎日です。

人を許せれば、受け入れられれば、愛せれば心を開ける、けれどもそれには勇気が要る。

勇気は恐怖と対峙するための強さ。

しかし、耐え忍ぶ際に私たちは利他の愛、人に対する希望を守るために、徹底的に心を氷のように固めることになり、勇気を持つ余裕はなくなります。

負ければ楽、けれども闇落ちして悪へ向かってしまう。

それならば恐怖に先行優位にはたらいても、うずくまって一つを守り抜く方を選択する

だから絶対に負けない

引き換えに心はズタボロ、凍りつき、勇気を出すことはどれだけ頑張ってもできません。

徹底的に恐怖心で覆われた心は開きたくても自分では開けません。

しかし、人への希望は守り抜いたので、愛を与えてくれる特定の人には開けます。

 

心を開けないのは甘えかもしれない

甘えだって考えられます。

勇気を振り絞り、頑張って奮い立てば…。

友達になろうって伝える時のように、好きな人に告白する時のように。

誤魔化して、「別にそんなに好きじゃなかったし」と自分に嘘をつけば、告白できたとしてもそこに勇気はありません。

トラウマがあって心の傷があるから怖いうんぬんは関係なく、恐怖を乗り越える力、今の自分を超えるために勇気があります

恥ずかしいからとみんなの前でダンス披露したくない時、開き直って目を瞑って踊るのが勇気ではなく、「これが私の全てだよ!」と障害を乗り越えることに勇気があります。

勇気には必ず恐怖の乗り越えがあります。

恐怖なくして勇気なし、恐怖があるからこそ勇気も生まれます。

心を開けないなら勇気を持って開く努力と行動、そのための継続ができます。

それをしないなら甘えにも思えます。

 

甘えか甘えではないかの違い

なんでも
なんでも
この“甘え”とは何もせずにお煎餅を食べていることではありません。

自分を乗り越えるつもりがないこと、現状の自分を変えるつもりがない人です。

「つもりがない」

これは自分に負けて、さらにそれを認めずに逃げ続けているさまを物語ります

恐怖を乗り越えるつもりがない人は、誰にも、ジーザスにも心を開きません。

開いたように見える人もいますが、それは利己的な愛を撫でるための他者利用であり、自分を可愛がれる状況や利益、脳のまやかしやオキシトシンを好んでいるだけだったりします。

典型例は、魔性の女・男、サイコパス、ダークエンパスと言われる人々です。

そこまで極端でなくても例えば、傷つけられた記憶に執着し、相手を一方的な悪にして自分を正当化する(=恐怖と向き合う努力をしなくていい理由作り)ために、自己を正義側だと思い込む主義主張にのめり込む人もいます。

批判思考を強め、終末論や都市伝説を信仰するだけでなく、その邪魔となるものを排除する。

自分を聖人かのごとく思い込ませる、脳汁を出して疑似神秘体験をするために瞑想をするような人、信仰ではなく依存にてハマる人も典型例です。

エゴにまかせれば他を悪にして、自を正にする思考に飲まれればいいので楽。

悪の道は感情と欲望の赴くままにすればいいので楽、闇落ちとは楽な道なんです。

だからこそ善人になるのは難しく、いばらの道であり、本当になれた人は偉いんです。

甘えている人は恐怖(自分)を乗り越える“つもりがない人”であり、誰にも心を開きませんし開く気もない人です。

恐怖を乗り越えるつもりがあり、そのために自分と戦うつもりがあり、特定の人だけでも心を開ける人は甘えていません。

精神理解では、甘えていなければ現状の在り方、我慢でも逃げでも誤魔化しでもなんでも、全ては自分のために意味があり、自分の道を歩み進めています。

甘えている場合、あらゆる行為は自分から遠ざける材料になり、進むのではなく後退しているため、まずは戻すことが必要になります。

 

【人間関係の作戦】特定の人にしか心を開けない人

改善ポイント:心の受動

なんでも
なんでも
改善したいのは心が受動的になっている在り方です。

自分から心を開くのを恐れ、相手に心を開いてもらう“待ち”状態。

甘えでない以上は恐れることも勇気を出せないことも大事な経験、受動状態も心に変革をもたらすための材料集め(準備)になっており、現状が悪いなんてことはありません。

重要なのは、これまでの心を凍りつくしてきた恐怖の味わい、嫌な思いをした経験を未だ活かしていないことです。

恐怖やネガティブは、その反対の受容やポジティブを潜在的に知っているからこそ感じます。
※心地善さを知らなければ心地悪いと認識できない意

恐怖に恐れおののき何もできなくなる気持ちを知っている人こそ、許さない怨念を作るのではなく、人を許す気持ちを知っています。

心が凍り付いている人こそ心を開いた状態の自分を知っています。

これは恐怖やネガティブを経験した人の特権であり、甘えず、人への希望を守り抜いた(自分に負けなかった)人の秘めた意志です。

そしておそらく既に知っているかと思います。

自分が心を開いたら、直ぐに人を好きになることを。

改善は心に能動性を追加します。

 

最終目標:他者に希望を与える人になる

特定の人にしか心を開けない人は、恐怖を真に知る人です。

該当する場合、逆境に強く、窮地に追い込まれるほど人が変わるように鬼の一面が出て、本気になるとなんでもできる特徴があります(逆に何をするかわからない怖さもある)。

心が受動状態になるとこの強さは出にくく、自己表現も少なくなり、人から希望を貰う待ちになります。

しかし、心が能動になると自ら人に希望を与えられるようになります

それが自分に負けず、意志を貫いてきた経験のプレゼントです。

“能動性”

能動に重要なのは、「心から与える」ことです。

自ら他者に愛を与える、勇気を、希望を、豊かさを、学びを与える。

人への希望を絶やさず守り抜き、恐怖を知る経験をしてきた人は、年齢経過と共に人に希望を与える人になります。

何の心配も要りません。

自然とそうなっていくために欠かせないのが、如何に能動性を追加していくか

道行きが見えてきたところで具体策に入りましょう。

 

作戦A:「心を開けない」を「心を開かない」に変える

特定の人にしか心を開けない場合、関わる相手次第で一生心を開けなくなる可能性もあります。

なんでも
なんでも
これが受動の大きなデメリットでして、開くも閉じるも何もかもが相手次第。こんな不自由なことはありません。

とにもかくにも心の開閉コントロールがないと、関わる相手を本当に見極めて厳選しなければならないので生きづらく、人間関係リセット症候群になるなど友達ができにくくなってしまいます。

この綱渡り状態は今すぐに変えたいので、初めにおすすめなのが自ら心を開かないことです。

心を閉じるのではなく、「心を開かない」
※間違えやすいのでご注意ください

これによって心の開閉コントロールが育めます。

少し、心の仕組みにあるトリックをご覧ください。

【心の開閉は恐怖と受容にて作用するが、開きも閉じもしない中立がある】

  • 心は閉じるのは恐怖(恐れや危険の拒否拒絶する気持ち)が司る
  • 心を開くのは受容(許しや敬いの受け入れる気持ち)が司る

[心を開かない=心を閉じる][心を閉じない=心を開く]

[心を閉じる=心を閉じる][心を開く=心を開く]

心の開閉には中立があるため、心を開かないから閉じている訳ではなく、閉じる時は閉じる行為が必要です。

心の開閉コントロールがないと中立がなくなりやすいです。

開けるか閉じるかで極端になるので、人間関係は浮き沈みが激しく、他者の影響を受けやすく、気にしいになります。

「この人はもういいや」と思った時、閉じていないのに開いていないので閉じたと思い込むことも起きます。

主体的に能動性を追加するためにこの自覚がとっても大切です。

そして具体的にしたいのは、「心を開ない」から、「心を開ない(または心を閉じない)」に変える。

開かない、閉じないと決め、開閉どちらでもない状態の自分を自分で作ります。

相手次第で自分の心が決まるのではなく、自分次第で「私はこの人に心を開かない、この人には心を閉じない」と決めることを増やしていく作戦です。

能動性を追加する目的は、心の把握と心の作用を自主的に理解することです。

心の中立ができるとまるで他人に興味がない自分になりますが、それは心を閉じている訳ではありません。

「閉じている訳ではない」という自覚ができると、関わる時には関わる気持ちを持てるため、だんまりで人の目も見ないなんてことが減ります。

 

作戦B:特定の人に「心を開く」意識を持つ

心の把握が進んでいったら次の作戦、自ら心を開く活動です。

なんでも
なんでも

これをするのは本当に一握りの人にだけです。

誰しもに心を開く必要はありませんし、するべきでもありません。

具体的には、「自ら人を好きになる」

自主的に、自発的に、人を好きになる

この時まだ勇気は出にくいので、シンプルに人を好きになる気持ちを味わうのが大切です。

「私は職場のあの人が好きだ、あの性格が好きだ」

なんでもいいんですが、「好きだからどうにか形にしたい」という思考や企みは要りません。

ただただ、「好き」という自分の気持ちを自ら作り、味わう。

これによって心の“開く側”を把握できます。

作戦ABを日常生活で経験していくと、心の開閉の把握と作用の実感が深まり、他者に開閉をコントロールされなくなります。

日常的に育み続け、時が来たら最後の作戦です。

 

作戦C:心の気持ちを与える

最後の作戦は、自ら心を開いた気持ちを相手に与えることです。

大きな勇気が要ります。

なんでも
なんでも
心を開けたその特定の人がしてくれていたことを、人にする番です。

特定の人にしか心を開けない人は、相手が愛を与えてくれればそれにお返しする愛があります。

次は、自分から誰か他者に愛を、希望を、勇気を、豊かさを与えます。

これができた時、心を閉ざしていた時も含めたこれまでの全てのプロセスと経験が一本の線になり、気づけば人が変わっています。

正確には、心を閉じる前の自分に、心の開閉コントロールが追加された自分になっています。

勇気は恐怖を乗り越えるためのもの

恐怖は勇気を生み出すためのもの

両者は一心同体、補い合って存在します。

恐怖の味わいは勇気を持つための経験です。

それを人間関係に応用すると、恐怖は人に勇気を与えるための基盤だと言えます。

心にたくさんの恐怖を内包する人の特権は、人に勇気と希望を与えられること。

傷ついた分、人を癒せるようになるのが人間の強さ(優しさ)です。

これはプラスだけでなく、人に恐怖と拒絶を与えられることも意味します。

恐怖を心から与える人は、他者自身が勇気を持つための学びや育みの機会を与える意味にもなります。

これを仏教では閻魔大王と言ったりします、お地蔵様(一部)のことですね。

 

最後に:特定の人にしか心を開けない

私はあまり他人に興味がない人間なのですが、以前は、「他人に興味がないから私は心を閉じているんだ」と思っていました。

それは先入観を作り、本当に心を閉ざしたような気分にもなっていました。

しかし実際には、心を閉じても開いてもいない中立を作っており、ただ心の作用や在り方を把握していないだけの迷いと錯綜でした。

現実は思い込みとは全く異なり、中立だからこそ知らない人に関わる動機がない、だけれども少しでも接点ができれば店員さんと気楽に関わり、人間の温かさを共有する自分になれます。

誰しもに心を開くことはとても大切ですが、それは心の開閉がコントロールできてからでも遅くありません。

誰しもに心を開く必要はありませんし、心の把握なくしてむやみに開くのは残念を作ります。

心を開ける特定の人に着目し、その人には何があるのか、どんな力があるのか見つめてみてください。

私は保育士の先生への思い入れがあるのでこう思うのですが、保育に関わる人には勇気を持つ強い人が多いです。

日常的に傷つけられながらも人に愛を与えられる。

そんな人と関われることは幸運で、一生の思い出となり、成長の大きな材料にもなります。

「心を開ける人がいる」というとてつもない大きな事実を見つめ、お返しを広げていく糧にする。

そのためのご参考になることを祈ります。

それでは最後までありがとうございました。

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

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