生き方

【心から豊かさを感じるステージ】適当に生きると楽しくて幸せになる

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「真面目に生きるなんてバカバカしいな」

クレーマーに謝罪し、電話越しでも頭を下げる。今日もコールセンターの電話は鳴りやまない。

一区切りついて隣の同僚を見たら、「まことに、ガガ、申し訳ございません、ピピピ」と自作のホログラム音声をそのままお客様と繋がっている電話口に流している。

「見てよこの音声!お客さん気づいてないんだよ、これからはこれ流そうっと」

そろそろ適当に生きるタイミングかもしれません。

ということで、ここでは真面目にするのが疲れた人へ向けて、息抜きこそが本質であるお話をしていきます。

  • ルール通りに生きることが疲れた
  • 適当に生きる豊かさを知りたい

言葉の解釈によって中身が一変するため、『適当とは何なのか?』を明確にする内容となれば幸いです。

一つの考え方としてお楽しみください。

適当に生きると楽しい

適当に生きると軽くて楽しい

「僧侶の真似してモクモク唱えていたら、本物だと思われて法事してきた」

「鼻歌フンフフーンで歩いていたら、老夫婦に声をかけられてお弁当をもらった」

「菜の花の美味しい部分を食べ漁っていたら、通りすがりの人は笑ってくる、今日もみんな楽しそうだ」

なんでも
なんでも
適当は心に軽やかさ、気楽を追加する手法です。

悩み事は吹っ飛んでいく、ではなく、「悩んでいるのは悩み事ではないんだ、ハハ」とにやけるさま。

笑いながら縁側から裸足で飛び出ていきます。

軽やかな思考、気軽なメンタル。

一方、適当がないとメンタルは重く、物事も重く捉えやすいです。

小さな悩み事はこの世の終わり事、「あぁ、正社員になれないなんて、もう人生詰んだな」

例えば中学生時代、掃除の時間。

バケツとほうきでタカタカとドラムごっこ、隣のクラスでは丸めた雑巾とほうきで野球している。

体育館裏を見てみると、ブツブツ言いながら野草をバクバク食い歩いている人もいる、これは私。

真面目に掃除している人は思う、「あれ?これって掃除の時間じゃないの?」

「これじゃあ良くない、汚れた環境になる、みんなの心も汚れ、生徒はグレ、モンスターペアレンツが増え、先生は精神を病む・・・そしたらまともな教育を受けられず、あぁ日本に未来はない」

「家に家族よりもAIロボットの方が数が多い、一斉に違う言語で私に話しかけてくる未来が来るんだ、恐ろしい、あぁ掃除しなかったからだ」

「我々は何としても掃除を遂行しなければならない、ダダンダンダダン」

にならないのが適当であり、むしろ逆。

「今日の体育館マット巻き、具の気持ちってああなんだぁ、楽しかった~」

適当は重さを手放し、頭も心も軽やかにする手法、楽しくなります。

 

重くない生き方

なんでも
なんでも
[適当]の対極となるのが[真面目]だと考えます。

「この会社のたまに必要なんだ」

「みんなのためにこうするべきだ」

「世の中はこういうものだから仕方ない」

世の中には真面目な人もいれば適当な人もいる

この違いとなるのが、『重さ』です。

重いと失敗したら終わり。

仕事でミスしようものなら、あってはならないことが起きた、次はない、二度とない、終了。

この重さを構成する大きな材料となるのが、『縛り(制限)』です。

縛り(制限)が多ければ多いほど思考は重く、価値観や観念は固定化され、先入観と比較優劣が癖になり、認識が偏り無自覚に狭くなります。

抑圧、固さ、変われない状態。

自己発揮が難しく、才能や能力を活かしにくく、嘘や誤魔化しが増え、嫌なことが起きると対峙できず、損害回避のための防衛主体我慢と諦めと妥協が癖になります。

重みは心にのしかかり、メンタルは弱まり、精神虚弱化、感受過敏にもなります。

これを軽くするのが適当です。

「失敗しちゃった、てへ」

「次は気を付けてね、って私も失敗しちゃった、てへ」

そのまま一緒にお昼ご飯、仲良くなりました~。

軽い。

しかし、重すぎも軽すぎも好ましくありません。

「私は韓国人のアイドルグループが好き」

これが重すぎると、「あのグループを悪く言う人は許さない」と攻撃、嫉妬、怨念を生む危険思想になる人も。

軽すぎると、「私、あっちのグループも好き、あっちもあっちも…あれ、初めに好きになったのどれだっけ?」

もはや興味ない、「興味があったのは自分のことだけでした」というさまが露呈します。

重すぎても軽すぎてもジャングルで一人であればいいのですが、他者との共存社会では問題が起きます

バランスが重要になります。

対局で考えるのではなく、重さに軽さを追加する(真面目に適当を追加する)。

または、軽さに重さを追加する(適当に真面目を追加する)といい塩梅が見えてきます。

 

適当と無責任は違う

なんでも
なんでも
何事もそうですが、「適当」という音鳴りにはポジティブとネガティブ両方の捉え方があります。

人によってはいい響きではないと思います。

その理由と考えられるのが、一歩間違えると無責任になりえるためです。

適当は度が過ぎると無責任になります。

見かけは紙一重ですが中身は天と地、人間としての魅力も価値も圧倒的に違います。

無責任な場合、軽すぎます。

タクシーに乗っていて、「お客さんすいませーん、道間違えちゃったんだけど、もう営業時間終了だからここで降りてくれます?」

「え、コーヒーこぼした?そんなことあったっけ?ハハハ」と自分の失敗をもう憶えていない人も。

軽くて無責任は中身が空っぽと同義です。

風船が風になびかれて右往左往飛んでいるような。

膨らましてくれる人が必要、風がなければその場から動くこともできない。

一人で何もできない意味です。

適当は軽さですが、空っぽで何もないとは違います。

そしてもう一つ、無責任な場合は意思も意志もありません。

「チョリーッス」

自分の意見がない、知性がない、頭の使い方を知らない、すると問題対処できない、解決できない、他者にすがることになります。

意志がないので信念がない、自分軸がない、主体性がない、覚悟がない、勇気がない、物事を自分事にできません。

何より自分の力で自分を喜ばせることができず、物やルールや人などの“他”を利用・執着・依存する他ありません。

重い人とは捉え方を変えると地に足が付いている人ですので、この意味での適当には抵抗を感じる人は多いかもしれません。

ですが、軽すぎるパターンはここでお伝えしたい適当とは一線を画するものです。

 

[適当=野性]

なんでも
なんでも
上述でお伝えした『重さ』は縛り、認識の制限、鎧みたいなものです。

制限があるほどに認識は色形が整い、キレイにかたどられ、四角とか丸とか円柱とか、正しそうに見えます。

例えば、見せかけの美しい庭。

理路整然に咲かせた花と草、彩り豊かで近所の人も喜び、「まぁキレイ」と思えます。実際はそう思いたくなるさま。

社会という構成されたルール上では役立ちます。

しかし、「~しなければならない」「こういうものだ、こうするもんなんだ」という縛りにもなります。

適当とは制限がない状態、自由でありワイルド。

「~しなければならない」という縛り、思い込み、決め付けがない。

その場その時の思考・感情・気分で決まり、型枠にはまらない、過去に囚われない、「常識って美味しいの?」

玄関の前にでかい木が生えている家。

鳥が落としていった種がスクスクと勝手気ままに育ち、庭は多種多様な野草でカオス、芳醇ないい香り。

自然にできた水たまりにはおたまじゃくしがウジャウジャおり、その内ピョコピョコと蛙が飛び跳ねる、あぁ夏が来たかと。

自然をそのままにした美しさがあります。

種蒔いてそのままにしていたら自生する、適当野菜は味が天下一。

遺伝子操作した種に、計算による化学肥料の調合、ビニールハウス栽培でいつでも育つ、生真面目野菜は色鮮やかで形整うつるつる。

どちらが良い悪いも人それぞれですが、適当には良いも悪いもありません

ただただ野性。

自分の野性味、ワイルドネス。

野性に制限はなく、あるのは自然法則による秩序、生死(存在)への尊重と受け入れ。

そのままをそのままにして、そのままに対峙して、自らもそのままで在る。そんなシンプルな在り様です。

『適当』は人間になくてはならないもの、ではなく、人間に元々あるもの。

それをどう呼び覚ますかという見方です。

 

適当に生きると幸せ

適当になるには

なんでも
なんでも
『いかに自分自身が持っている野性を呼び覚ますか?』がポイントです。

この社会で野性味を出すのはちょっと難しいです。

冬に短パンで歩いている人をジロジロ見るのは自然だと思いますが、「え、意味わからん」とどうしても否定や見下しをしたい輩が一般的にいます。

「適当は間違っている」とどこか思っている。

常に認識に制限をしており、その自分が正しいと思っている

制限は不安と恐怖を回避する防衛策になっているので、手放したくない人は意図的に手放したくない状態にいます。

典型的なのは、察する文化、暗黙の了解、沈黙の拒絶、暗黒の大妄想、盲信の自己満足。

適当になるにはこれら[間違いだと思う観念、自らを正しさに置こうとする損害回避]を緩和する必要があります。

これらのポイントは一つに集約されます。

「わかったふり、わかったつもり」をやめる。

適当になるのは、「なんとなく解釈したつもり」を自覚してやめる。

「わからないものはわからない」とはっきり自覚すると制限は緩和されます。

実際に相手のことを本当に理解できている場合、あなたの心はその人の前では適当です。

しかし、理解できていない、またはしたつもりになっていると制限がかかっています。

制限がかかると、「こうしなければならない」が増えています。

それによって、「これが正解、あれが間違い」と思おうとします。

それによって、「私は正しい、私は間違っている」と思おうとします。

「こうしなければならない、なんてことはない」と心から想えると適当になれます。

例えば、目的も道行きも決めず、観光地ではない場所をただフラフラと旅行する。

たまたま見つけたカフェで休憩し、なんとなく辿り着いた神社でお参りし、偶然あった旅館に飛び込む、なんて具合です。

本当に物事を理解できていると適当になれます。

なにもわからないとわかっている状態は適当になれます。

「もうなんにもわかりません!」となる上で、「じゃあなんでもできるってことだね!」となればバッチリ適当人間が完成します。

 

適当は幸せそのもの

なんでも
なんでも
この世に制限はおそらくありません、生死ですら制限ではありません。

ほとんどの事柄は「わからない」を見ずにした空虚への恐れ。

空白を埋めるための決め事・決め付けは事実を遠ざけます。

適当とは本来誰しもにとって自然な在り様です。

・一生旅してたっていい

・正規雇用でなくてもアルバイトで暮らせる

・五年周期でやる仕事も住む場所も変えたっていい

・家族だから仲良くしなければならない訳ではない

・家族がいればみんなで協力して助け合える

・生まれた国に居続けなくたっていい

制限の撤廃は、自らに課している縛りの『手放し』と、意志ある『選択』です。

手放しと選択は心を軽く、気楽にし、豊かさをもたらします。

例えば、森を散歩しています。

「最近の世の中は情勢が不安定、一体どう対処していくか?」なんて考えて歩いていたら適当の真逆。

「森で考え事をしたい、癒しをもらいに来ました」という効果の期待は大切ですが、適当の場合はそれらを手放します

何も考えない、その森だからこその自分になる。

ただ感じ、制限をなくし、かつ自分を放棄しないので主観はある。

歩きたい道を探さず、感じるままに歩く。

無造作に生える植物、木々。

たまに見かける泥沼、鳥のさえずり。

風の通り道を見て、動物の物音を聞く。

「ガサッ」と音がする。

反応はする、けれども、「今のは猪かな?」なんて考えない、ただ聞く。

ある程度歩くと自然に出てくる鼻歌。

フンフフーン、フンーフフーフフーン。

もう完全に適当状態です。

落ちていた枝をブンブン回し出す。

野草をむしって味見、自然に体がペッと吐く。

たくさんある中でどうも気になる一本の木を見つける。

上を見て歩き、たまにこけて、そのまま地面の蟻を観察。

「痛っ」と植物の棘が脚に刺さり、へへと笑う。

適当は気軽で気楽、楽しい気分になります。

その状態は既に幸せの中

明確なまでの自分がそこにいながら、かつ森に自らを手放し、その場だからこその制限のない自分になっている。

適当になることは、心の底から豊かさを感じるステージです。

 

注意点:適当を許さない環境

昭和時代にはよくあったであろう事柄は、今では厳格に取り締まり、私服ボランティア風警察風が増えた世の中。

ルールがある、規律がある、学校では授業の時間だって決められている。

国語の時間に数学をしている、そんな人間がいたら授業の邪魔に…、あれ、ならない?

なんでも
なんでも
適当は邪魔になりません。

しかし、「これをしたら対価を与えますからね」という契約の上、または「自分の思い通りにしたい、これが正しいんだ、従いなさい」といった支配や独裁主義、全員をロボティックにする統一管理、没個性推進環境では邪魔になります。

いわゆる、尊重も敬いもない、何も見えていない、わかったつもり、または決められたルールによって成り立つ環境では邪魔者になりえます。

実際に問題点もあります

「同じ量、同じ速度で、同じように継続する」ができなくなります。

合理性や生産性が減り、現状維持はできなくなる、管理しにくい。

適当を許さない環境が日本にはたくさんあります。

環境、そこにいる人々は見極める大切さがあります。

そのために重さが重要アイテムになります。

環境や人々の見極めには、重さ(制限、制約の縛り)がある程度は要り、バランスが不可欠です。

例えば、職場では真面目、家では適当にする。

月・水・金は真面目、火・木・土は適当。

そして日曜日は大好きなホットドッグを食べる。

職場のジャイ子さんとジェニファーには適当、ブッチとシヴァ男には真面目に。

スーパーのお肉コーナーでは真面目な顔で買い物して、お惣菜コーナーでは適当な顔で閲覧、なんせここは芸術品の展示場。

臨機応変に、柔軟に、時と場所と場合に応じて重さと軽さを使い分けるのが、日本ならではの気楽さ。

表と裏の顔ではなく、真面目と適当の線引き、使い分け。

ほうじ茶をアメリカンなドデカマグカップで飲むか、中国の小さいティーカップで飲むかの違いみたいなものです。

違うか。

 

ポイント:許し

なんでも
なんでも
最後に適当にこれまでのお話をぶち壊します。

とどのつまり、これまでお伝えしてきた内容が適当かどうか、正直なんでもよかったりします。

本丸となるのは、自分を許したいかどうかです。
※許せるかどうかは縛りになりえるので、許したいかどうか

そしてこれは、自分を愛したいかどうかを意味します。

自分を愛すると、“わかったふり、なんとなく解釈したつもり”は手放されます。

わからないものは自覚し、わからないことをわかっています。

そんなことから、「これが私なの」と受け入れると適当になります。

適当になるとは、自分を許すこと。

真面目な自分は本当に自分なのか問い、「実は無理してる」とわかるかも。

「うん、これが私だよ」とわかるかも。

そしたらそれでいい、それを許せば自然と適当味が入り、気が楽になります。

どんな自分でもいい。

自分が自分かなんて問わなくたっていい。

「今日は本当にホットドッグを食べたいのかい?」と問いてみる。

食べたければそれを許せば自分を許している、もう気楽。

楽しさ、幸せが待っているのは自分を許した先、愛する先。

そこに適当がある、野性がある、そんなお話です。

 

最後に:適当に生きると楽しくて幸せ

真面目な人は自分の事のみならず、周囲や全体を考慮する人が多いと思います。

それをしないことに後ろめたさや罪悪があり、「個人としてはいいけど全体として良くないのでは?」と思えてくる。

それはそれで大切な在り方だと思います。

それをなくすのではなく、それ『プラス適当』にしたら超気楽という考え方。

険しい顔で陶芸してもいいけれど、たまにはフニャフニャした顔で作ってみてもいいかもしれません。

適当とは野性の呼び覚ましです。

野性には、「ふり、つもり」がありません。

あるのは純粋なる自己の全う、心の姿、思い込みも決め付けもない『それ』

私は海外を旅する際、目的地は適当に決めます。

なんとなく行きたい、目を瞑って指差した地図、『そこだ!』とそこに行きます。

最近思ったんです、宿の予約をしたら適当さがなくなったなと。

なので宿は直接その日に決める、でもいろいろ事前に見れるのも楽しいので現地で探す時間がない時は予約する、そんなスタイルに変えていこうと。

適当さは人それぞれです。

共通しているのは、わかったふりやなんとなく解釈したつもりを自分に対してしないこと。

「それは本当に自分にとって必要かどうか?」の問いではなく、「その在り方、やり方、生き方を許したいかどうか」

「その自分を愛したいかどうか」です。

そこに野性味があり、整った旨さではなく美しさがあります。

脳が喜ぶ在り方ではなく、心が躍る在り方があります。

そこに正しいも間違っているも、良いも悪いもありません。

あるのは許し。

そんな考え方、楽しんでいただければ何よりです。

ありがとうございました。

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