恩着せがましいので、「それ迷惑だよ」と伝えたところ。
正論に理論固め、倫理観を持ち出し論破を狙ってくる。
その人は世に言うモラハラ人間。
そんな人には明確に、「自分のことを正しい」と思っている特徴があります。
人の話を聞く気がない、相手を間違いにする、自分が絶対的だと思っている、難儀な関わりになる。
そんな人、対処したいものですが猿よりメンドー。
そこでまず行いたいのは、モラハラ気質の内面である精神構造の理解です。
ここでは、自分が正しいと思い込んでいる人を把握して手のひらコロコロするために、精神解剖していきます。
- モラハラ人間の内面を知りたい
- 支配されないために相手を把握したい
相手の理解は線引きになり、飲まれず、洗脳されず、支配されない対処になります。
そのためにも一つの考え方としてご参考になれば幸いです。
Contents
モラハラ人間の精神

モラハラ人間の精神
そんな私や人々を洞察すると、モラハラする人には共通点が見られます。

道徳心はなく、倫理観を研いでいる。
理論、ルール、常識、規則、法律、社会観念、教科書を把握している。
守るべき善悪の基準、[善、良、正、〇]、正論、道徳的な価値観を持っている。
心はないが観はある、なんてイメージです。
倫理観と正しさがあると、明確かつ無意識に持つことになるのが、
正義です。
これによって道徳心を持っているように自分を取り繕う、思い込ませる、自己洗脳も可能になります。
倫理観と正しさに支配されると、宗教にのめり込む人のように『絶対的なまでの観念』ができます。

「自分は正しい」
「それ以外は間違っている」
無意識に自分にとっての正義以外を排他することも起き、聞く耳を持たなくなります。
正当化マインドが勃発します。
特にお伝えしたいのは、倫理観を鋭く持っているからこそ、相手を責め立て、詰め寄り、傷つけ、無価値だと思わせるほどの攻撃性になることです。
正当化マインドが攻撃性を持つと、正義を糧に徹底的に責め、その自分を肯定します。
危険です。
この精神、着目したいとっても明確なものがあります。

アイデンティティがない。
心の開き方がわからない(相手の気持ちがわからない)。
傷つけられた際に反射的に傷つけようとする(自制がない)。
この状態を洞察して気づいたのがこちらです。
自他の心の距離感がバグっている。
自分にのめり込み、他者を他者側で捉える目線がない。
自分にしていいことは他人にしてもいいと思って違和感がない。
自己中心的になりながら、本人は正しい世界にいるためそのように自覚できない。
どこまでも自己都合の世界を生きる状態です。
しかし、実相は真逆です。
アイデンティティがないので自分がない、にもかかわらず自己都合の世界を生きられる。
一体どういうことなのか、さらに深掘りしていきます。
自分を正しいと思っている意識

この時、はっきりと意識が変わります。
そんな状態の意識を私は、『絶対自我』と呼んでいます。

【絶対自我とは・・・自分を絶対的なまでに認識しようとする意識】
「私はこういう人間なんだ!」と思い込み決め付け正当化する性格。
自分にとっての正義を糧に主義主張を重んじ、相手を否定し、自らを正しいとみなす働きを持つ。
信念、自分軸、アイデンティティといった中核がない状態でも、“自分”として生存するための自己保持方法。
※エゴそのものではないがエゴ(我)を用いて生存対処し、自己価値や存在意義を見出そうとする意識
例:見栄やプライドを強め、見下しや蔑み、自らを上にして相手を非にするなどは絶対自我がエゴを用いている
※ちなみに意識には、[エゴ・絶対自我・自我・超意識(魂)]と多層構造であると考えます
正義を糧に自己主張し、自分にとっての正しさを他に押し付けます。
それができなければ詰めようとする、相手を間違いにするため否定し、罪悪を感じさせる誘導までします。
絶対自我とは、自分が正しいと思ってやまない(思いたくて仕方がない)意識。
深掘りするとアイデンティティがない無。
しかし、それを認めると精神保持できないため、「自分がない」ということに触発すると突然キレたり暴れたり、はたまた誤魔化してなかったことにします。
絶対自我は、「自分がある!」という強い思いでもあり、正当化が欠かせません。
正当化は自分に色を付ける行為、手放せない薬。
さらに社会的に正解と思える大きな砦、正義を糧にします。
これで万全、自分が消えることはありません。

自分を消さないためにも自己肯定感は異様に高く、自信満々にも自意識過剰なまでにもなり、それを出すことは正しさではないために日田隠す社会性も見えます。
アイデンティティのない状態でも自分を生存させるための方法になります。
一方で、正当化を手放せなくなります。
※エゴとの違いは、エゴとは簡単に言うと何なのか?【性格・具体例・自己チェック】をご覧ください。
正当化が手放せない因果

「これが私なんだ」「こういうものなんだ」「これが正しいに決まってる」
存在の中核がないからこそ、絶対的に認識することで脳内データによる仮想自己を作り上げ、明確な存在であると自分が納得するための証明を図ります。
その証明のために主義主張、[相手を非、間違い、正しくない]と認めさせる必要があります。

結果、論破が起きます。
口達者でなければ見下しや蔑み、感情的に相手を圧迫したり、罪悪を感じさせる言動、例えば非難や無視は典型例です。
根底にある目的は、「私は私なんだ!」「この私が私なんだ!」主張することで実体と向き合わない生存戦略。
アイデンティティを失いつつも向き合わず、自らを何者かであると仕立て上げる仮想世界にのめり込み、確固たる恐怖が待ち構えているとどこかわかっているために今から向き合うこともできない。
現実に目を背けて自己都合の世界を見続ける行為の因果は、正当化が手放せなくなること。
自分の意識を牛耳り、支配し、洗脳し、エゴを多用して正義観を太らせます。
ここに、一人で生きていけない弱さや、心に触発する出来事を追加すると、他者への干渉が増えてモラハラレベルがアップします。
絶対自我は自分を変えないための意識でもあり、弱いと思わないための強がりという本当の弱さ。
私自身、戒めているものです。
※傷つきやすい人もモラハラ懸念があるので、傷つきやすい人の優しさと攻撃的質【傷つきやすい人ほど人を傷つける】をご覧ください。
自分が正しいと思っている人の理解

ここからは線引きを太くするために、より対象の細部理解に入ります。
モラハラ人間の理解➀:絶対自我の呪縛

そういう人は自らが自らを縛り上げ、さらに吊るし上げ、干し芋のごとくふにゃふにゃ。
ジリジリと太陽が暑くて耐えられない、イライラがデフォルトになり、ストレスが溜まりやすく、癇癪持ちも多くいます。
そこから抜け出せない呪縛にいます。
この理由と考えられるのが、根付いた『無価値』です。

自らの価値を認められない、自己承認できないマインド。
着目は自分は無価値であるというマインドに執着していること。
要因となるのが親の影響、自己愛の強さ、自意識の強さが考えられます。
そして無価値だと信じ込む人は傷つきやすく攻撃的です。
多くは子供時代の親との関わりで植え付けられ、人それぞれに繊細、感受過敏などの性質や遺伝子も関係していると考えられます。
アイデンティティを奪われ、その助けもなく、自力で自己保持を図る結果、いばらの道を突き進むために絶対自我を強めて正当化に入る。
毒親、私物化する親がわかりやすい例です。

心の距離感が近い人にほど偉そうに指図する、否定ばかりする夫や妻も典型的。

呪縛にハマるほど他なくして自己認識できなくなります。
自分を認識するためにエゴを用いて他(相手)に干渉が増えます。
エゴによって価値を見出して欲しいと期待し、それに応えてもらえないと攻撃的になる、または恨み出しもします。
絶対自我はエゴを使う側の立場です。
知能がある人ほどエゴにのめり込むのではなく、「自分より下がいる」と思える立場、エゴを使う立ち回りを見出し、自己保持を図ります。
優位性を得る在り方はメンタル的に楽ですが、その結果起きるのが絶対自我の呪縛、抜けられなくなります。
絶対自我は黙って従う人など、干渉できる相手がいることで活きます。
見方を変えると、関わる周りがのめり込めさせるのも可能というお話です。
モラハラ人間の理解②:思考が全て

モラハラ張本人はこのように思うことはおそらくありませんが、彼ら彼女らの持っているものは心ではなく道徳的価値観、頭、倫理観のほうです。
道徳心には正しさも間違いもなく、心が感じる正解のようななんなのかわからないけど確実な温かさがあると思います。
モラハラ人間はこの曖昧さが苦手です。
見えないけどそこにある、そういったわからないものを苦手とします。
なぜならば、実体をつかめないと考えることができないためです。

正しさとは考えてなんぼ、絶対自我は思考なくして無力も無力、虚無であり空であり、本当に何もありません。
思考がキレイにパッと止まり、上も下も右も左もない、ただただ「・・・」になります。
モラハラ状態の人間から思考を切り離すと白も黒も、善も悪もない真っ新が広がり、なにもできなくなります。
これが意味するのは、一人になったらなにもできないことです。

ただ、これは絶対自我に限定したお話です。
絶対自我にのめり込んでいなければ、一人で生きる力によってモラハラ懸念は薄まります。
のめり込んでいる人ほど孤立したら何も生まれず、何も起きず、風船が萎れるように衰退は激速です。
人によってはエゴ(我)にのめり込み、エゴを使う側としての立場が崩壊すると酒に溺れたり、悪口や文句が止まらないなどになります。
モラハラする人は根底に“正しさの求め(による自己保持)”があるため、他人なくして思考も、自己愛も、自己保持もありません。
結果、依存が起きたり、普段強がっていても弱さが露呈します。
思考が全ての人はとても脆く、弱い存在です。
モラハラ人間の理解③:信頼していない

例えばこんな言動が出ます。
・疑っている、認めていない、即座に心を閉じる
・全てを言わない、都合のいい所だけ示す
・優しいけれども思いやりがない
・笑顔で人々と接するけど誰にも心の安らぎを感じない
・下手に見せたり謙遜するけど、プライドと見栄を手放せない
・内向きでは態度がでかく、外向きでは人に合わせて見せ方を変える
モラハラ状態ではない意識の時は心を開けるので、人によってはまるで別人になるさまがあり、わかりにくいものです。
どんな意識状態なのか、エゴなのか、絶対自我なのか、自我なのか、それとも超越しているのかによってまるで変わります。
モラハラの絶対自我に限定してお伝えすると、心は開いたように思い込めますが実際は開いていません。
開いているのは依存心であり、他人を信頼せず、心安らぐことが少ない。
ただ、本人からしたら心を開いています。
それは依存であり愛着。

愛を欲するために他人の心を欲し、自他の心の距離感に線引きがない。
価値を認めてもらうための利益欲しさにて計算的に下手に出る。
絶対自我は心をそもそも持っていません。
※正確には心と繋がる意識領域ではない
心と繋がる意識ではないため、自分が正しいと思い込む状態に固執している場合、誰にも心を開きませんし、信頼しません。
信頼しているような見かけや素振りを演じますが、実態は開けません。
しかし、心を開きたい欲求があるため。
「ふん、あなたが信頼に値するなら開いてあげよう」と上から来ます。
「それでは心を開いてあげようではないか、それ」
パフッ
「あれ?!なんにもない!ここに心があるんじゃないの?あれ、どうしよ、なにこれ、あわわあたふた」
なんにもわかっちゃいない。
心の素人、無知、未熟、ダニングクルーガー。
心を開いていると思い込んでいる繊細な状態では、少しでも傷つけられるような言動をされたらスパッ、相手を責めて、「もう開かないよ、あなたのせいだ、責任取れ」と。
あのぉ、初めから開いてないでしょ。
関わりを継続させるかどうか考えようです。
※心を開かない詳細は、人懐っこくて友達は多いのに心を開かない人【決定的特徴&全ての原因】をご覧ください。
注意点:自分が正しいと思っている人と関わるルール

飲まれてはならないことです。
支配されない。
そのために屈服して従ってはなりません。

あえて従い相手になめさせておく、気づけば絶対自我から抜けられないほどのめり込ませてさようなら、もう二度と変われなくする、なんて作戦もありますがそれは置いといて…。
飲まれてはならない理由は、飲まれるとこちらが絶対自我かエゴに陥るためです。
相手の絶対自我によって自らの絶対自我に飲まれた意識になるのが着目です。
[絶対自我 VS 絶対自我(orエゴ)]

絶対自我同士は戦い、喧嘩になります。
「私が正しい」「私の方が正しい」
両者が正義を振りかざし、正当化のせめぎ合いになると終わりどころがありません。
自分が正しいと思っている人と関わる際、こちらも「私が正しい」と思ったら問題は悪化を巡り、「敵」という認識にもなりかねません。
これらが起きないためにも、支配されない従わないのが前提として大切です。
相手の正論に対してこちらの正論を押し付け合う場合、お互いにモラハラ意識です。
怒りには怒りではなく、如何に飲まれないか、支配されず従わずにいられるか、そして相手にわかってもらうための努力が大切です。
戦わずして従わない、これを如何に上手くやるかという考え方です。
※上っ面だけのモラハラについては、【生態性と見分け方】上っ面だけいい人の本性は豹変ではない…をご覧ください。
線引きは野太く強く

モラハラにはこちらの絶対自我を如何に出さないかが関わる上で大切だと私は理解しています。
根底には認めたくない『何もない自分』がいるからです。
なので不快感や不納得になれば引けませんし、相手を責め立て自己保持に忙しなくなります。
そこに絶対自我で立ち向かってドドンとやってやれば火に油。
大切なのは、線引きです。
相手に飲まれず、絶対自我にならない。
そのためにも、「はい始まった正当化」「出たこの人の正義」「これが絶対自我だ」などの言葉が相手と線引きするお役立ちになればと思います。
ただ、「出た正当化、この人は何もわかってないからね(私はわかっているけどね)」などという魂胆がある場合は話が変わります。
被害者に見立てて、可哀想な自己像を作ることで正当化や正義を図る人もいます。
それはモラハラしている人と同じレベルの絶対自我ですので、同じだと自覚するのが大切です。
大前提:自分の問題
絶対自我による恩恵は凄まじく、不安と恐怖から完全に逃避宣言して精神保持を図れます。
人の価値を喪失させる親など大罪ですので親がいけないとも思えます。
大罪を自らも犯していると気づけないのは親と同レベルであり、何も学んでいない証拠でもありそうです。
人間が無価値な訳がないので、着目は無価値だと思い込んでいる自分そのものへの責任だと考えます。
エゴであれば他人によって敷かれたレールを何も考えずに従いますが、絶対自我は本人が選択しています。
エゴと違ってそこには意思があり思考があり、多くの恩恵を自らつかみ取っています。
か、心の理解が遠のき、信頼できない、心の開き方がわからない。
友達ができない、できても親友ができない、心を許せる人がいないなど、自らを孤立化させながら変化しない呪縛に入る、そんな懸念も受け持つ道です。
モラハラの人を他人が変えることはできません。
意思ある人が変わるとしたらそれは自らの気づきによってであり、他人からの何かではありません。
思考ある以上、本人が絶対自我を理解し、離れるか、どう使うか選択する。
変わるも変わらないも本人による本人のための本人の働きにかかっている、これが自分が正しいと思っている意識です。
関わるなら距離を保つ、干渉しないのが自他共のためになる、そんな考え方です。
※末路は、「自分が正しい」と思っている人の末路7選と対処法【自分との戦いは続く】をご覧ください。
最後に:自分が正しいと思っている人の見方
絶対自我と関われるのはエゴ(我)か絶対自我です。
エゴの代表は我慢や自己否定、頑張りです。
絶対自我の代表は正義、正当化、思い込みと決め付けによる主義主張です。
相性がいいんです。
「モラハラと関われない、関わらない」と決意することは、自らの意識が高まった証です。
何にも悪いことではなく、むしろ善行と言えるかもしれません。
のめり込んでいた意識から離れるのは一筋縄ではいきません。
しかし、本人が選択し、覚悟を持ったなら確実にできます。
はじめは未知の領域に入るので、不安で困ることも起きますが、とっても貴重な経験となり、自己を育む肥しとなります。
全てかけがえなく自らのためになり、心を磨く体験そのものです。
「自分が正しい」
何が正しいのか、突き詰めていくと説明できる人はおそらくこの世にいません。
なんせこの世に正解も間違いもないのだから。
正しさは制限であり、自由と真反対。
縛りでありながら社会的には安息になります。
脳の安息も制約上の世界も私たちには大切なもの、脳も心も共に欠かせません。
常に見たいのはバランスだと思います。
この内容も正当化かどうか見極めながら、精神構造の考え方が理解の一つになれば幸いです。
「さて、今日は絶対ホットドッグ食べるぞ!これが私の正義なり!」
ありがとうございました。

















