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気にしすぎる理由と精神理解「実際はエゴに気を使いすぎている」

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なんだか不安でしかたない、「気になる」

周りの目が気になる、商品の原材料が気になる、「嫌われたんじゃ?」と自分を責める、考えすぎてしまう。

私自身、背中を曲げながら周りにどう思われているか気にすることがあり、異国の地で一人でいる時ほど増えます。

空港には整った格好をしている人が多いため、「このサンダルでいいのか?」と毎回思っている私。

そんな自分を洞察してみると面白いことがわかります。

エゴとの戯れ、こちらは不安になっているのにエゴは喜んでいる。

ここでは、気にしすぎる人に向けて意識を紐解き、理由と精神理解をお伝えしていきます。

  • 気にしすぎることを改善したい
  • 気にしすぎる自分の内情を把握したい

私の体験上、気にしすぎは改善できます。

そのために自己の意識を知る必要があるので、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

Youtubeもありますのでぜひご覧ください。

気にしすぎる理由と精神

気にしすぎる理由

「あれは良くなかったかも」と考えすぎて自分を責める。

「後ろの車に煽られている気がする」と常に後ろをキョロキョロして気疲れする。

気使いや根回し、愛想笑いや優しくしなければといった労働。

言いたいことがあっても言わない我慢や抑圧、自己卑下に謙遜。

人によっては繊細や過敏、HSPやエンパスやギフテッドかもしれない。

ふとした言動でも深く感受に同調するため、あらぬ所で傷つく、心配になる、先走りする。

いろんな気にしいがあります。

気にする理由を紐解くと、明確なのは自己防衛のために気にしていることです。

防衛機能が働いていなければ、フンフフ~ンと鼻歌交じりで蛇に話しかけた瞬間に、パックン。

最強すぎると言いますか、気にしなすぎる人はアホな人か天才のことです。

気にするのは自分を守るためであり、同時に社会的な他者への配慮にもなり、知能が高まる鍛錬でもあります。

なんでも
なんでも
この時点ではっきりわかることがあります。

自分に縛られ、社会に縛られ、在り方に縛られている。

強靭な縛り尽くしです。

自分を守らなければならないメンタル、社会環境、他者を配慮しなければと思う観念に従順、自分の才と能と体力を労費しなければならない酷使。

縛りは消費が多く、抑圧が多く、我慢も増え、疲れやすく、ストレスを溜めやすい。

そんな自己防衛活動を一体何のためにしているのでしょうか?

不安対処のためです。

不安のザワザワ、ムギムギ、ドロドロするあの気持ちを対処するために、防衛である『気にする』働きをする。

働きですが自分のためなので給料的な報酬はなく、得られる報酬は不安との直面回避です。

私の体験上、報酬は本当にこんなものです。

一時の苦痛を紛らわすだけ。

そのために多くの時間と労力を費やして働きまくる。

「なんだよこれ、給料くれよ!」と言いたい所ですが、上司はこう言います。

「はいぃ?それ、自分のためにやってるんでしょ?」

「あ、そうだった…」

 

気にしすぎる根本理由

ここで根本的な理由をお伝えします。

エゴに気を使いすぎているから。

※気にする自分に気を使いすぎている意

なんでも
なんでも
私自身の気にする時や不安な時を洞察すると、気が抜ける実状が多々あります。

ほぼ全て事実ではないことです。

「なんか煽られてる気がする」と車の近さに反応しても。

実はただの妄想だったなんてことは多々、後車の運転手はケンタッキーのチキンを食べるのに夢中だったことを知る由もない。

事実ではないことを事実かのように思い、気にするというのは、気にしたいから気にしている表れとも取れます。

「気になる」ではなく、「あえて気にしている」

ただ、実際に自分から気にしているとは思いにくく、あの人が気にさせてきたと捉えられる状況は多いかもしれません。

それでも、自分が気にしたいからしていると考えます。

なぜならば、気にする材料を欲する者が自己内部にいるためです。

この気にしたい自分を洞察すると、います。

エゴです。

インド哲学では小我とも言い、真実を見れない限定的な自己意識のこと。

仏教では個我とも言い、実体のない「私」を固執して守ろうとする、仮の自己や思い込みのこと。

当「ようはなんでもいい。」の教科書では、自らを自らで認められない意識であり、他によって個たるものをあえて認めようとする疑似現実を生きる意識のこと。

エゴは気にしたい自分です。

気にすることで他者と区別された『個』としての自分を存在させられる。

区別するためにも、個を見出すためにも、気にする意義がある。

そして嫌な不安を対処するために、防衛活動する意義がある。

気にしすぎる根本理由は、エゴが自分を牛耳っているからです。

 

エゴに自分を使用される好き勝手状態

なんでも
なんでも
ここで着目したいのが、気にする自分に違和感があるかないかです。

違和感がある場合、エゴに『自分』を使用されており、その状態に自我や真我(いわゆる心を持つ意識)が抵抗しています。

違和感がない場合、エゴに完全に自分を乗っ取られ、もはや気にする自分を肯定します。

エゴを肯定すると気にする理由を「こいつのせいだ!」と人のせいにして、正当化を持った攻撃性が表れ、文句に愚痴に悪口に、クレームに誹謗にゴシップに、人の不幸が蜜の味になる低俗霊化。

「気にしてしまう」と悩む方はこの時点で乗っ取りではなく、使用されている状態です。

自我や真我など心ある意識が消えておらず、その周りをドワァーと薄汚れた黄緑グレーが覆い、周りが見えなくなっているイメージです。

心が出にくいのをいいことに、エゴが自分を好き勝手使用しています。

エゴは他によってあえて自分を認めようとする意識ですので、そのための活動が盛んになります。

例えば、

周囲にどう思われているか、考え続ける。

相手の言動にて自分の反応、感情を作る。

周りと比較して自分はどうなのか捉える。

容姿、造形、言動に対する周囲の反応を注視する。

自分の言動の周囲への影響を知りたくて、調べ続ける。

自分に対する接し方、他への接し方との違いを知りたくなる。

ここに挙げたのは全て、「あることないこと気にしたいから気にする活動」です。

エゴが自分を好き勝手使用している状態ではありますが、それを自分が肯定していなければ全然取り戻せます。

やっていきましょう。

 

気にしないためのエゴ理解

エゴはか弱く脆い

なんでも
なんでも
エゴに好き勝手使用されると、「気にしたくないのに気になる」という自己内部のギャップや不納得、後悔や自己卑下が生まれます。

「やりたくないのにやる」

エゴは疑似を見せるだけの虚無的存在です。

強制する力などなく、疑似はリアリティには一生勝てません。

わかりやすくなればと思うので違いをお伝えすると、

『自分』を使用するエゴとは脳内のみに生息する限定的な意識。

一方、自我や真我は心も思念も想念もあるより大きな存在であり、真我になると魂という無限の領域に達します。

頭に限定された生き物か、頭も心も見えない領域にも広がる生き物か、みたいなものでして圧倒的なレベルの違いがあります。

エゴが自分を洗脳してブワブワ~ンとまやかしても、自我が「なんだそれ?」と言った瞬間に張りぼての舞台がボロボロ倒れ、カーテンレールをひらひらさせて幻想を見せていただけである露呈。

「キャーやめてー」と恥ずかしそうにカーテンレールを猛スピードで仕舞い、ひらひらと舞台裏に逃げて行きます。

エゴは防衛活動をするため、不安や恐怖を感じた際の一時凌ぎには長けています。

さらに刺激や満たしを得るための活動や他人利用、本能や衝動に従い動物のように生きるために蜜を得る力もあります。

社会的に活用的なものでありながら、心がなく、現実と向き合えないか弱い存在。

大切な意識の一つですが、「これを優先して自分を使わせる意味はなんなのか?」

明確にする必要があります。

「あなたは主役じゃない」という意志を持つと、「は、ははー」と土下座しながら退く、それくらい儚くあっけないものです。

重要なのは、自分でありながら自分ではないという事実への着眼。

これを前提に、気にしないためのポイントがあります。

 

エゴに気を使いすぎている

なんでも
なんでも
ポイントは、エゴに気を使いすぎないことです。

甘やかさないとも言えます。

エゴの言いなりにならない意味でして、気にする自分に従わなくてもいい。

疑似世界を見せてくるエゴなので、「これが私なんだ」と思えてきます。

例えば、「私ってこんなに性格が悪いのか、悲しくなる」なんて具合に。

しかし、そこに違和感があればそれは自分ではありますが、心を使用できず頭に限定したエゴであり、リアリティではありません。

「これ、フィクションなんだ」

真面目にその世界を見る必要も生きる必要もない。

ふざけて面白おかしく捉えてもいいくらいです。

エゴに気を使いすぎている可能性がある場合、それを自覚して、実際に自分はどうしたいか考えてみてください。

「気を使いたいから使うんだ」でもナイスでして、思いっきり気を使えばいい。

気を使いたくなければ、気にする自分になった瞬間に言ってやりましょう。

「エゴ、うるせぇ!」と。

何度も言ってしまいますが、社会的に活用的で大切な意識。

ですが、いらない人にとって全くいりませんし、時と場合に応じていらない時はいらない。

エゴに気を使いすぎる必要はありません。

私なんかは一時期優しくしていましたが調子に乗るので、「うるせっ」くらいでちょうどいいと思っています。

今では、「はい静かにね~」なんて具合です。

 

気にしないためのサインにする

全てのことに意味があります。

なんでも
なんでも
「気にする状態」は気にしないための材料です。

「あ、今気にしているぞ!」と自分を客観的に見るからこそ、気にするかしないかを選択できます。

選択できるように気づきのサインにする

「気にしている状態」を注視して、その都度「あ!」と気づく。

この「あ!」がエゴを優先するかどうか選択する間、一コンマになります。

行為を続行するならば、「あぁ、私は気にしたいんだ」とわかる。

行為を中断するならば、もうエゴは主体ではなくなっています。

物事はシンプルです。

ただ、このようにスムーズに行く人もいれば行かない人もいます。

行かない人には別の着目があります。

 

エゴによって自我を育む

気にしたくないのに、気にする自分に気づいたのに、やめられない。

そんな人もいると思います。

なんでも
なんでも
私もエゴに使用されると、気づいてもやめられない時があります。

例えば、車を運転している際、周りや後部車両など自車の周囲を広く気にしすぎて、「スピードはこれくらいでいいかな?」「後ろの人は早く行きたいのかな?」「あの人は車線変更したいのかな?」と不安になり、勝手に疲れている時があります。

やめたくてもやめられない場合、自我の育みが必要です。

そもそも自我がエゴ(我)より弱いと、エゴに牛耳られてドンッと居座り、主体からどかしにくくなります。

しかし前述したように、自我の方が幅広い世界を生きるレベルの違う意識なので、「エゴより弱い」なんてことは実際はありません。

このようにエゴをどかしにくくなっている原因と考えられるのが、自己肯定感の低さ、コンプレックス、劣等感、無価値感など、子供の頃から植え付けられた心の傷です。

心の傷は自我の育みを邪魔し、自己卑下や謙遜など自分を下だと思い込む奇妙な慣習ができます。

自信がないさまです。

自我が自信を持てないと気にしたくなくても気にしてしまい、それをやめにくいので、エゴを使って自我を育みましょう。

ここでお伝えしたいのは自力で育むための考え方。

エゴに反抗する

人によっては反抗期を知らずに育った人もいると思います。

その分と言うことではありませんが、エゴに対して反抗する体験を増やしていきます。

「おいエゴ、あんまり調子に乗るなよ」

ちょっと口が汚くなりますが、反抗心は自らを律する効果になり、このようにエゴの幻想に言いなりな場合には大切な現実開化です。

「あ、気にしてんの?嫌だね、私は気にしたくない」

「あなたのしたいようになんてしないよ」

「うるせぇ」と。

自我が育まれない大きな原因は抑圧と我慢です。

それらは感情をも制限するため、抱いたのにしっかり発されず、内部で不浄エネルギーとして滞り、これがエゴの餌の一つになります。

怒りでも嫉妬でもなんでも、嫌で認めたくなくても、誕生した以上はちゃんと見つめ、発し、感じ、受け取る。

これが生み出した親の責任です。

エゴに対して思ったことは言う、生まれた感情は感じる、思念も想念もそこにあるものは発し、感じて、受け取ります。

これで自我は育まれ、自信が生まれます。

抑圧していると綺麗に誤魔化せるので何も感じていないように思えますが、ちゃんと見つめ、嫌な自分から目を逸らさない。

人それぞれにエゴを見つめた際に感じ思うことが必ずあります。

エゴに対して抱く気持ちは何なのか?

その時その時のエゴの所業に抱く気持ちがあるので、じっくり味わい、発してみてください。

これが進んでいくと、気にするか気にしないかの選択ができるようになっています。

 

最後に:気にしすぎる人

エゴの自分がしてきた形跡は全て現実。

その結果が気にしすぎるであり、今の自分そのものです。

その自分を変えるというのは、エゴとの関わりを知り、認め、関わり方をこれまでと変えることです。

エゴに気を使う必要はありません。

皆無です。

気にする自分を見つけ、まずは晒しましょう。

じっくり凝視し、洞察し、分解してもいい、そして分離していきましょう。

そのためにも、エゴは自分そのものでありながら自分ではないと把握しましょう。

一体何者なのか?

実際に観察して把握していってください。

自分との乖離が浮き彫りになると、世の中の見方は一変します。

心ある自分が主体になる時間が増えると、「主人公はあくまで私なんだ」という主観が高まり、自然と周囲以上に自分を優先する目線が構築されています。

それはとても楽しい認識。

これまで気にしていたのが、鼻歌まじりで歩き出す躍動に。

私で言うと車の運転で周囲を気にしていたのが嘘みたいに、カフェラテを準備してドライブを楽しみ、「あ、気にするの忘れてた」くらいになっている。

一人で出かけることが増え、探索が増え、公園の芝生で眠り、他人に干渉しなくなり、マイペースができていく。

呑気に散歩しながら、水をバシャバシャ飲んでいる犬の姿に微笑む一時。

「私もああやって水飲んでみようかな」と思って自販機でジュースを買い、シャツにジュースがこぼれながら一気飲みして爽快な気分。

「やってらんねぇぜ!」と笑顔で頷き、今日も楽しい一日を過ごすのであった。

みなさんもそんな日になりますように。

以上、精神を含めた不思議な理解でした。

ありがとうございました。

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