どうにもこうにも受け取られ方が違う。
当たり前のことが『優しさ』だと思われ、笑顔の挨拶が『好意』だと思われ、手助けが『隙』になっている。
変な人。
境界線を作るために断り、拒否して、優しくしないことが大切になりますが…、怒っても拒否しても逆効果なんてこともあるかと思います。
そんな時には、そもそも事を起こさない事前対処の考え方があります。
ここでは、「まず好かれるのを抑止しよう」に着眼して自分のこと、そして世の中の見方をお伝えしていきます。
- 変な人に好かれやすい
- 対処法を知りたい
好かれるからには価値があり、愛や許容の広い人間味があります。
これらの素敵な人間味は消さずに残したいので、不要なものを減らして大切なものを増やす。
そんな考え方がご参考になればと思います。
Youtubeもありますので、こちらをご覧ください。
Contents
変な人に好かれる人

変な人の好むもの
自分軸や信念や意志があり、自己の一貫性があるために独特な世界観で独自の生き方を尊重する人ではありません。
心の歪みとねじりに叫ぶ変な人、いわゆるこじらせている人です。
エゴの強さが際立ち、進化系は何するかわからない怖い人となりホラー映画によく出ています。
心が歪みうねると改善しようとするのではなく、他人軸で他責で他律に甘んじて開き直ります。
人のせいにしながら、自分の意思もなく、ちょっとしたことで一喜一憂し、メンタルが動揺し、不安と恐怖に駆られ、かつ向き合えないので対処できない。
頼るのではなく「利用する」になります。
依存に執着、たかってすがり、甘えて暴れる、をするための“利用できる他”を欲します。
吸血鬼が生きるために人間の血を欲し彷徨うのと似ているかもしれません。
変人鬼にとっての“生き血”になるのが『自己存在意義』
存在している意義となるのが、『自己存在価値』
存在していいと教えてくれる、自分は価値ある人間だと思わせてくれる何か。
これが承認欲求です。
※特に他者承認欲求

「他人から認められたい、褒められたい、必要とされたい、愛して欲しい欲求」
誰しも多かれ少なかれ持つものかと思いますが、幼稚性や何にも育んでこなかったがための他責、他律、他人軸、これらを正当化して開き直り、ナルシスズムと愛着の強さが見られる暁には“こじらせ変人レベル”は格段に上がっていきます。
「私はここに居ていいんだ」
「私はすごい人間なんだ」
「私は価値ある人間だ」
「私は優れものだ」
このように思える情景を与えてくれる人がいたら、目がトリプルアクセル。
それではどんな人が与えてくれるのか?
与えている人は全員共通であることをしています。
変な人に好かれる根本理由「〇〇上手」

人を承認する、認める、褒める、肯定するのがとっても上手。
この『承認』は変な人が欲しくてたまらないもの。
願望も欲求の苛まれも悩みも全てを払拭して、もはや苦しみを解消したとすら思える最上級のご馳走。
そういう人からしたら承認ははっきりした『好意』になります。

「あれ、この人もしかして俺に興味ある?」
この疑問符は意味をなしません。
もう頭の中は、「興味あるんだ、うんそうだ、そうに違いない」
「ただの挨拶なのに笑顔でしてきたぞ、ってことは…」となります。
「みんなにやってますけど」は通用しません。
存在意義を求めてやまない人にとっての視界と認識はあまりにせまい、「自分がどう思い、どう見て、どう評価判断するか」。これが全てです。
変な人に好かれやすい場合、人と関わる以上は初めから認めようとするスタンスがあると考えられます。
褒められる点があればこぞって褒めようとします。
「そんなに釣ったんですか、それはとっても釣りが上手いってことですよ」
「え?この人は意味もなくいきなり私を褒めてきた、ということは…」と始まります。
助けられる場面があればこぞって手を差し伸べます。
「お仕事手伝いましょうか?」
「え?この人は私をあえて助けたいと思っている、ということは…」
承認する側がそう思っているかどうかは別として、承認された側はグイッと引き寄せられる感覚を味わいます。
だれも承認してくれなかった世界であればあるほど、承認してくれる人は光そのものです。
「美しい光だ」と思ってくれれば関わり方も尊重あるものになりそうですが、
「餌だ、美味しそうだ、待ちに待ったものだ、あぁ欲しい!」と汚れた雑巾を絞るように脳をギュウっとする見方をするため、よだれを垂らします。
渇望のステージと言えるかもしれません。
※執着される場合は、【魂の空白】執着されやすい人のスピリチュアルな原因と対処法 をご覧ください。
変な人に与えているもの➀

認めるのが上手い人ほど、人の価値を認めるだけでなく、人を否定しない特徴もあります。
例えば、変な人が言ったことに対して。
「素敵な視点ですね、ニコ」とソフトな微笑み。
この行為の内訳を数値化すると777が揃ったジャックポット。
[存在肯定+否定しない恐怖のなさ(安心感)]
さらにここで言う変な人とはこじらせているため一般的に周囲から苦手意識をもたれやすく、日常的に否定される経験が多い人々。
「ちょっと関わらないようにしよう」と距離を取られがちな人にとって、平気な顔で近付き、平等に接してくれる、そんな人には特別感を抱きやすいです。
特に否定してこないという懸念のなさ、危険性のなさは、不安と恐怖に向き合えない人にとってはとてつもない安心感を抱きます。
それはまるで不眠症の人が何年か振りにぐっすり眠れたような。
[喉から手が出るほど欲しい存在肯定+その場でずっと包まれていたいほどの安心感]
これほどの利益を与えており、そんな人は多くないので希少性がある。
「逃したくない、どこかに行って欲しくない、欲しい欲しい」と額から手が伸びてゾウの鼻のように動き出すホラー。
魔性の女や男と言われる人々の場合、恐怖と向き合いたくない弱さに対して強烈な刺激と誘引になる『心の歪みと欲の鷲掴み』にて相手を虜にします。
変な人に好かれる人は相手の心の歪みや欲を掴むのではなく、存在を肯定し、恐怖と向き合えない弱さをも肯定し、かつ恐怖心とは真逆を与える。
『許し』を与えているのが特徴的です。
幼少期の環境、生育環境、親との関係性などにて許されてこなかった人ほど、好きになるといいますか執着したくなります。
変な人に与えているもの➁

それが境界線のなさ、距離感の近さです。
好かれる人は境界線をなくした覚えも、距離感を近くした認識もないかもしれません。
分け隔てなく、見た目や肩書で差別せず、誰しもに平等に接しようとする人、または誰しもに優しく接しようとする人は共感力や寄り添う力があります。
共感力、寄り添う力によって生み出すのが、先ほどの『許し』であるのが着目。
最終的に感じ取るのが許される気持ちであるために、共感するというのは「変な人側にとって境界線が薄くなる」
そんな認識をされます。
「この人は私側になってくれるんだ、味方側だ(はぁ許されたんだ)」となることで、一方的に境界線はなくなります。
「普段だったら否定されるところをこの人は否定せずわかろうとしている(はぁ私は間違ってないってことだ)」となることで、一方的に距離感は近くなります。
そして決定的なことがここで起きます。
変な人が近づき、関わりを試み、誘った際、はっきり断らない、または曖昧に返答すると起きます。
「そんなに嫌じゃないんだ」

これまで一方的にそう思えただけの境界線や距離感の近さ、さすがに犬や猿ではなく人間ですので、「これは自分がそう思っているだけかもしれない」という視点があります。
曖昧な受け答えによってその不確かさは、「そんなに嫌がってない?ということは…」と始まります。
「自分だけの思い込み世界ではなかった=思い込みがない」という解釈。
曖昧さは変な人にとって明確さとなります。
変な人にとって、「境界線が薄く、距離感は限りなく近い人」として脳内インプット。
そして始まるのが、相手の世界に土足で入ってくる。
境界線を壊しているなんて思わない、「なんせ境界線はもう薄い関係性なんだから」と怖いことを思っています。
※寄り付いてくる精神内情は、【重荷の引き寄せ】変な人が寄ってくる原因とスピリチュアルな訳をご覧ください。
変な人に好かれないために

人を認める内情
それが自己防衛であり境界線保持でもあり、どんな人かしっかり評価判断してから、認めたいと思うなら認めます。
しかし、優しい人ほど辛い経験を味わってきた人であるため、弱い立場や辛い状況下にある人の気持ちがわかり、共感も同情もできます。
スポーツ観戦する時に知らないチーム同士なら弱い方を応援したくなるように、弱い人に対する色眼鏡ができている可能性もあります。
言い方を変えると、弱い人を弱い人として見るフィルターがあり、困っている人に対してより優しくしたい、応援したい動機がある。
その結果、相手を否定しなくなります。
否定しないためにも肯定する、またはそうなった社会を否定することが増え、その人の良い部分への着目が強まり、悪い部分に重きがなくなる。
そういった認識の偏りとほだりができます。

認識が偏るほどに色眼鏡が変な人を認めやすくします。
変な人が周囲からレッテルを張られて前評価が低いほど認めやすくなります。
変な人が周囲から排他や陰口など攻撃を受けており、「可哀想だ」と思うほど自動的に認めるようになります。
変な人が失敗して周囲から責められ、しょぼくれているほど無意識に認めたくなります。
認めているからこそ、困っていれば手を差し伸べたくなる。
自分の中で認めている相手に対して何もしないと、罪悪や自己嫌悪や自分に対する怒りが湧き出てきます。
何もしないことは自分を否定する行為になりえます。
認めた相手が困っていたら手を差し伸べたくなり、悩んでいたら声をかけたくなり、悲しんでいたら寄り添いたくなります。
誰かを認めるというのは人間として大切な行為でありながら、自分を加担させる負荷にもなりえます。
対象の見極めが欠かせない行為です。
※他人を優先しがちな場合は、気にしすぎる理由と精神理解「実際はエゴに気を使いすぎている」をご覧ください。
策:認めるかどうかを考える

安易に好かれないために、「この人を認めるかどうか?」の意識を持つ大切さがあります。
私自身、海外に行くと困っている人が多い国では変に好かれる時があります。
それは相手の環境などを表面上だけで捉えて、内面を見ずに肯定的に関わるがための私の自業自得です。
たった数か月でその人の、その環境の内面を知れるはずがありません。
仲良くなって最終的に求められるのは、「金」か「事業契約」か「無償での悩み相談」か「甘えさせてほしい依存」、そして「何度もしつこい電話とメール」という悲しい現実。
現実的に捉えると、何も考えずに関わっているというものでして、何も考えないとは相手を知らない意。
にもかかわらず認めているというのは、自分の見方一辺倒で相手を「こうだ」としている思い込みや決め込みがある表しです。
私のようなこういったものをやめることが、そのまま変な人に好かれない方法になります。
「自然と認めている」とこのように癖になっている、または気づいていない方が多いと思うので、「人を認める」というのはプロセスを踏んで、選択して、決定する、そんな段階的行為であり自分に多大な影響を及ぼす行為だと知ってもらえればご自身のためになることと思います。
認めるのは相手を知ってからでも遅くありません。
ちなみに、相手のことを自分側から知り、相手側から知り、全体目線で知る。
全体目線を把握した後に認めると、そこには無償の愛というものがあります。
※絡まれる場合は、変な人に絡まれる理由がある【対処法は意識の向け方】をご覧ください。
注意点:自分が否定されたくない防衛

褒めたりおだてたり、よくわからないことを言っているのに肯定し、迷惑な言動でも否定も指摘もしない。
そんな人もいると思います。
承認の過剰な与えは、餌を貪り食して、なくなればギャーギャー騒ぎだす煩悩の奴隷が発生します。
過剰に認めるのは、それをする理由や意図が必ず背景にあります。
変な人に好かれる人は自分を絶対的なまでに否定されたくない人が多いように見受けます。
否定されることへの不安と恐れが強いと、誰か他人をとにかく肯定し、役立つ人間で必要とされる人間であろうとする防衛意識が働きます。
その防衛を得る代償が、認めた人に手を差し伸べずにいられないこと。
何もしないことが罪悪になるというドグマです。
どうして防御力が弱いのか?
メンタルや精神虚弱でも、繊細で過敏だからでもなく、「何も考えずに他人を認めているから」に辿り着きます。
私は「認めている」なんて思ったことはありませんでしたが、人は人として存在する以上は肯定されるものだと思い込んでおり、認める行為が無意識化していました。
防御力が弱いからこそ相手を認めて防衛を図ろうとする。
その結果が承認の無意識化。
共感力や優しさがある人の場合、弱い人を肯定する意図も追加。
変な人が弱い人であり承認を求めてやまない人であればマッチングし、好かれやすくなるという見方です。
自分が無意識にしている行為というのは気づきにくいものですので、もし私がしていたことに該当する方がいれば、意識してみると変革の材料になるかと思います。
※スピリチュアルな見方は、【愛の矛盾は危害を生む】変な人に好かれるスピリチュアルな仕組みをご覧ください。
最後に:変な人に好かれる人
自分が一体どういう世界に住んでいるのか?
これを見つめる大切さがあると思います。
一人一人の歴史と選択があり、縛りの社会がある上では個々の在り方を持ち、恩恵も罰も報いもある因果応報。
私たちは美しい世界に生きていますが、醜さと共存している前提があります。
善と悪があるというのは、光と闇があり、見えると見えないがあり、その中間もあります。
天国と地獄の中間はバランスを取った穏やかな世界がありながら、曖昧なまやかしであるどこでもないグレーな世界もあります。
それは中間ではなくどこでもない虚無の世、存在していないがそこにあるという不思議な世界。
こじらせた変な人がいる世界です。
そんな世界とも共存しているこの世ですので、認めると認めない、許すと許さないがあり、歪みと整え、綺麗と汚れのカオスです。
どこでもない世界を承認することは責任を取れない行為でして、結果となるのが依存と執着の生み出し。
もし本当に手を差し伸べたいのであれば、まずはグレーな世界から抜け出させるのが先決でして、まやかしの承認は自らをもまやかしの世に引きずる犠牲行為になりかねません。
変な人を認めるとは、自分をまやかしに向かわせる行為。
実はとっても危険な好意だったりします。
知らぬ間の餌やりは煩悩の豚を生み出してしまう。
承認する大切さと共に承認しない大切さもあり、どちらも行為の意識化が欠かせないと思います。
この世の見方が少しでも広がればいいなということで、一つの考え方としてお役立ちになれば幸いです。
ありがとうございました。


















