心理と特徴

「真面目なんて報われなくていい」報われない仕組み&体験談

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

私はかれこれ二年ほど心が疲弊していました。

それは、「他者のために頑張ったから」

そんな我を張る状態から抜けて、客観的に自らを見れるようになった今、大きな気づきがありました。

『真面目なんて報われなくていい』ということ。

頑張って努力しているのに見返りなく、利用され、損ばかり、なんて経験をされている方へ向けて、何かのご参考になればと思います。

  • どうして真面目は報われないのか考えたい
  • 「報われなくていい」の真意を知りたい

私個人の理解では、そこにあるのは明確なまでの矛盾、学びは多いけれども誰も幸せにしませんでした。

物事は考え様だと思います。

真面目は報われない

報われる人と報われない人

模範者、見本にもなる人。

明らかに負担のある仕事をさせられても、何もしていない人と同じ給料。

運転、踏切で3秒止まったら後ろからどつかれた。

世知辛い世の中、「むしろルールなんて無視すればいいのな?」と思えてきそうです。

なんでも
なんでも
しかし、誰しもが報われない訳ではなさそうです。

毎日大好きな小説を書き続けていたら、いつの日か人の目に止まって本の出版が決まった。

それでも調子に乗らず、偉そうにせず、謙虚に書き続けていたら次は賞まで頂いた。

日の目を見る人の場合、誰かしらが本人のしている価値、貢献に気づきます

気づく人が多いほど、価値を受ける人が多いほど、恩恵を受ける人が多いほど報われそうです。

しかし、一生懸命努力し、辛い中頑張っていても、気づく人が少なければ

していることが価値になっていなければ

恩恵になっていなければ報われません

真面目にゴミ拾いをしていても、誰もいない山奥でしていれば報う人がいません。

都会のど真ん中でゴミ拾いを毎日すれば、報う人が圧倒的にいるように。

している行為の範囲が広いかどうか以上に、どれほど“報う人”が多い“報えるもの”が多いかがポイントになると考えます。

どれだけ美味しいパンを焼けてもお客さんがいなければ意味がない。

過程よりも成果、価値が求められる世。

報われるためには自己マーケティングが要りそうです。

言い方を変えると、報われたいなら自分をマーケティングして売り出すことに真面目になればいい、という見方です。

こんなものいらないというお話を進めてまいります。

 

真面目な人とは?

なんでも
なんでも
人それぞれ『真面目さ』があると思います。

・一生懸命頑張る、汗水垂らして努力する

・疲れても泣き言なしで働き続ける、残業なんて当たり前

・「あの人のために」と思って朝方まで話を聞き続けて相談にのる

・「誰にも言わないで」とお願いされたから、責任を持って一生誰にも言わない決意をする

・自分のわかること、経験、知識をフル活用し、惜しみなく教え、相手の立場になって言語化もする

ひたむきな努力、よく気づきよく働く、困っている人を助け、言われた通りにルールを守り、今日も正座して食事。

誰もやりたくないトイレ掃除、ピカピカにまでしたのに、その間煎餅を食べながらゲラゲラ話している同僚の方が評価される。

しまいには、「掃除じゃなくて仕事しろ!」と言われる。

「このモップぶん投げてやろう」と大真面目に思えちゃう

そうです、真面目とは真っ直ぐ

良い悪いは抜きにして、掃除で使っていたモップをぶん投げてやろうと思うことも真面目です。

「私はこれをやるぞ!」と思ったことを邁進するさまは、自分に対して真っ直ぐなさま。

「自分がやりたい、やろうと決めたことに真っ直ぐ」です。

真面目な人とは、自分がやりたい、やろうと決めたことに真っ直ぐな人
※自分に真正面から向き合う人

親や先生から教えられたことに従順するのも、自らを信じて信念を貫くのも同じ。

「そうしなければならない」と刷り込まれていようとも、そうしようと思い行動したのは自分。

環境や状況は違えど、自らが決め、思い、欲したことに真っ直ぐ、忠実に行動する人です。

これにてとっても大切なことがわかります。

 

真面目な努力や頑張り=〇〇のため

なんでも
なんでも

「自分に真っ直ぐ、忠実にあるさま」

これを真面目の中身とした場合、明確になることがあります。

『自分のための在り方』

何かに従う状態であろうと、真面目であれる人はそれを自分の事として行動に移せます。

真面目になれない人はこの反対

自分事ではなく誰か他の事、従う下である親の事、会社の事…。

なので責任を持てない。

誰かのせいにする、嘘をつく、事なかれ、逃げる、「あ~あ、だるいなぁ、やってらんね~」って。

例えば、学生時代の掃除、強制。

一生懸命、言われたこと以上にやる人。

ダラダラと愚痴を言いながら時間を潰し、もはや邪気を漂よわせて大気とエネルギーを汚す人。

一方、「掃除なんてやらない!」と自ら決め、実際にやらない人も真面目です。

しかし、「悪い私、どうだ!」とやらないグレ具合を周囲に見せびらかせて自己を見出そうとするのは、そもそも中身がないので自分事にも他人事にもならない(真面目でも不真面目でもない)。

真面目は人のためではなく自分のためです。

このことから、「報われるってなんだ?」という見方が出てきます。

 

真面目は正しさではない

なんでも
なんでも
「相手のため、親のため、会社のため」など、『自分のため』はいつの間にか消えます。

消えてしまう理由となるのが、“正しさ”の惑わし。

『自分のため』という行為の主体が薄れるほど、真面目に一生懸命というのは、『正しさ』になりえます。

例えば、「人様に迷惑をかけてはいけないですよ」

社会のルールや常識という“他”に順ずる、さらにそれが正しいというダブルルールに則る。

「正しいことを一生懸命しているのに…どうして評価されない、どうした世の中?!」と思える。

『自分のため』はいつの間にか消え、「報われない」という発想が生まれます。

真面目であるのは正しい訳ではありません。

真面目に一日中蟻を観察する人もいる。

大真面目に食べ終わった後のゴミを路上に投げ捨てる国もある。

如何にふざけて幸せになれるかを大真面目に探求している人もいる。

会社の社長のモットー、「人生はおまんじゅう的にいこう」に対して、「これは私のためだ」と心から想えるのは社長本人しかいないように。

「これが正しい」に従うことは既に自分のためではなくなります。

自分のためではない真面目とは一体何なのでしょうか?

 

体験談:自分を見失う真面目

他に合わせたり従うことに違和感がない人ほど、無意識に『自分のため』がなくなりやすいです。

相手のことを考え、境界線がない人ほど、『他のため』になりやすいです。

なんでも
なんでも
他のために努力するのは素晴らしいですが、それを真面目にする場合は注意が要るように思います。

私事ですが直近二年間、家族が病気であったために頑張りました。

労力を費やし、時間を使い、やりたいことができなくても、「それよりも大切なことがある」と邁進しました。

随分と心を削り、精神は落ちました。

わからないことだらけで右往左往しながら模索し、関わり方を変え、価値観を変え、尊重できるようにプラスになるように、あらゆる工夫を自分なりにしてきたつもりです。

しかし、結果は願ったこととは程遠いものでした。

しばらく私の精神は落ちていましたが、自分を取り戻した時に気づきました。

頑張って我を張り続け、自分を見失っていたことに。

俯瞰できるようになってから自分自身を洞察すると、はっきり見えるものがいくつかありました

自分を見失っていた時、私の真面目さは自分のためではなく、「大切な人のため、家族のため」だと思っていた。

自分のための行為であるにもかかわらず、「誰かのため」と思いを持つとこんなことが起きていました

自らの頑張りや努力における労力(費やしたもの)の行き場がない。

自分のための行為なのに自分のためだと思っていないが故に、自らのしたことの意味がわからず、責任を持てない状態。
※責任を持てない…自分の思考や行動を認められない意

自分を見失っていながらそれに気づけない状態と同義です。

頑張れば頑張るほど、努力すればするほど、「自分のため」が減り、「何か誰か他のため」が増える。

または、「なんのため」かわからない状態、「正しい」と思い込んでいる状態。

シンプルに、現実を見れない、自己の見失いです。

自分がやりたい、やると決めたことに真っ直ぐな“真面目”だからこそ、頑張るほどに矛盾が膨らみます。

真面目な人ほど報われない。

これは、「自分のしたことの収めどころがわからない」と同義です。

なんのためになっているか誰のためになっているかわかっていない、または何かのためになっていると認められないことだと考えます。

 

真面目は報われなくていい

真面目なんて報われなくていい

こんな人がいます。

「親の言うことに従ってきたんだから、子が困れば代わりに働き、代わりに金を払うのが当然だ」と報ってもらう。

これは真面目な人です。

なんでも
なんでも
真面目なんて報われなくていいです。

報われるのではなく、「報う」の一択だと考えます。

自分のために真っ直ぐ突き進む行為は、報うも報われるも自分次第。

『報う』

この考え方では、「真面目は報われるにはマーケティング要だが、報う材料はたくさんある」になります。

これは私自身の体験を通しても痛感しました。

真面目を報うには意志が要ります。

「自分のため」という認識なく頑張り努力するほど意志がなくなっていきます。

自分を見失うために報いたくてもできません。

『自分のため、がない真面目』は我(エゴ)を張る意味での頑張る状態です。

ちょっとややこしくなりますが、「これが私だ!私が一生懸命やっているんだ!」と主張しながら、それは“我(エゴ)”であるため本当の自分ではない、そんな意識状態。
※我(エゴ)とは他によってあえて自分を認めようとする意識

自分でなければ何なのか?

他に従っている状態。

または、他に飲まれた状態です。

「真面目は報われる」という考え方は、逆説的に意志を持たないことの肯定になるかもしれません。

報われないなら一旦立ち止まり、今一度自分を見つめる機会になります

努力の方向が違う、我にのめり込んで周りが見えていない、正しさという妄信が起きているかもしれない。

しかし、これ以上にお伝えしたいのは、報われると考えるよりも、「真面目は報うもの」にしたい。

そんなことから、「真面目なんて報われなくていい」という考え方です。

 

真面目な人ほど報う力を育める

なんでも
なんでも
真面目であることの素晴らしさは本人が最も体感できると思います。

それを感じるためにも、「報う」に変換する。

これまでしてきた行動、働き、苦労は全て報うための材料として残り溢れています

真面目にするには絶対的な主観が必要

意志が必要です。

実際に主観があり、意志があるから真面目になれます。

真面目に見せて実は不真面目、または真面目でも不真面目でもどちらでもない人には主観も意志も皆無、これを読んでも意味はありません。

自らを報えば、その働き、行為に後悔は出てきません。

それは真面目にやったからこそのものだと思います。

自分を信じたから、本気だったから、真っ直ぐにできることに邁進したから、後腐れは残りません。

自分のためにやっている前提理解が大切です。

この認識があるかないかで幸不幸は極端に変わると考えます。

 

注意点:「他のため」は二の次

なんでも
なんでも
気を付けたい点があると私は学びました。

「自分のため」を忘れない大切さ、「他のため」に偏らない大切さ。

「他のため」は大事、でも傾けすぎない。

例えば、友達の悩み相談を聞き、解決できるように努力した際。

「私が悩みを解決したいから聞く」を一つ。

そして、「この人が苦しみが解消されて欲しい」とか「喜んで欲しい」を一つ。

これだと自他両方のためでバランスを取れます。

注意したいのはバランス崩れ。

「この人のために」に偏ると自分を見失う可能性があります。

「私が聞きたいんだ」「私が優しくしたいんだ」「私がこの人の喜びを見たいんだ」を忘れてはなりません

言い方を変えると、境界線を明確に持ち続ける。

または、自分の行動は自分の責任によって成り立っていると把握することです。

私が体験して気づいたのは、周りが見えなくなるほど努力するのは、相手のためにも自分のためにもならないこと。

埋まり込まないためにも常に自分が第一、その後に他です。

これが結局他のためになる。

家族であっても、とても身近な存在だとしてもです。

そんなことを考える今日この頃です。

 

最後に:真面目は報われなくていい

私たち人間の基本原理、「人間は自分の精神を満たすために生きている」

これを忘れない大切さがあると今一度熟考します。

主観は外さず、目的を明確にして、意志を持ち、いざ行動。

自らを満たせるからこそ他者を助け、守り、喜んでもらう行動へ向かえます。

これのポイントは、「どんな状況でも自らを満たす、そして他へ向かう」です。

満たせていないのに頑張り、努力し、一生懸命にすると、私の理解では道を失います。

なので、まずは自らを満たす、どんな状況でも。

怖くても、辛くても、苦しくても、ガタガタ震えていようがなんだろうが自らを満たす。

その後。

その後に大いに真面目に、大いに誰かのために、他のために、世のために頑張ればいい。

真面目は報われませんが、自ら報えます。

失敗も苦しみも反省も全てのことに意味があったと実感できます。

それほどに重要な経験、学びはないように思います。

真面目なんて報われなくていい。

そんな考え方でした。

    COMMENT

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です