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【精神理解:愛の歪み】執着を手放す本質3選&方法

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貪り離れない、すがりつくす姿、執着。

物事の本質は常に近く、最も近くにあったりします。

それは、本当に恐れているのは周囲ではなく、自分の内側に巣喰う“己”であるように。

執着とは自分そのものの姿であり在り方、そして生き方。

他人に執着、それはできないことであり、実際には執着とは自分自身に囚われた姿・形・様相。

ここでは、執着を手放す意味をホリホリ探求していきます。

  • 執着を手放すことの本質を考えたい
  • 実際に執着を手放す方法を考えたい

執着の手放しは、ある恋人への強い思いをなくす、そういった類とは違うかもしれません。

自分自身にしか答えは出せないため、少しばかりですが自己世界をご自身で探求する指南書になれば何よりです。

それでは、執着という何かの探求を始めましょう。

執着を手放す意味3選

執着を手放すとは…

なんでも
なんでも
執着とは、一つの物事に心を囚われ、そこから離れられないこと。

さまざまな物事が対象になり、執着心がない人はおそらくこの世に存在しません。

相続での金問題、恋愛のベトベトン、結婚相手に求める条件羅列、仕事場でのポジションの奪い合い、物欲にまみれて刺激を求めずにいられない。

日常生活の多くは執着で溢れるのが私たちの社会です。

毎日欠かせない晩酌、美味しいご飯を食べたいマインド、仲良しカップルという周縁的振る舞い、将来を危惧する不安も執着があるからこそ。

幸せな感情は、それが崩れた時に執着だったとわかる儚いものかもしれません。

夕飯にカップラーメンを出されたら納得しないマインドが現れ、結婚生活になった途端に嫌になって自暴自棄。

あんなにあの人を愛していると思っていたのに、今じゃカナブンを見てる方が幸せだ。

全て同じことを言っています。

執着とは自分に対するもの。

「こうあって欲しい、こういうものだ、こうだったはずじゃないか」と認識し、自己世界・願望・欲求、またはそれらに対する不納得と不満足の抗い。

根底にあるものが見えます。

自己愛です。

自己愛に執着することで納得を求め、満足を求め、それらの過去の味わいがなくなると不納得不満足になり、自分の願いと欲望と思い込む世界に心を囚われます。

執着とは自己愛に心を囚われた状態。

執着を手放すとは、自己愛に心を囚われた状態を知り、手放すこと。

これがここで探求していく考え方、ポイントになるのが“愛”の歪みです。

 

➀執着を手放すとは、愛の歪みをなくすこと

愛。

人、動物、植物、菌など、他を愛する気持ちは心地良く、少しでも多く味わっていたいと思える感情です。

しかし、大切なものを愛し、強く愛して失った時、大きな辛さと苦しみが生まれ、心が痛み、精神が病むことも。

愛とは受容と恐怖の二極一体。

良い面だけを受け取ると、恋愛は好きでも結婚はできない、そんな人もいると思います。

人によっては愛の一側面だけに執着している、または愛の別側面を拒否する自分に執着しています。

例えば、子供は無償の愛を持つ自由な存在です。

その愛をもらうのは周囲の大きな人間であり、もらうからこそお返しができ、相互交流が生まれる、子供さまさまです。

しかし、豊かさの多い生活であるほど執着は生まれやすく、「この関係が、この生活が一生続いたらいいのに」

それを失った時に大きな苦しみが生まれ、奪われた時には憎しみも生まれます。

愛は与えるだけでなく奪いもします。

心地良さだけでなく心地悪さも与えます。

これに執着すると愛欲や愛着者になる、または愛や幸せの反動を恐れて初めからその状態になりたくないと拒否する人もいます。

愛を好む人もいれば、嫌う人も出てきます。

良い悪い、正否概念の縛りは執着の典型。

愛の二面性を許容しない場合、愛は歪み、自動的に執着が生まれると考えられます。

この歪みになる原因が、自己愛です。

 

②執着を手放すとは、エゴに気づく進化のプロセス

なんでも
なんでも
愛が執着の基になる考え方は、愛というものは一瞬でエゴになり代わるから見出される理解です。

あれだけ好んで一緒にいたのに、相手の嫌な部分を見た瞬間にどうでもよくなる。

「どうしてどうでもよくなったのか?」

相手と一緒にいることでの自己利益にしか興味がなかったからかもしれません。

あれだけ好きだった貝、毎日食べていたのに突然食べるのがつまらなくなった。

「どうして食べなくなったのか?」

貝の中毒性に踊り、作用が切れて夢から醒めたのかもしれない。

それは魔性の貝だったと。

相互認識のない、またはその気のない(あるという思い込みも含めた)認識にて“自分以外の他”と関わる場合、愛は瞬く間にエゴになります。

実相は元々エゴだったものの上塗りがなくなり、いつの日か現実や事実を見なければならなくなる状態。

エゴとは執着そのものなので、この時こそエゴに気づき、自らの在り方を見直す機会になります。

現実と向き合い、向上させることでエゴは愛になり、相互認識による調和や思いやり、厳しさや無干渉も含めた“利他”を育むことができます。

執着を手放すとは自分のエゴに気づき、自らを変化させる進化のプロセスという捉え方もできます。

 

③執着を手放すとは、慈悲と思いやりの精神

なんでも
なんでも
愛の歪みを知るためにも、「愛ってなんだ?」を考える大切さがあります。

仏教では愛は実体として存在しますが、否定的に見ることもあります。

仏教で説くのは愛以上に慈悲

慈悲の心や思いやりの心です。

愛とは執着を生み、人間の本性を掻き現す恐いものであり、苦しみを生む煩悩の元とも言われています。

愛着や愛欲が強くなると物事の本質が見えなくなり、自分がしている行為すら見えなくなると何をするかわからない、そんな危険性もあります。

自己愛によって愛の一側面を見たくなると、「良い面だけ、(または)嫌な面はなくしたい」といった自己都合主義的な良いとこ取りになりがちです。

ポジティブを好むか、ネガティブを嫌うか、性格や気質によって自己都合傾向がありそうです。

なんでも
なんでも
どちらも自己愛に基づくため、考えたいポイントはこれです。

『自己愛の範囲をどれだけ大きくでき、どれだけ“自己”の囚われから離れられるか』

自己愛の範囲を大きくできれば、他者も包み込むように愛し、みんなハッピーハッピー。

ですが、一方で無意識の支配が起き、相手を自分の認識で決め付ける縛りや思い込み、偏りができて苦しみが生まれ、戦いも生みます。

大前提、みな一様に同じ精神目的があると思います。

「自分の精神を満たすために生きている」

自分の精神を満たすことにどれだけ“自分以外の他”を含められるかに、自己愛の呪縛解放があり、愛の歪みをなくし、自動生成的執着の手放しがあります。

執着を手放すとは愛を理解する(=自己愛の呪縛を解く)ことが主体

この上で、“自分以外の他”をどれだけ自己精神の満たしに含められるか、という考え方です。

ここに、仏教で言う慈悲や思いやりがあります。

 

執着を手放す方法

執着を手放す事前準備

なんでも
なんでも
これまでの内容を要約しながら、手放すためのポイントを二つお伝えします。

執着の手放しで鍵となるのは、“愛”を知るためのスタンスだと考えます。

例えば、強く恋焦がれたり、愛する人がいます。

相手を想う時間が好ましく、一緒にいる時空は心地良い。

ミステリアスな人であるほど妄想と空想を広げやすく、より楽しく自己世界を広げられます。

しかし、現実はどうでしょう。

幻滅、惨憺(さんたん)の雨嵐。

失望と欲の抹殺、落胆と滅失が多いほど執着していたことがわかります。

エゴでなく、愛があったとしても同様です。

幸せいっぱいの人間関係、毎日笑顔が絶えず、嬉しくてたまらない。心地良い状態では着目しないけれども、ある気づきのタイミングで露呈する現実。

大切な人を失うことでの辛さと苦しみは、対象に執着していればいるほど強くなります。

私自身、大切な人を亡くしたりお別れした際、強い執着は続き、何年も続きました。

そこには認めたくない気持ちがあり、向き合いたくない気持ちがあり、自分に執着があるとは思いたくない気持ちがありました。

しかし、愛とは現実を意味します。

あらゆる執着にある愛、その基盤にある自己愛(自己精神を満たす目的や存在意義)は、“執着している自分”という現実を露呈させるために欠かせないもの。

現実を見る力が、愛です。

執着を手放すためには、自分の愛する気持ち、愛したい気持ち、愛されたい気持ちには常に認めがたい事実も内包していることは欠かせない理解だと考えます。

だからこそ何かを愛することには勇気、覚悟、意志が要ります。

そこにはいつ何時訪れるかわからない恐怖があり、闇があり、拒否したい、見たくない事実が約束されています。

愛とは陰と陽、秩序と無秩序、受容と恐怖の二極一体化の理解。

二つの側面を受け入れる先、明るさも暗さも共に見つめる先、楽しさも厳しさも、愛情も恐怖心とも向き合う先に、執着の手放しがあります。

執着を手放す事前準備としてお伝えしたいのは、

自己愛が執着を生み出している理解

ポジティブな面だけでなくネガティブな面も“必ず”存在する

事実と現実を見つめる勇気と覚悟が必要

 

執着を手放す方法➀:愛の失敗

なんでも
なんでも
私の理解としてお伝えしたいのは、愛着や愛欲による辛さや失敗経験の大切さです。

愛着や愛欲が強いほどに、自分にとって認めがたい出来事、不満足や不納得な事象が起きた時に、どれだけ執着していたかわかります。

執着心の自認は、実際に愛着や愛欲、他人への期待、干渉、思い込みなど、強い自己愛があるからこそできます。

意図的に執着を手放す場合、執着を見つけ、特定して初めて手放すことができます。

「あ、私ってこういう人間なんだ」

「これが私の本性であり正体なんだ」

「自分を愛しすぎたがための執着なんだ」

人によっては、「相手を愛していたのではなく、自分だけを愛していたからこその執着なんだ」ということもあると思います。

気づくために失敗や醜態を初め、辛さ、苦しみ、痛み、心の傷、トラウマ、コンプレックスは大きな材料になります

失敗だと自分を認められるからこそ、「次こそは!」と自らを成長させる糧にもでき、同じ失敗を繰り返さないことに繋がります。

執着心の自認は執着を手放す行為です。

愛の失敗(またはエゴの思い込み)に気づき、愛の無知を経験から認めることが方法になります。

 

執着を手放す方法②:敬いと思いやり

なんでも
なんでも
方法は仏教で言う“慈悲の心”を持つ、と言いたいところですが、難しすぎます。

[する・しない]ではなく、[できる・できない]なので、何十年、何百年、何千年かかるかわかりません。

そこでお伝えしたいのは、執着を手放す核

[他]なくして執着の手放しはなく、[自]のみでは執着とエゴを増長します。

執着の手放しは愛の理解であり、自己愛の範囲を広げると同時に、「自分の精神を満たす」の「自分」にどれだけ“他”を入れられるか。

利他の心の育みが、執着を手放します。

自分を認識する際に“他”の割合を増やせられるほどに、敬い、尊重、祈り、謙虚さ、思いやりといった利他心を高められ、人によっては慈悲の心を磨くことができます。

[自分=自分+他]

[他]の部分がなくなればなくなるほどに自己中な人間になり、自分の精神を満たすために他を利用し、排他し、搾取します。

他の割合を高めて自分だと認識できるようになることが、執着を手放し軽くします

そのために、他に調和する、他を敬う、謙虚になる、他のために思いやる、他者目線で考える、他のために祈れる人間になることが方法になります。

が、本質を逸脱すると意味が一変するので、最後に注意点もお伝えします。

 

注意点&ポイント:執着を手放すとは、生き方

なんでも
なんでも
敬いや思いやりを持って他と接することが執着を手放す方法、ではありませんのでご注意ください。

敬いや思いやりは動作では成り立たず、気持ちがあるからこその行為です。

気持ちのない他のための行為は、自分のためにも相手のためにもならず、エゴと邪気を生んでしまいます。

例えば、相手への敬いを知らずに他者優先して自己犠牲すると、相手のエゴを増やしながら自らに不利益を課し、意識は現実を見たくなくなり愛は歪みます。

スピリチュアルな理解も含めると、カルマも生み出す結果同じことが繰り返される可能性もあります。

執着を手放すポイントは、敬いや思いやりを持つのが本質ではなく、他を含めて自分という存在を認識できる精神やマインドになること。

そのために重要なのが、敬いや思いやりを知ることです。

調和を知る、敬いの気持ちを知る、謙虚とは何か学ぶ、思いやりの気持ちを育む、他を理解できるように認識を高める、祈れるように自分の心を磨くこと。

知る、学ぶ、理解すること。

経験して失敗して反省して向上する変化を意味します。

執着を手放すとは、手放すための行為そのものも大切ですが、手放すための生き方が何よりも重要です。

自己愛を見つめ、利他の心を育み、愛を知るための生き方

だからこそ自分の嫌な部分も見たくない部分も見つめ、さらに関わる他の見たくない部分も闇や恐怖の拒否したい部分も見つめて関わる勇気と覚悟が必要になります。

勇気と覚悟があるからこそ、現実を見ることができる。

愛とは現実を如何に見れるか、知れるか、近づけるかの自と他の理解。

自分の理解のことです。

 

最後に:執着を手放す精神理解

あることの執着を手放したと思ったら、また状況が変われば執着している自分がいる。

「この人、あのこと」と執着を部分的に捉えると、一生終わりはないと思います。

なぜならば、本質的に執着とは自分のこと。

自分が執着をしているのは、自分に執着心があり、自分に執着する所以となる歪みや無知があるから、という考え方です。

私は海外を旅しながらさまざまな仏教関係者と会う機会が多いのですが、そこで思うのは仏教に帰依している人は覚悟が違うことです。

もちろん国によって例外は多々ありますが、家族という関係性(執着)をなくし、仏門をくぐることは真理の探究と共に、幸せとは、愛とは、恐怖とは何かを学び、知る覚悟の先。

あの人への執着を手放した、ではなく。

あの人に執着する自分を知り、内省し、向上し、磨く。

そんな心との向き合い、生き様に執着の手放しがあるのだと考えます。

日々が手放しの機会になる。

そんな精神的な考え方が自己を見つめ、広げ、変革していくご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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誰しもに人生を変える機会と選択があると信じています。

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

POSTED COMMENT

  1. トンボが飛ぶ季節 より:

    足がキンキンに冷える今日この頃ですね。
    まだまだ難しくしっかり理解できてないところもありますが、こちらのブログを楽しく拝見しています。YouTubeも楽しみにしています。
    (私は文字でじっくり読んで楽しみたいのでブログ派ですが)

    こちらのブログに出会ってから、数年前までは夢と散ってたことが、現実として叶いました。

    本来なら安らげる自宅で、気を使う・タイミングを図る・緊張する・顔が熱くなるほどの怒り、でもやめてほしいのに言えず我慢・言葉を選んでやっとの思いで訴えると悪者扱い…
    10年余りの辛さから開放されました。全て私の中にしか起きてないので側から見るとわからないと思います。衣食住には困ってないので。

    悪く思われたくない、ことを荒立てたくないという執着に囚われていたからだと今なら思います。

    しかし、もう疲れた…と自分の中の声が聞こえたと同時に、もうやめよう、とも聞こえました。
    ブログを読んで、あっこれだ、このことだ、とたくさんの気づきがあり、手放しの実行ができました。
    我慢や緊張から一気に開放されました。

    今、幸せです。

    あなたは私の人生を変えました。感謝いたします。ありがとう♬

    • 北斗 より:

      こんにちは。
      いつもありがとうございます。

      本当に、何よりです♪
      「幸せです」。いい言葉。
      はっきり伝わりました。
      本当に、何よりです。

      どういたしまして。
      そんなお言葉を頂けて、私は嬉しいです^^
      実りと学びある人生を歩まれてください。
      そして、これからもぜひ読んであげてくださいね。

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