スピリチュアル

【瞑想に集中できない時の大前提・コツ】重要な雑念と邪念の活用方法

なむなむと座り続けて五時間、痛みを通り越して足は動かない。

そんな後に、「はぁ、瞑想って最高」

どうして何時間も集中していられるのか、気になるところです。

瞑想すると雑念や邪念が現れ、考えが止まらず集中できない、周りが気になって邪魔、なんてことがあると思います。

私は18歳から瞑想を初め、インドネパールで修業させてもらったりと理解を磨き、毎日瞑想しています。

そんな人間ですが今でも雑念が現れる時はあります。しかし、集中できないということはありません。

この理由には、瞑想の大前提の理解があると考えられます。

そこで、集中できない時に大事な『大前提』と共に、より集中するためのコツをお伝えします。

  • 瞑想に集中できない
  • 瞑想だけでなく物事に集中できない
  • 瞑想する意味を今一度考えたい

瞑想に大事なのは雑念や邪念そのものです。

そんな理解が集中力を高める一助となり、ご自身の内面を知るご参考になれば幸いです。

変な本を売っております。

自己理解をギュッとした本(電子書籍)
※ふざけた人生哲学『幸せはムニュムニュムニュ』

瞑想に集中できない(雑念、邪念、邪魔)

瞑想とは意味深いもの?

そもそも瞑想とは何なのか。

シンプルに、「坐ること」です。

坐ってジー。

これだけです。

もちろんどんな効果を得たいかによって、坐って何をするかに違いがあります。

リラックス、思考クリア、ストレス解放、悟り、宇宙へ行くなんて人もいるかもしれません。

さまざまに方法はありますが、瞑想とは坐るというシンプルな行為であり、坐って生きている状態、「今ここ」を認識します

これを紐解くと少しややこしくなりますが、認識するとは、する側とされる側があります。

自分を認識することは、自らを知る側と、知られる側の両方を意味しますが、「自分自身で自分を知られるってどういうこと?」と迷宮へ入ったり、仏教でいう悟りへ向かったりなんなり。

こういうのは一旦置いておきましょう。

シンプルに瞑想とは坐って生きることであり、今ここを感じ、捉え、知る認識です

 

瞑想によって自分がよくわかる

瞑想すると認識の基がよくわかります。

スーハーと呼吸している。
息すると鼻の奥が痛くなる。
鳥の声が聴こえ、聴く媒体がある。
心臓はこんな風にビート打つ。
「このビートで音楽作れるじゃん」と考える。

ただジーっとしているだけで、感覚感受があり、その感覚をどうやって知覚しているか、その知覚をどうやって認知しているかに自分の肉体や心の使い方が見えます。

さらに認知情報を最終的に認識するために思考や心を使い、過去の観念や価値観を引用し、記憶を投影し、さらに未来のまだ起きぬ予想や期待、願望や欲求まで含めます。

認識する基である、自分がよくわかります。

瞑想とは、感覚、知覚、認知、認識というあらゆる自分を媒体にした活動であり、坐るというシンプルな行為だからこそ、より自分の感じ方、考え方、捉え方、知り方が明確化します。

呼吸や感覚を感じるだけでなく、考えることも含めて自分の活動を知れるのが瞑想です

そんな瞑想に集中できないのはなぜか、この自分も明確化してくれるのが瞑想です。

※瞑想による無の境地については、【無になる材料がある】無の境地にある精神的な意味とは? をご参照ください。

 

瞑想を邪魔する抵抗:雑念、邪念、考えてしまう

集中を邪魔する理由は、これらが考えられます。

集中を邪魔する要因
  1. 雑念や邪念
    …思考巡り、願望欲求
  2. 姿勢、骨盤のズレ
    …坐り方
  3. 電磁波の影響
    …スマホや電子機器の使用過多
  4. 波動の低い環境
    …周囲の人や住まいの影響
  5. ストレスや疲れ
    …体調不良、血流、エネルギー停滞
  6. 自我や我の強さ
    …自己ルールを主張、納得を求めるエゴ

状況や環境、電子機器、生活習慣や食事、自己ルールの押し付けや決め付けなど、集中の抵抗となるものがあります。

そんな中でも特に瞑想を妨げるのが、雑念や邪念。

いざ瞑想を開始すると、

「そういえば、犬のブータにご飯あげたっけ?」

「猫のウーシがやってるのも瞑想かもしれないな」

「足が痛くなってきたな、イテテテ、どうしよう」

「くそ、あの人に言われたことが蘇る、次会ったら言い返してやる」

「あれ、今何してんだっけ?そうだ感覚、呼吸に集中しよう」

(プー)「おいおい誰だよこんな時に、あれれ私の腸も動き出す、やばい我慢しないと」

終わらない雑念、邪念。

周囲が気になり、集中できない。

思考や感情、特に考えが止まらないと瞑想を邪魔する抵抗になります。

しかし、集中できない理由になっている訳ではなかったりします

瞑想とはこの状態の自分を明確化させる行為、この時に起こっているのは、その明確化されている自分を認識しないようにしていること。

集中できない理由は別にありそうです。

※考えが止まらない詳細は、考え事が止まらない時におすすめ│何も考えない方法はフォーカスのめり込み をご覧ください。

 

瞑想に集中できない理由:逆行、疑心、違和感、無知

リラックス、思考クリアのためなど、何かしら目的を持って瞑想すると思います。

目的を外側に発信する場合、集中できなくなる仕組みがあります。

外側に発信とは、何か行為することで外的に結果を得ようとするスタイルです。

例えば、瞑想でストレスをなくす、呼吸にフォーカスして思考を止める、無になって現状の不満や不利益をなくす、など。

「何かすることで、何かを得る」「自ら発信することで、利益を得る」スタイルは、どうしても欲と狙いを求めるゴール設定が自然と起こります。

資本主義社会ではとても重要ですが、瞑想に欲や狙いを込める発信行為をすると、「坐って生きている認識をする」という行為が一変

「坐って生きている認識をすることで、自分を望む姿・状態に変える」になります。

欲を満たす、狙いを叶える、求める自分に変えるなどの行為は、その目的に合わせた瞑想、いわゆる自分風の瞑想にする必要があります。

これはこれでとても大切、日本人が中国のラーメンを独自化するみたいなものです。

自分なりの瞑想とすれば、目的を明確にして得たいことのために邁進できます。

しかし、そもそもの瞑想とは何もかも変わってしまうため、自分なりのものにしない場合、集中したくてもできなくなります。

外側に発信する行為は、瞑想という内側を受信(認識)する行為と逆行。

「一体何をしているんだろう?これでいいのかな?正しい方法になってる?」と疑いが出てきます。

少しでも疑心が出ると、実際の行為と狙いがフィットせずにガシガシします。

まるでカナダの大きな樹海で一人ポツンとされたような、無意識に不安や緊張や無知による硬直が発生し、その自分を認識したくなくなります。

すると今この瞬間の自分の認識ではなく、想像や空想、過去や未来、欲求や願望、すぐに出てくる思考内を行き来します。

瞑想を始めた当初の私はまさにこの状態でした。

瞑想は目的設定がトリッキーであり、そもそも瞑想をする大前提の理解がとにかく重要になります。

 

瞑想に集中できない根本原因:大前提

瞑想、マインドフルネス、どちらも共通しているのは「今ここ」です。

「今ここ」とは「今生きている自分の実感であり認識」

自分そのものを受信する意味です。

この大前提があると、瞑想の目的は曖昧かつ明確である必要があります。

ややこしいですが、答えは一つに集約されます。

『自分を知る』

瞑想によってリラックス、思考クリアなど、利益を得るのは自分を知ることによる作用や効果です。

利益を得るためにするのではなく、利益を自ら作る前準備となる瞑想。

自分という曖昧な存在を、感覚や認知や認識など一つ一つ理解していくことで、リラックスだけでなく悟りや覚醒といった宗教やスピリチュアル開花にも繋がります。

あくまであらゆる行動や目的を果たすための前準備であり、利益や成果を作るための媒体を網羅する行為に効果があります。

イメージは、自分専用のガンダムモビルスーツをくまなく理解し、「よし、膝にオイルばっちし、もし壊れても設計図把握したから大丈夫だ」

受信スタイルである瞑想には、自分を主張する発信スタイルは合わず、行為と狙いが合わないと違和感や抵抗となり、集中を邪魔してしまいます。

受信凹スタイルは、「理解する、学ぶ、吸収する、受け入れる」が目的。

発信凸スタイルは、「得る、捕まえる、変える、変えさせる」が目的。

瞑想できないのは自我や我の強さなどの要因もありますが、それ以上に重要なのは目的の理解であり、瞑想という大前提を知っているか否かだったりします。

 

瞑想に集中するコツ&雑念と邪念の活用方法

瞑想に集中するポイント:雑念と邪念を活かす

大前提を知っていただくと、受信の大切さと同時に、瞑想の見直しポイントがわかります。

ポイントは、「瞑想をする」ではなく、「瞑想に自分を入れる」

別世界に身を投じるイメージ、そこは自分を知る世界。

受信スタイルが大前提になると、瞑想の目的がクリアになり、行為に疑心や違和感など無意識の抵抗がなくなります。

しかし、瞑想とはこれまで関わったことのない絡みづらい同級生と関わるみたいなもの、一筋縄ではいきません。

「先生、後ろの瞑想君がどうしても気になるんですが、どうすればいいですか?」

「そうだな、彼は教室の後ろの掃除ロッカーの上で瞑想するのが日課だからな、そのままそっとしておこう」

「でも先生、授業中なのにいいんですか?」

「いいんだよ、だって彼は瞑想君なんだから」

初めは疑心、違和感、抵抗、無知は自然と生まれ、気が散り、集中できなくなります。

そこで忘れてはならないのが受信スタイルです。

雑念や邪念は自分を受信して知る一つの材料そのもの、使わない手はないほど大事です。

方法は、雑念や邪念が出たら「ダメだ」と思わず、出した自分を観察するために活用します。

観察は二つのパターンに分かれますので、具体的な活かし方を順番に見ていきましょう。

 

雑念や邪念の活用法①:自分の雑念を客観視する

一つ目のパターンは、雑念が出てきた時、「あっ、雑念だ」と客観視できない場合です。

飲み込まれるように、頭の中が思考でどんどん埋まっていく状態。

この場合、瞑想は考えてしまう自分を客観視する練習になります。

自分の思考を知る目的を持ち、考えてしまう自分そのものを観察します。

注意しなければならないのは、思考に乗らない

目的は考えている最中の自分を知る

「あの上司、今日もガミガミ言ってたな」
「ストレス溜まってんだ、私に言ったってしょうがないのに」
「ペラペラペラ」

自分を知るために、思考に乗らず、思考の傾向を分析します。

「なるほど、怒られると不満が溜まる頭なんだ」
「結構気が強くて、抑えたくないんだ」
「本当は我慢したくないのが本音か」

雑念や邪念によって思考形態や癖や傾向理解でき、考えてしまう自分がどういう人間なのかわかります

すると俯瞰性が高まり、瞑想すればするほどに客観視できるようになります。

これによって次の工程に入ります。

 

雑念や邪念の活用法②:意識の違いを明確にする

初めから雑念や邪念を客観視できる場合はここからです。

何かしら考えが出てきたら、「あっ、雑念だ」と認識します。

[考える自分:認識する自分]を分けるのがポイント。

観察し続けるとわかるのですが、集中して思考したくないにもかかわらず考えてしまう場合、脳内に住む別意識(我)がお喋りしています

我は他によって自らを見出し認めようとする習性があり、マウントや他者承認欲求があり、他者との差別化、優劣差作りを求め、愚痴や悪口、否定や批判を好み、自己防衛のために発言や思考します。

「批判していない」と自らを誤魔化しながら批判するなど、人それぞれの性格や傾向があります。

我の自分を観察するのは、“自我(自意識)”です。

自我と我が区分けされると、我の思考や脳内お喋りは、「あっ、雑念だ」と捉えた瞬間に終わります。

ピタッと止まるのをぜひ観察してみてください。自我が意識の主導権を握って観察する立場になると、より自分の区分けが明確化します。

まるで自分を別人物のように捉えて理解できるのが雑念や邪念の活用であり、瞑想を思考的に活かす醍醐味です。

 

自分の中の意識の違いを知る

意識とは自分であり、自分のことを自分だと思ったり思わなかったりする、認識の源、存在の原型です。

私達は自らを認識する意識が分かれており、社会生活で他との共存をする影響からいくつかに派生します。

自我は自らを自らで見出し認めます。

「あの仕組みはどうなってるかな?虫の動きを探求したいな、明日はあれを頑張ってみよう、問題はあのスタックだ、どうすれば?」という自己解決目線の思考になります。

我は他によって自らを認めようとするので、「あの人にこう言われた、あれは納得いかない、なんなのあの態度、こらしめてやりたい」という目線の思考になります。

フロイト心理学では、三つの意識構造で説明しています。

  1. イド(本能、無意識)
  2. 自我(イドと超自我の調整)
  3. 超自我(良心、社会性、親の意識影響)

私は意識構造を[真我-自我-我(我から派生して超自我)]と捉えますがどちらでも構いません。

重要なのは、意識がいくつかあって自分という存在が構成されていることです。

瞑想の受信スタイルは意識の違いを明確化させ、どうして集中できないかをはっきりさせます。

意識毎の自分の傾向を知ると、疑心や違和感はさらになくなり、集中しやすくなります。

「我にはどんな傾向があるか?」
「自我はどうかな?」

瞑想によってより自分を把握していくことに意味があります。

理解が深まると思考を止められ、感覚にフォーカスし、感じている認識もなくなると、別の意識があるとわかります。

それを、真我と言います。

真我はインド宗教ではアートマンと言い、「認識するもの」を意味します。

真我があることは、認識されるものがあることを意味し、それが自我や我や超自我となります。

 

瞑想に集中するコツ

自分を知るという曖昧で幅広く、かつ明確な目的の上で成り立つ瞑想。

さまざまに集中できない要因はありますが、特に着目したいのは、[自我と我、雑念と邪念]

集中できない抵抗を取り除くために最もおすすめしたいのが、自我と我それぞれの理解です。

それぞれに作られた基が違い、他からの影響が違い、何がどう違うかは瞑想によってご自身が一番知ることを果たせます。

瞑想は繰り返して理解していく行為であり、集中するために頑張るのではなく、集中できない抵抗となる逆光、疑心、違和感、無知を少しずつ取り除くことが重要です。

受信的に自らを知ろうと受け入れることが、瞑想に集中する仕組み。

思考そのものではなく、考える基である意識を知る、そんな自己受容がコツです。

 

まとめ 瞑想に集中できない、雑念や邪念や邪魔

・瞑想とは今生きている自分を認識する行為

・発信凸による欲や狙いを得る行為ではなく、受信凹して自己内部を知る行為

・発信行為にすると瞑想は逆行し、不安、硬直、無知などの違和感が現れ、集中できなくなる

・抵抗の大きな要因となるのが、雑念や邪念

・雑念や邪念は我の行いであるため、思考を観察するのではなく、我そのものの自己理解を深めると抵抗がなくなる

・雑念や邪念を生む我を客観視できると、自我と区分けされて雑念や邪念は止まる

・意識[真我-自我-我(または超自我)]を知るための受信スタイルが瞑想

・自らの意識を知ることで自らを受け入れ、自己受容によって瞑想に集中できる

・集中しようとするのではなく、集中の抵抗となる逆行・疑心・違和感・無知を解消することが大切

雑念や邪念があるからこそ、今ここを生きている自分そのものを知ることができます。

我を客観視するのが自我、その先に真我、その先にもあり、自分を知ることは集中とは何かを知る行為でもあります。

如何に自らの分散を一つにするかであり、その橋渡しに雑念や邪念を生み出している今この瞬間の自己理解が欠かせません。

そんな理解が瞑想、または勉強やお仕事をする際の集中力となり、お役立ちとなれば幸いです。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

お手紙でこのサイトを応援する『お気持ちを大切にします』

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です