エッセイ

【ワクワクより重要】人生を楽しくする『無駄の味わい』

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小難しく『人生を楽しむ』ことを考えていると、ふと気づいた。

人生とはそれ自体が無駄かもしれない。

そしてそれが結果的に楽しく、または貴重な思い出になっている。

もしかすると人生の楽しみとは、「ワクワクする以上に無駄の味わい」かもしれません。

ここでは、「ワクワクするのは大切だけど、それはアクセントであってメインではない」とそんな私のようなタイプの方へ向けて、人生を楽しむ考え方を物語っていきます。

  • 人生を楽しくする案を知りたい
  • 無駄の使い方を考えたい

無駄なものはこの世にありませんが、無駄を嫌う世の中だからこその概念が生まれます。

「人生をどう楽しむか?」を考えるための、一つの材料になれば幸いです。

人生を楽しくする『無駄』

『無駄』という有意義

今の時代は無駄を嫌がることが多いかもしれません。

効率化と合理化重視、「労働力はみなロボットで、全員リストラだ」と管理者側は浮世立つ。

生産性を向上させ、質の低い製品を大量に流し、大量に消費し続ける。

まさに無駄を嫌がりなくそうとしながら、全てが無駄という喜劇。

なんでも
なんでも
もはや人間が無駄、この世が無駄かもしれない。

そんなことを考えると、「一体なんのことを言ってるんだ?」とこんがらがってきます。

・無駄とは
役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。
コトバンク引用

一般的に、それ相応の利益がないことを言います。

これまでは無駄ではなかったとしても、技術の発展で無駄かどうかの基準は変わります

コンビニができた当初はとんでもない利益性だったのに、あるのが当たり前になるように、慣れによっても基準は変わります

AIの情報量や情報処理能力に比べたら、これまでは秀才と言われていた人ですら、「あのぉいい加減諦めてもらえますぅ、遅いし間違ってるんで」と一蹴。

プライドズタボロ、とそれも無駄。

「これだけやったのに…」も無駄。

しかし、これだけやった過去や歴史があるからこそ、アルゴリズムができて情報の基ができてといったように、その無駄があったから効率化できているのもまた事実。

結局無駄なものはない、と仏教にはそんな考えもあります。

とりあえず把握したいのは、「無駄だ」と思う時は結果(利益)にフォーカスしていることです。

超有名7.9星レストランなのに客がいなければ全て無駄。

無数の虫が生息し、鳥がチュンチュン遊んでおり、土の中ではモグラとミミズがせっせと働き、植物の巡りと自然の循環が目まぐるしく起きている、のに。

せっかく公園を作っても誰も行かなければ無駄になる。

結果(利益)にフォーカスするというのは、人間が定めた基準で人間が見たがる範囲という、この世からしたら限りなく限定的で条件付けた世界だとわかります。

そうです、その見方こそが無駄。

無駄というのは制限して認識しようとすることそのものであり、私たちが見ているこの世界、そして私たちそのもの。

そんなことから、[無駄=相応の利益がない]という捉え方ではなく、

[無駄=人間の見る世界]だと。

人間を表す言葉であり、すなわち人間そのものを象徴する行為。

無駄であることは人間である、そんな有意義なお話を始めていきましょう。

 

無駄 & 無駄ではない

なんでも
なんでも
私たちはいかんせん見たがる範囲に狭めたご都合的な認識を持ちます。

そして、その見たがる範囲以外を認識できない

あのバッタはどうして一週間もカーテンにしがみついて、そして死んでいくのか。

「この行為はバッタにとっての瞑想であって、後世の生存確率を高めると最近の研究でわかってきたみたいだよ」

人間の基準で人間が見たがる範囲の限定的な条件付きの世界、これに当てはまる事柄ほど、「無駄ではない、利益がある」という見方ができます。

じゃあバッタに聞いてみましょう。

「ジジジ~ジ、ジ~ジジ(ほえぇ、そこはかとなく、ほえぇ~)」

…ポテ

もう、死んでる。

ルールに則れば、人間の脳みそで考えた物理法則を人間の言葉で読み解き、人間風に解説して人間としてわかったように振舞う。

虫の世界なのに。

哲学っぽくすると、

・無駄じゃない=わかった、またはわかったと思い込む世界

・無駄=わからない世界

二つの世界の重なり合いで私たちは世界を見ている。

例えば、運動会の玉入れ競争。

かごの中に入ったボールは無駄ではない、ていやっとブラジルの方角に投げたボールは無駄。

制限時間内で頑張って投げる行為は無駄ではなく、制限時間を超えていつまでも投げているのは無駄。

長い一日の中にある玉入れ競争のたかだか3分間、または地面に散らばった無数のボールがある中でかごに入ったボール数十個。

“無駄じゃない”というのは本当に限定的でわずかな部分の切り取りです。

条件付けた中で針の穴を通す無駄のなさも大切、無駄を嫌うことは利益を抽出する効率化の利点がありながら、他に従い、他が決めたルールに沿うためいつの間にか思考停止、認知力低下にも繋がりかねません。

大きく分類するとすれば、

・無駄じゃない=知、縛り、安息、損害回避、他に従う努力

・無駄=無知の知、自由、創造、自に従う、型にはまらない努力

“無駄じゃない”が多くなると息苦しさが増え、知能は高まりながらも自分で考えることの意味がご都合主義に突っ走りそうです。

両方があって成り立っているこの世。

ここでお伝えしたいのは“無駄”な世界がこの世のほんんどを占めていることです。

 

無駄にフォーカスすると…

ビロビロの皮になったボールでサッカー。

チームにメンバーは1人、これが100チーム集まって一斉に試合、「そのゴールに入れたら全員100億万点、やった!」

なんでも
なんでも
ルールがなければ、カラスが鳴るまで終わるタイミングも終え方もわかりません。

ゲームや遊びにはルールがあり、条件があるから勝ち負けや利益を見出せます

「こんな夜遅くに誰がサッカーなんてしたいんだよ」と思えますが、そこに放映や観戦など経済金銭といった価値があるから無駄ではなくなる。

一方で、無駄にフォーカスすると全くもって広い世界になります。

「夜遅くにサッカーしたいのはしたい気分だからさ」

「勝ち負けはあってもなくてもどっちでもいいんだよ」

「みんなでこの日って決めたから」ではなく、「今日はなんとなくそんな気分だったから」「誰もサッカー得意じゃないけどやりたいノリだったから」

条件付けた限定的な認識ではなく、「私がどうしたいか」「私の気分は」「あなたの考えは」「みんなの気持ちは」という世界。

その場その時に生まれる“感じ”や“組み合わせ”がある。

自ずとみんなでやるにはすんなりいかず、衝突や喧嘩も起きる。

先行きが決まっていないから今決める、みんなで決める、決まらないからと一悶着してたらもう眠る時間だ、「みんなじゃあねー」と。

「結局サッカーやんなかったね」

「無駄かよっ」と思えてきますが、そこにあったのは『今感じるもの』の感受。

今の認識です。

私は自分で豆を削り、ゆっくりお湯を注ぎながらコーヒーを淹れるタイプです。

一方でインスタントは便利で即座に飲める、味が嫌ならお湯を注ぐだけの美味しいドリップコーヒーもあり、無駄がない。

自分で淹れるのは無駄な気がしますが、あの一時にはあらゆる私の人生が濃縮されている気がして仕方ありません。

お湯を注ぐ時に、「今日は右周りか左周りか、両方いっちゃう?」とか考えながらグルグルグルーと目が回る。

「うえ、気持ち悪くなっちった」

一滴ごとにほとばしる豆茶のいきりを香り、いちいち肺に入ってくる感覚を味わう一時。

この無駄を続けることこそに、物事を味わい、感じる情けがあります。

がある。

感情や感受による味わいは生命の起伏。

無駄にかっこよく言うと、『生きている感じ』の味わいです。

生きている感じとは、人間味のこと。

映画の寅さんは社会適応した堅気、無駄とは思いにくい人生ではなく、旅をしながらフラフラと無駄に思える人生を選び、自ら「どうしようもないことをしている」と言っています。

無駄には人間そのものが濃縮されているように思います。

 

『無駄』という生きている感じ

無駄=自分で考える

なんでも
なんでも
他人が結婚生活を送る動画を観ました。

二人が朝起きる、歯を磨き、洗面台は化粧品で散らかり、寝室は脱ぎ捨てた服で散らかり、仲良くご飯を作り、バスケの試合をテレビで観戦し、笑顔でハイタッチ。

そして動画が終了…。

「えっ?!」となります。

「なんか意味があって作ったんじゃないの?」

「そこに伝えたいものとか、実は深い物語りがあるとかじゃないの?」

なんでも
なんでも
無駄を嫌う裏腹には期待があり、何か利益を貰おうとする思惑があります。

一方、無駄の味わいには自分で見て、感じて、考える働きがあります。

自分主体の認識がある。

「えっ、なにこれ?観なきゃよかったわぁ」なんてならない。

ピザをひたすら作る動画もそう。

別にピザ職人でも作りたい訳でも、もはや食べたい訳でもないが観ている。

「そうかぁ、うんうん」といいながら頷いているそこでは、自分の考えをピザ生地のように広げている、またはただただ感じている一時がある。

「感じることで思考を休められるんだって」とすると無駄ではなくなりますが、実際に思考が休まっても休まってなくてもなんでもよく、自分だからわかる認識がある世界です。

無駄とは他人が社会がどうこう以上に、自分が考え感じるリアリティ。

自己世界を見つめる時間であり、認知拡大場です。

 

無駄=生きている感じ

なんでも
なんでも
この前、戦前の日本での礼儀作法について学びました。

道端で人に会った際、近くで一旦止まり、帽子を取って、お辞儀し合い、スーと去っていく。

相手をしっかり認識している表現がありながらも、あまり干渉せずにサッと離れていく。

「素敵だなぁ」と感じました。

なんでも
なんでも
無駄を嫌う概念があると、「挨拶って無駄だよな」と思えそうですが、世界共通で大切にされている行為だと思います。

無駄を味わうからこそ挨拶の有意義を実感でき、そこにある人間味を感じられます。

無駄とは余白であり、自分の認識。

自分の認識とは生きている感じそのもの。

無駄を味わうことは生きている感じを味わう行為です。

世の中には無駄を嫌う環境がありますが、生きている感じを味わうために私たちは無駄を使うことができます

高台からお金をばら撒くのはまさに人間味。

趣味でビルの頂上まで素手で登っていくのは人間味。

熱意を持って泣きながら話している人を見たら、なんだか胸が熱くなるのは人間味。

「よっしゃ行くか!」と意気込んで早速、「あれ、どこ行くんだっけ?」となるのは人間味。

冷笑より情熱

無駄というのは無駄に熱いです。

 

無駄は人生を楽しくする

なんでも
なんでも
『生きている感じ』には喜怒哀楽全てがあります。

限定がなく条件もないため、全ての感受感情が網羅されています。

そのため、無駄には苦痛、めんどー、どうしようもないこともあり、ネガティブもたくさんです。

例えば、茶道の作法。

移動する時もスルスルと動き、身体の角度をいちいち変えて前へ、変えて右へ、変えて後ろへ。

とってもめんどくさい。

のに…

不思議なものですが、実際にカク、カクと動いたり、一つ一つの動作を重んじながら手足指先を意識してみると、面白い。

無駄には自分の考えや感じがあるため、その味わいには本人にとっての意味が見出せます。

右手をお茶碗の右側にフワッと持っていく、この感覚。

指と指の間にわずかな隙間を作り、空気を持つように柔らかく手の形を作る。

お茶碗とフィットしたその瞬間、有意義以外の何ものでもなくなる。

無駄の面白さは意味を見出したければ自分で見出せること、どっちでもいいその自由さ

さらに奥深いのは、めんどくさい、辛いなどの苦痛を超えた先を知れること

「あぁ嫌だなぁ、あの人の雑談長いんだよなぁ」

その状態を実際に思いっきり味わってみると…

パァっとその先がある。

嫌いな人だけどあえて関わってみる。

味わった人にしかわからない次のステージ。

嫌な気持ちだったのに、我慢ではなくちゃんと味わってみた暁には世界の広がりを感じられます。

とっても不思議な感覚になると思います。

なんせその広がりは光っている温かいもの。

「これはどこからどう見ても不味そうなんだよ、うえぇ」と思っていたのに、いざ口に入れてちゃんと味わってみると、あれ、あれれ?

なんと美味しいことか。

腐る直前のお肉が一番美味しいように、ちゃんと味わってみるとなんのその、光っているという世にも奇妙な世界です。

無駄を楽しむと、この先の世界を知ることになります。

それは自己開拓でありながら大部分を占める世界の入口です。

 

ワクワクより無駄の味わい

なんでも
なんでも
無駄を味わう目的には、限定や条件を付けない世界の味わいがあります。

自分を主人公にしながら、ポジティブもネガティブも際限なく堪能できることを意味します。

例えば、「ワクワクしながら生きる」というのはとっても楽しいと思います。

しかし、一歩間違えるとポジティブに限定する可能性があり、まさに無駄を嫌う在り方になりえます。

それはそれで大切ですが、パーティが好きな人もいれば美術館が好きな人もいるように、ワクワクをどれだけ主体にするかは人それぞれ。

私は、「ワクワクはアクセントであり、メインではない」と思っているタイプです

そのような方には、「メインは如何に無駄を味わうか」とお伝えしたい。

無駄の味わいそのものはあんまりワクワクしません。

結構地味です。

釣りでぼーっと待っている間を楽しむみたいなイメージでして、「よっしゃ、その間ビールでも飲んでようぜ!」とはまっぴら違う。

掃除をロボットに頼むのではなく、指先じゃないと届かない部屋の隅っこを自分でピーっと真剣にやる、みたいなものです。

「目的地なく夜な夜なドライブしてみる」

「あえて飛行機ではなくバスで行く」

「旅館に予約しないでみる」

「あえて迷ってみる」とか。

本当に迷って困ったとしても、自分自身に笑えてきます。

ポジティブな事柄でもネガティブでもなんでもいい。

「あれ、ここどこだ?」と見知らぬ駅で思う時、スマホでGPSを使って調べるのではなく、一旦駅を降りてみて、ちょっと自分の足と頭で楽しんじゃう。

スマホでチャチャっとやってパパッと電車に乗り換えてササッと目的地へ向かう以上に、後から思い返したら無駄を味わった方が楽しくなる、というイメージです。

無駄やめんどーを思いっきり味わってみるのが肝です。

メインとなるのは自らが無駄を味わい、物語りを作る行為です。

下ごしらえから力入れて、三日かけて唐揚げを作ってみる。

旅先で声の大きな知らないおばちゃんグループと一緒に観光してみる。

人生を楽しむ方法は、無駄で物語りを作ること。

生きている感じは常に無駄の中、という宇宙の裏側のお話でした。

 

最後に:人生を楽しむための『無駄』

無駄には利益はなくても人間味があり、有意義そのもの。

結局この世に無駄なものはなさそうです。

しかし、この世に無駄がないならば、この世は全て無駄である見方もあって然りだと思うので、人生そのものは無駄だというのもまた事実かなと。

両方あって生きている感じがあり、人間味があり、本人にとっての認識、世界を広げる時空があります。

「無駄かもしれないけど有意義である」と「無駄ではない」は全く別物です。

「無駄ではない」と思うものは限定的で条件付けられている物事が多く、それはそれで大切ですが、世界のほんの一部として見るといいように思います。

私は映画の寅さんが好きなのですが、寅さんは無駄なことばかりしています。

占いの本を嘘ばっか言って売っており、儲けたお金は仲間とのどんちゃん騒ぎで使い果たし、もはや支払いができなくなって妹に迷惑をかけています。

「これが人間だ」と思ってやまないその姿は、「無駄ではない」も欠かせないなと教えてくれます。

今も大切、終わってみた時も大切。

そんなことを思う今日この頃。

最後までありがとうございました。

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