生き方

泣き虫も弱虫も感受性が豊かな証拠【強すぎを豊かさに変える】

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泣かない神がいれば泣く神もいる。

世の中には泣き虫も弱虫もおり、弱そうに思われるが実は強かったりする人もいる。

そしてそんな弱さも強さも表す原液となる、“感受性”が私たちにはあります。

感受性とは一体なんなのか。

ここではそんな性質の“豊かさ”について深掘りしていきます。

  • 感受性の豊かさとは何なのか考えたい

感受にはリアルな体感経験が大切だと思いますが、言語化はサポートとしてお役立ちになれば幸いです。

一つの考え方としてご覧ください。

感受性が豊かとは?

感受性とは

感覚、感情、気持ち、直感、ひらめき、第六感、霊感と、幅広く感受する性質。

微量な電気やエネルギーといった“刺激(変化)”を認知する力。

言い方を変えると、外界からの刺激を受け取る器、力、性質です。

スピリチュアルな捉え方をすると、因果応報を受け取る力であり、カルマの返報速度を左右する性質と考えられます。

なんでも
なんでも
自分だけでなく他者の心の変化、小さな気分や機嫌にも気づき、現実の細部まで鮮明に見る力にもなります。

「なんかこの人の笑顔はきな臭いな」と感じ、実は嘘をついていたなんて具合に敏腕取り調べ員にもなります。

外界から流入する情報を受け取り、周囲の邪念や思考をエネルギーで感じ取り、急に気分がよくなる、急に気持ち悪くなるといった翻弄も起きます。

HSPやエンパスといった敏感な人もおり、感受性の幅・質・使い方によって、感受性が強すぎる場合もあります。

「あぁ、本を読んでいたら字が踊り出す」なんて具合に。

とにもかくにも、感受性とは外界の情報(電気やエネルギーなど)を認知する力、現実を鮮明にするきめ細やかな色付け。

外界を認知することは内界との差異を見出す能力にもなるため、自分の内側と外側の違いを感じ、発見する性質だと考えます。

感受性とは:自分の内側と外側の違いを感じ、発見する性質

そんな感受性が“豊か”とはどういう状態なのか。

深掘りに入りましょう。

 

感受性が豊かとは

豊かさ。

潤いがある幸せそうな感じ。

心置きなく感受できる満ち、充足、プリップリに身が締まった美味しい幸福魚のような。

感受に制限や歯止めがなく、かつ充足を感じるのは自己発揮、解放感全開になれるから。

縛りや誓約、裁きをしない、レッテルのなさ、フィルタリングのなさ、まるで自然のまま。

そのものをそのまま感じ、そのままをそのまま感じる。

認知力の最大発揮、現実を見る上での制限のなさ、現実の認識度が高く、解像度が高い鮮明さ、細部までクリアに見えるさま。

現実を感じ取る力が高い状態です。

なんでも
なんでも
そして特にお伝えしたいのが、現実をクリアに感じられる人は本質や真理を見れるということ。

誰しもにとっての普遍を感じ取れる人は、世の中で価値(気づき)になります。

感受性が豊かな人が描いた絵には、訳もわからず心躍る気持ち、心沈む気持ち、歓喜に衰弱、心惹かれる何か、感動があるかもしれません。

映画の論評をすると、心の響く何かがある。

詩をうたうと、心惹かれる言葉が残る。

デザインすると、長期的に売れ続ける商品になる。

話しているだけで、周囲の悩みが解決する。

話しているだけで、見つめたくない自己に気づき、恐ろしくなる。

それは嘘偽り、誤魔化しのない、正真正銘の真実

良いも悪いも両方の気持ちを誘発させる働きとなり、真実を見たくない人には恐怖を与え、見たい人には希望を与え、見れる人には涙を与えます。

現実を誤魔化しなく感じ取る力の高さにて、陰も陽も善も悪も共に認知する機会が多く、それを余すことなく味わうさまに感受性の豊かさが見られます。

それによって、周囲に与える本質的影響力も生まれるという考え方です。

 

感受性が豊かな人の特徴

なんでも
なんでも
一体どういう人なのか、よりわかりやすくなればと思いますので特徴をご覧ください。
感受性が豊かな人の特徴
  1. マイペース
  2. よく涙を流す
  3. 恐怖を感じやすい、臆病
  4. よく気づく、気が利く
  5. 心が主体、感動しやすい
  6. 否定しない、許す、寛容
  7. 直感、衝動的、ひらめきが多い
  8. 感性が独特、よくわからないことを言う
  9. 与えることが好き、他者のために頑張る
  10. 感じるのも考えるのも両方好き、賢い
  11. クリエイティブ、独創的で作るのが好き
  12. 自分の世界がある、ぼーっとするのが多い
  13. 想像力があり妄想癖、頭の中でドラマができる
  14. 寂しさも悲しみも、喜びも楽しさも両方大切にする
  15. どんな形でも自分の感受を誰かに表現しようとする(自然と)
    例:踊り、歌、絵、文章、料理など、本人が心からやりたいことをやっているさま

マイペースは特出する欠かせない特徴だと考えます。

これを前提に、魅了、感動、恐怖、おののきなど陰陽両方による心のブルつきを感じ取ります。

これが意味するのは、感受に損得や勘定の含まれた思考的制限・制約がないこと。

縛りなくそのままの現実を鮮明に感じ取るだけではなく、感受に邪魔が少ないことです。

感受に邪魔がないのは、知覚した情報を処理させられるのではなく、自分で処理するから。

知覚した情報を基に自らで現実を作るからだと考えます。

生きているとさまざまなことを経験していきます。

その経験には必ず刺激があり、刺激の認知体験によって、「あ、この刺激知ってるよ」と心身が覚えていきます。

知っている認知が増えると、「あ、この匂いは今夜この家はカレーか」からはじまり、「あの木のモコモコ、上司の顔みたい」となっていく。

「水面のキラキラ、太陽からやってきた妖精が海に向かって行進している姿に見える」

どんどん創造されていきます。

見る世界、嗅ぐ世界、聴く世界、味わう世界、触る世界。

これらを感じ取り、“自分の”見方、嗅ぎ方、聴き方、味わい方、触り方を作っていく人。

これにマイペースがあり、独自性、独特さがあり、そして現実を鮮明に見る器や力があります。

なにより、その世界の知っている認知が多いからこそ創造できます。

心が、身体が、細胞がたくさんその世界の認知を味わったからこそ何かを作り、生み出すことができます。

感受性が豊かな人とは、感受性を使って創作できる人であり、感受した世界をたくさん味わってきた人のことです。

 

感受性の強さを豊かさに変える

感受性が強すぎる状態

なんでも
なんでも
感受性の強さは敏感や繊細だからこその賜物でもあります。

しかし、過敏になり、騒音に悩まされ、視覚情報の多さに目がくらみ、においが気になって仕方なくなります。

同時に、雄大な自然風景に見惚れて涙が流れ、映画のワンシーンに移入して感動し、焼き肉屋に行けば香りだけでご飯をバクバクいける。

良いも悪いも共に同じ位多いです。

繊細な感度と鋭敏な刺激流入は、細胞を切り刻むように記憶の単数がミクロ化し、一つ一つを感じるために膨大な感受量として溢れます。

常に爆音鳴り響く奇妙な世界で翻弄されて、ベロベロの雑巾になった気分。

酸いも甘いも生きていることが炭酸的になります。

私自身がこのタイプでして、特に子供の頃は刺激的な世の中に下を向くか唾を吐くかの日々でした。

そんな感受性が強すぎる状態明確なまでに顕著になることがあります。

とにかく気にする

周囲に合わせる(または合わせないか極端)

感受の強さ故に、他からの干渉は相手に悪意がなくても自己世界をひん曲げる要素になります。

“感覚や感情”という自分にとって明確な認知があるのに干渉されることは、強烈な抑圧、縛りつけになり、自分を見失えないのに見失わせるという苦しいもの。

強要されれば、「自分に嘘をつけ!」と怖がらせてくる感覚であり、自分が明確にあるのに別物として生きなければならない。

保育園のダンス会、白タイツに黄色い被り物、ヒヨコになって踊りましょう。

死んだ魚の目をして微かにフリフリする5歳児になります(私のように)。

そのため、(私だけかもしれませんが)基本的に聞く耳を持ちません

しかし、親や身近な人には通用しますが、この在り方では社会的に問題やトラブルが増えるため、聞いているような耳を取り付け、聞いている素振りを演じます。

この世では一人で生きていけないため、干渉なくして生存なく、自己世界を守るためにも干渉に対して戦うか諦めるかします

戦う人は徹底的に周囲に合わせず、諦める人は周囲に合わせます。

どちらも自分なりの社会適応であり、努力と頑張り。

この結果起きるのが、とにかく周囲を気にすること。

感受過敏、適応障害にもなり得て、生きづらくなります。

 

感受性の貧しさ

なんでも
なんでも
強すぎることでの弊害があると、感受を制限したくなる人もいると思います。

その最たる方法となるのが、認識の誤魔化しです。

「そう感じたけれども、そうではない」と自分に言い聞かせ、あやふやにする。

「この人ただ偉そうに喋ってるだけじゃない?でも有名な人だからきっとスゴイ内容なんだ」

「このお店はなんか入りたくない、でもレビューはいいから良い店に違いない」

感受とは正解も間違いもなく、ただ自分にとっての答えです。

認識を誤魔化す、他人の言っていることを優先する、自分の意見を抑圧することは、答えである感受を否定することを意味します。

それは、自分を否定すると同義。

自分を否定すると感受機能は衰え、感性が消えていきます。

感性が消えると自分なりの捉え方、独自性、独創性が育めなくなり、毎日が同じ白黒になり、自分の世界観がなくなります。

できるのは否定か従順かになり、みんなが否定していれば否定し、みんなが認めれば、「あぁ、やっぱすごい人だった」と認めます。

無。

そこにあなたはいない状態です。

認識を誤魔化すと大衆的にみんなに従うことで生きる道はできますが、感受性は貧しくなっていきます。

自己世界の彩りがない、誰かに彩ってもらう必要があり、これを依存や執着と言います。

感受は自分にとっての答えであるため、感じているのにないがしろにすると認識の誤魔化しにも無意識の自己否定にもなり、世界が薄れるように現実を見る力がなくなり乏しくなるという考え方です。

 

強さを豊かさに

感じた以上は感じた。

感じた以上は感じたことを認識する。

認識を誤魔化さないことは、自分の感覚や感情へのリスペクトになります

それはそのまま自分そのものの尊重になります。

“感じたもの”をないがしろにしない人は感受性が豊かです。

ここでポイントになるのが、ないがしろにしない上で邪魔がいること。

邪魔:「それはダメ」「~しなければならない」という観念縛り。

これら観念縛りを解く方法として私が理解しているのがこちらです。

豊かになる方法:泣き虫になる、弱虫になる

私の理解では感受性が強い人は全員泣き虫で弱虫です。

全員すぐ泣く、全員臆病です。

なぜならば心に感受が届くためにブルつきやすい、感動しやすい、魅力を感じやすい。

恐れを感じやすい、恥を感じやすい、痛みを感じやすい。

だからこそ、「負けない!」と頑張り、泣かないように我慢したり、恐怖を克服できるように恐怖に浸かり、慣れさせ、耐え、自分が恐れる前に周囲を恐れさせようとする人もいます。

克服したら、「怖い」を認められるようになりますが、「怖くない」にはなりません。

感情を隠蔽して、「何も怖く感じない」と思うことはできますが、心を開けば「怖くない」ではないことは明確です。

ないがしろにしないとは、泣くなら泣く、怖いなら怖い、弱いなら弱いと認めること。

ネガティブなこと、特にそれが恥や見栄の上塗りになる事柄は認め難いですが、感じた以上は感じたことに良いも悪いも正解も間違いも評価付けせず認める。

この認める行為が現実を見る力になり、豊かさを作ります。

感受性が強い人はみんな泣き虫で弱虫だからこそ、泣き虫で弱虫であると認めることが豊かさを創作する在り方、という考え方です。

そして大いに泣き、大いに恐れると感受性は豊かになります。

 

強すぎを豊かに

なんでも
なんでも
“強い”ではなく“強すぎる”状態には別の理解があります。

周囲からの干渉を嫌がり感受を守ろうと貫きに徹したり、諦めて周囲に合わせると強すぎる状態になります。

自分の感じたものが絶対的であるため、[感じて→従う]以外の選択肢がなくなりやすい。

強すぎは従う一辺倒になりがちです。

従う一辺倒だと、私のようにダンス発表会で死んだ魚の目でステージで一点を凝視することになります。

ここで豊かさとの違いになる決定的なことがあります。

感受性が強すぎると、マイペースがない

周囲に合わせる人は言わずもがなだと思いますが、合わせない人もマイペースがなくなります。

我が道を我がやり方で貫いているように見えますが、干渉を嫌がるが故の自己保持のための一貫であり、周囲の影響在りきによる防衛的貫きです。

頑張ってする自己の貫きは、マイペースとは別物。

マイペースがあることで、[感じて→自分なりに受け取り→従うかどうするか選択]ができます。

感じたら即座に従う状態から、感じて自分なりに受け取る一呼吸を挟むと、感覚や感情に支配されなくなります。

感覚や感情に従うかどうかは時と場合に応じて選べるようになり、インドに行けるようになります。

例えば、執拗な客引きに対する煩わしさを感じて即座にイライラし、「あーうるさい!どっか行け!」だったのが、

「うーん、この人はハエみたいに煩わしいな、うん、距離を取ろう」となるイメージです。

「うわ!とんでもない異臭がする、ぐっ、ヤバイ、オエッ」だったのが、

「うわ!とんでもない異臭がする、よし、一旦息を止めよう、よし退避だ退避、タタタ」

抵抗や嫌悪があっても一旦感受してしまう以上は感じ、「その感受をどうするか?」を自分なりに選択するとないがしろにしなくなる仕組みです。

このためにマイペース

自分が感じている意識

勝手に感じてしまうではなく、自らに感じさせられるでもなく。

自分が感受機能を用いて感じ取っている自覚がマイペースを作ります。

感受性が強すぎる場合、マイペースを意識して見出してみると感受の使い方は変わっていくことと思います。

 

最後に:感受性が豊かとは

豊かさはその場その時の資源からではなく、自らが感じ取る力量や感じ取り方、そのための器や許容にあります。

どれだけ大自然の恵まれた環境にいても、心の貧しい人はいます。

どれだけ経済的に恵まれていても、感受に貧しい人はいます。

豊かさは心の余裕でありながら、なにより重要なのは自らがその資源を尊重し、ないがしろにせず、しっかり受け取ることだと思います。

豊かな人は自らの感受、それは些細な直感も見逃さず、無視せず、受け取り、どう使うか考えます。

そして行動力にも情熱にも勇気にも楽しみにもします。

「あ、なんか今日はいいことありそうな気が」と朝起きて感じたら、それをしっかり受け取る人には幸運がある。

「なんかわからないけど幸せな気持ち」と感じ、しっかり受け取る人には運気がある。

感じるもの全てが私たち一人一人の資源です。

それは喜びや愛情だけでなく、悲しみも寂しさも、陰も陽も資源となり豊かさの原液です。

自らの資源の豊かさに気づき、大切に使う結果に豊かさがある。

そしてそれは現実を見る力そのものという考え方。

意味あるものとなれば幸いです。

ありがとうございました。

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