エッセイ

【エゴの味わい】嫌なことを言われたら『ちょっと大人になるチャンス』

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「へぇ、旅行がそんなにできるなんて、いい身分だね」

プチプチプッチンプー!

となるのか。

はたまたサラッと流すのか。

私たちが生きていたいのは真実でありリアリティ。

嫌なことを言われた時、利益不利益換算の攻守、そういった脳のまやかしではなく、「大人の階段の~ぼる~」があります。

せっかく嫌な気持ちになったなら、ちょっと大人になれるかも。

ここでは共存に付きものの、『嫌なことを言ってくる』をチャンスに変える作戦をお伝えしていきます。

  • 嫌なことを言われた時の考え方を知りたい
  • やり返すよりも大人の階段をのぼりたい

相手がせっかくカルマを作ってくれてるなら活かしてもいい、そんな考え方。

一つの精神向上としてお役立ちになれば幸いです。

Youtubeもありますので音声版はこちらからご覧ください。

嫌なことを言われた時の対処

嫌なことを言われた時のダメージ

なんでも
なんでも
冒頭の、「へぇ、旅行がそんなにできるなんて、いい身分だな」は私が実際に言われたこと。

とあるおばさんと出会い、楽しく談笑していた際に見ず知らずのおじさんがひょいっと横から入って来て、そう言ってきました。

「嫉妬かな?」「一人で旅行できないのかも?」「最近嫌なことがあったのでは?」「おばさんの事が好きなのかな?」など想像して処理するのも対処。

相手のメンタルや精神を深掘りして、「これだとああ言うのは仕方ない」と処理する対処もありそうです。

嫌なことを言うというのは唾を吐きかけたみたいなものなので、同じように嫌なことを言って平等、そんな考え方もよくわかります。

あまり気にせず流す対処もあり、流れれば思い出すことがなくなったり、笑い話や体験談エピソードとして使うのもできます。

私自身、嫌なことを言われた事実があり、記憶を回想するとたしかに言われた瞬間にチクッとしている気がする

流していたとしてもチクッを放置して私の意識の中に残し続けてきた可能性があり、もしそうだとしたら怒りが湧き出てきます。

こんな観察をしていると明確にわかることがあります。

怒りが湧き出ているのは私のエゴ

私自身の自我は何にも思っていない、「むしろそんな人いたなぁ」くらいでなんの思い入れもないので思うことがない。

これでわかるのは、嫌なことを言われたダメージはエゴが受けており、自我は何も貰い物がないということ。

エゴとは、実体のない個であり、自分を個別の存在だと錯覚する思い込み。真実を見れない意識。
※インド哲学では小我とも言い、他者と区別された不完全な個人存在、執着に囚われた限定的な自己のこと

自我とは、エゴ(小我)と真我(魂)を取り込む立場におり、心とも頭とも繋がり、肉体を操り生きる自分の中枢意識
※自我を中点にエゴを取り込んだり支配されたり、手放して真我を取り込んだりして『自分』として生きる状態

エゴを自分の意識の主体にしている場合、ダメージは大きくなります。

「すっごく嫌なことをされた」という認識をします。

私のように自我は何のダメージも受けていませんが、エゴはダメージを受けた世界に生きている。

トラウマになるかもしれない、心に傷が、あぁ苦しい。

「こ、これはハラスメントだ、おじハラだ!おじハラ!」とかなんとか騒ぎ出すかもしれない。

エゴが強いほどやりかえしたくなります。

カーン!とバトルスタート。

嫌なことを言ってきた相手と同じレベルでありステージに好んで立っています

 

言われてもサラっと流す

なんでも
なんでも
対処として最も多いと考えられるのが、流すこと。

「意見を言うのは自由だ」

「はいそうですか、それでねゴニョゴニョ」

流せればなんのこっちゃ、嫌な人の戯言で終わり、関わる必要がありません。

しっかり流せていれば引っ掛かりを残さず終わらせられます。

人によっては切り替え上手でパパッとなかったかのようにする人もいます。

サラっと交わして、はいさようなら。

現象として見てみると、相手の唾を吐いてきた意図や意思といったエネルギー(カルマ)が見えない世界では広がっています。

こちらに投げてきた嫌なエネルギーを避けて当たらなくても、目の前にいるはいる。

「あのぉ、一応これはきったねぇ攻撃意思なんですけどぉ…」とヘドロ玉みたいなのが空中で困っている。

これをはっきりと受け取らない

すると、ヘドロ玉は生み出しの親元に、「ただいま~、フワッ」と帰って同化していき、本人の毒になり自業自得の種となります。

例えば、しつこい客引きのヘドロ玉を終始受け取らなければ、本人にヒョロヒョロと帰るだけで、ヘドロ玉が臭いほど苦しむのは本人という。

流す対処はスマートで、時間の無駄をなくす合理的手法かもしれません。

問題を生まない策になります。

 

大人の階段のぼる

私自身、対等にやり返すこともあれば、流して終わらせることもあり、時と場合によって変わります。

なんでも
なんでも
対等にやり返せば、「子供だな」と思いますし、流して終わらせれば、「大人のふりしたな」と自分に思います。

特に流して終わる場合、自我は何も嫌な気持ちにならない。

嫌なことをわざわざされたのに、何も受け取るものも貰い物もない

※こんなつまらないことはないなと個人的には思っています

インドに行くと数が多すぎてやってられないので流しますが、時間がある時はもはや全部流しません。

中指立ててくるのでこちらも中指立てると急激に仲良くなる、そんな国がインドです。

喧嘩もするし仲良くもなる、そして何よりこの経験でわかったのは、嫌な気持ちの味わいほど学ぶことが多い

そのために流さない

でも対等にやり返しもしない

嫌なことをされた経験を活かすために、嫌なことを貰います。

例えば、路上を歩いているだけでいきなり喧嘩を売られることがあります。

以前にあったのは、「おれはライオンだぞ!」と目の前で吠えてきたおじさんがいました。

酔っ払いでして、「お前を倒す、噛みちぎるぞ!オラー!」と怒鳴り続けてきます。

「オラー!」とやり返すこともありますが、この時はちょっと冷静になってみました。

「わかったよ、ライオンなんだな、わかったから落ち着け、どうした?何があった?」と歩み寄る私。

それでもワーワー!と叫び続けていたおじさんはその内、「クソー!クソー!」と自分を責めだし、泣きそうな顔で静まり、トボトボ帰っていきました。

流さず、対等にやり返しもせず。

嫌なことを貰う。

そこには普段はもたらされない認識の時間があります。

嫌な気持ち、相手が発する攻撃、その意図、そこにあるドグマ、歪み、感じる不安、恐怖。

これらをまざまざと体感し、認識する時間があります。

シンプルに嫌な気持ちを味わっている時間がある。

そしてそれを我慢でも耐えるでもなく、ただただ味わい続けた先に、ちょっと大人になったような空を見上げる気持ちがあります。

世の中が広くなったような、夕陽が一段と綺麗に見える、きったねぇ空気をスーッと思いっきり吸える、そんな自分がいます。

「クレーム処理が本当に上手い人とは、相手を把握するでも手の平で転がすでもなく、嫌な気持ちの先の世界を知っている人なんだ」なんて思う夕暮れです。

 

「嫌なことを言ってくれる」という見方

ちょっと大人になる練習

言われても穏やかに愛を持って受け入れる。

なんでも
なんでも
そんな聖人君子もいると思いますが、受け入れる以上にお伝えしたいことがあります。

嫌な経験を貰うということ。

「嫌なことを言われた」と取る以上に、「嫌な経験を貰う」

経験として貰うというのは、その経験が自分にとって必要だと信じることを意味します。

「必要な経験だ」と信じられるからこそ、起きる物事を自己都合ではなくあるがままに受け入れる意識を持てます。

初めから受け入れる以上に、起きることの必要性を信じるからこそ受け入れているという流れです。

この見方はせっかく嫌な気持ちを味わったのなら無駄にしたくないという、もったいない症から来ている考え方でもあります。

なぜならば、苦痛や苦労といった辛さや過酷さ、そういった『嫌な味わい』は自分だけでは生み出せず、生み出したいとも思いにくい。

とっても希少価値の高いものです。

ポケモンもそうですが、そこらへんにいくらでもいるネズミのラッタとか、草のなんか生き物とか、希少性が薄いと味わう経験も単調で大衆的になります。

社会を見ていれば明白な、大衆経験をして大人になるとは一切思えません。

ちょっと大人になるためには、良いこと、納得すること、利益のあること、そういった誰でも味わえる、何にも考えずとも味わいたいと思う物事ではなく、その真逆が大切だと考えます。

嫌な味わいを経験するのは大変苦労が要り、そもそも自分で作り出せません

嫌なことをする人には大きなカルマの責任があり、好んでしたい人は少なく、見失いや未熟性、一時的なメンタルや精神不調など本人も辛い条件が揃って成り立ちます。

これだけ貴重なものをないがしろにしたくない。

実際に嫌な味わいをした先にあるのは認識の広がり、許容の広がり、恐怖心との向き合い、本能の呼び覚まし、感性と知性の拡大、そして愛の認知。

そこに自分の意志、自ら喜びを作る覚悟と決意があればエゴとは別物ですので、経験を味わう大義があります。

そんな見方では、世間は練習場。

日々の中にはちょっと大人になるチャンスが溢れている、なんて嬉しいですね。

 

注意点:嫌なことを流すのは難しい

なんでも
なんでも
嫌な気持ちや苦痛、不安や恐怖といったものは味わう前は拒否したいものですし、好んで味わいたいものではないと思います。

嫌なことを言われるというのはこちらがコントロールするものではなく、相手が言いたいから言います。

ふとした時にポロッと言われているものであり、気づいた時には既に苦痛ズキン。

「ネタバレするからそこからは言わないでね」なんてできない。

気づけばズキン。

あぁズキン。

痛みは相手次第で貰わざるを得ない。

これに対して対等にやり返したい気持ちは当然ですし、流したら流したで、「既に貰った痛みはどうする?」と疑問が残る。

既に貰っちゃってるのが問題でして、「じゃあ相手に返しましょうか?」となってはエゴになる。

「それじゃあ初めから貰わないように心を閉ざそう」と意図すればそれこそまさに空虚な個人主義と言う名のエゴになる。

エゴに飲まれずにお返しするのがおそらくブリティッシュスタイルであり、ユーモアと比喩たっぷりのジョークで返す知的策がある。

これは慣れていないと難しく、頭のいい人専用。

とにもかくにも、「既に貰った痛みをどうするか?」が着目でして、私たち日本人は我慢に慣れているので流せます。

しかし、「本当に流せているのか?」と疑問があります。

人によっては我慢や誤魔化しの一時凌ぎで、実際には流せていない人もいます。

「え、はぁ、はい、そうですね(…なんだこいつ、く)」

エゴは我慢や誤魔化し、正当化や見栄を多用し、ダメージがダメージをどんどん広げ、当初のものとは異形になります。

流れたようにして流れていないのもエゴの所業で、思い返すとモンモンとしたり、思い返さずとも不浄のエネルギーが身体に溜まり、病的なものとして鬱屈や暴発の原因になります。

我慢なし、かつ流すために相手の状況を把握し、「仕方ない」「同情する」などと納得できる解釈をする策があります。

しかし、相手の真意は相手にしかわからないため、多少の勝手な解釈や決め付けがあればエゴは知らぬ間に増えていく。

我慢も把握もなく対処する手っ取り早い方法が別にあり、それが『見下し』

相手を見下していれば簡単に流せますし、おそらく多くの人が使用している方法だと思いますが、言わずもがなエゴ、かつ強め

嫌なことを言われた経験をものにできないと、気づく気づかないは別にしてエゴが増えている可能性があります。

だからこそ定期的に健全な嗜好や発散が欠かせなくなり、発散しなければ精神が壊れたり、大病を患ったりと惨事が起きかねない。

「もういっそのこと嫌なことをされないように生きよう」となる場合もあると思います。

損害回避が必要になり、他人からの影響、不安や恐怖を味わいたくないという理由で自分を縛り抑え付けることにもなっていき、生きにくさが増えていきます。

嫌な味わいは一時のものですが、その一時を回避するためにしている努力や頑張りや工夫は割に合わないほど膨大な労費で長時間を費やしていたりします

実はスマートで合理的な道ではなかった、これが真実かもしれません。

実際に流すというのはとっても難しいことで、どれほどできているのか見つめたいものです。

 

「嫌なことを言ってくれる人」

「嫌なことを言う」

なんでも
なんでも
言わないとやってられないから言います。
※自制がないさま

そして言うからには相応の低いエネルギーが要り、相手に対する負の意図があり、邪の実行動があります。

大きな大きなカルマです。

これをする人は多大な損失を抱えながら相手を傷つけ、嫌な味わいを献上するという貴重な経験を生み出しています。

クレーマーの中に貴重な意見があるというのは本当にそうだろうなと思います。

そうでなかったら報われない。

虚しすぎます。

個体目線はエゴですので、エゴ目線で捉えると言わないとやってられない、自分のための他人利用です。

一方、全体目線(心や魂)では、身を削るかけがえのない自己犠牲による貢献かもしれません。

他による指図や強要ではなく、自らしている行為であるのがポイント。

自らしている以上、「嫌なことを言ってくれる人」という捉え方ができます。

そう思うと大人の階段をのぼらせてくれる人とは、実に嫌な人なのだと思います。

自然に感謝が湧き出るとか、出ないとか。

 

最後に:嫌なことを言われる有難さ

「とっても有難いなぁ」

なんて思えない。

それくらいがちょうどいい気がします。

嫌なことをしてくる訳ですから、嫌な人に他なりませんし、相応の報いを受けるべき人間です。

着目したいのは、嫌なことを言われ続けて黙っていてはいけないということ。

せっかくの経験を放棄し、相手のエゴを増長させながら自らのエゴも増えていき、マイナスしか生まれません。

ギャーギャー騒ぐ人を野放しにしてはなりません。

誰かが状況をデザインし、プロデュースする必要があります。

その力を活かす大切さがあり、それは周囲のためにもなり、まぁ本人のためにもなります。

本人のためになりますが安心してください、嫌なことをする人間のカルマがなくなる訳ではなく、「これまでの解消、よかった」なんてことはありません。

本人がいい具合に変わるかどうかは全て本人の努力と向き合い次第で、これまでと状況も状態も変わりません。

変わるのは周囲です。

捉え方、状況、心持ちが変わり、何よりエゴから抜け出た意識で物事の実相がより幅広く、鮮明に見えていきます。

それは嫌な人間を利用したのではありません。

努力して自力で見出した成長であり、経験を大事に取り扱うというこの世の摂理への敬意です。

苦痛の味わいによって生きる背景は瞬く間に暗いカラーになりやすいですが、どんな出来事でも世界の色彩を決めるのは私たち自分次第。

全ては心持ちであり、活かし様。

そんな理解が深まればいいなということで、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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