育ち

【どうしてそんなに強情なの?】我が強い人の育ちと対処法

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我、それはアートマン。

人間の根源的な存在、意識の根っこにある真我。

そんな我が強まると、意識の歪み、実在を根底からひっくり返す矛盾劇の始まり、まやかしにハマったありさまと化す。

どれほどまでの矛盾なのか?

ここでは、我が強い人の内情を明らかにするために、育ちと共に矛盾と幻想ができるプロセスを探求していきます。

  • どうして我が強くなるのか知りたい
  • 我が強い人と関わる方法を知りたい

“己”という幻想に飲み込まれたまやかし。

まやかしの鑑賞に付き合ってはいけませんので、意識理解にて関わりを対処する一助になれば幸いです。

我が強い人の育ち

我が強い人の共通点

我が強い:

他のことをあまり考えないで、自分の思いを通そうとする気持が強い。強情だ。意地っぱりである。
※コトバンク引用

我が強いとは、自分の意見を押し通す強情な人。

主義主張の強い人、なんて具合です。

なんでも
なんでも
精神的な捉え方を含めると、我に“強さ”が加わることは仏教で言う無我や、インド哲学で言う真我から遠く離れる状態を言います。

例えば、自然に穏やかにしていた呼吸を、強くスーハーする時が該当します。

空気の吸入量も排気量も増え、疲れやすくなり、循環が加速し、血流も変わり、熱くなり、エネルギー消費量が増え…

どんどん心身の稼働が増えていきます。

すると起きるのが、エネルギー、感情、欲望の増大

付随して執着心、依存心が肥大化しやすくなり、怠惰も増長

これに何も悪いことはないのですが、疲れたら細胞が栄養を欲するように必要とするものが増し、より質の高い自制や精神性が必要になることを意味します

「た、足りない、酸素が足りない…もっとくれ、はやくくれ…ウップ…スースー」

必要であるならば、我が我がと周りを見ず、意見を聞かず、自分の意見や感情や欲望を押し通そうとするのは当然かもしれません。

これが、我の強い状態です。

自分にとって必要だと思ってやまないこと、実際に必要だと観念作られている事柄に基づいて、我を主張し、押し通り、周りを配慮せず、強情になる。

「これは欲が強いのか?エネルギーが強いのか?」

「それとも、自分にとって必要だと思ってやまない事柄が多いのか?」

我が強い人には共通点があります。

譲らないことです。

いわゆる、思い込みと決め付けが激しく、譲らないからこそ自分にとって必要だと思えば、「必要だ!」以外がなくなります。

この譲らないさま、強情さに育ちが関係している考え方、詳しく見ていきます。

 

我が強い人の育ち➀:「~しなければならない」

なんでも
なんでも
譲らない要因の一つとなるのが、徹底的なまでにルールで固められていることです。

観念が強固。

我が強い人は変わりません、変わる気がありません

この理由と考えられるのが、「~しなければならない」と恐怖心によって脳内プログラミングされた育ちです。

「食事の時はペチャクチャ話してはいけないよ」
「社会に出たら競争に勝たなければいけないんだぞ」
「常識的であるべきだ、人様に笑われない人間になるべきだ」

「~しなければダメ」というそれ以外の選択がない、そして自らの選択もない状態。

自分を護るため、親など周囲から認めてもらうためにも、「~しなければならない」というルールに従うのは絶対。

少しも逸れてはならない、そんな教育を受けていれば、ルールに従わない選択がないのでまるで軍人あがりのように敬礼サー。

実際には譲れない、譲る方法を知らない。

従ってきたこと、ダメだと言われて頑張って矯正してきたこと以外をやる選択を知らない可能性があります。

徹底的なまでにルールという小さな枠に収められると、羽ばたく意思はなくなり、その世界の中で自分を護り、貫いてきた自負ができます。

 

我が強い人の育ち②:否定、見下しの多い家庭

なんでも
なんでも
家庭環境に否定や見下しが多いと、[正解、間違い、正しい、ダメ、勝ち、負け]という他人の意思やルールが基準になります。

正否、良悪、勝負を基準にする育ち。

正否、良悪、勝負は本人や対峙者同士にしか決められない価値観であるため、これを強要される場合には親など他人のルール、社会など他の集合的ルールなど“他”に従うことを意味します。

自分の意思がなくなりながら自覚もなくなります。

残るのは、「私はこの人達からして正しいのか、間違っていないか?」の他人の評価基準に自分を刷り込ませようとする恐れのメンタルです。

意思がなくなりながら、[間違い、ダメ、負け]に該当すると見下され、嘲笑され、蔑まれる、または価値がないとみなされる。

そんな環境で育つと、生き抜くためにも、精神を守り抜くためにも『正しい』に当てはまるように自己を歪めて、粘土のようにグネグネと形を変えます。

頑張ってやるほどに自然とはかけ離れ、我とはかけ離れ、我が強い状態になります。

そのまま身体が大きくなった場合、現状の自分であることは正解、正しさそのものだと刷り込んでおり、[譲る=負け]というルールが根付く人もいます。

この育ちのまま自分で何も見出したり創らなかった場合、本人は親などと同じような人間になるのが自動システムの結果です。

親などが自分にしてきた否定、見下し、嘲笑を他人にするようになり、[正、勝ち]に入れなかった人を嘲ります。

 

我が強い人の育ち③:放任と甘やかし

放っておかれた育ちは、嫌でもが強くなると考えます。

生き抜くために自意識と自己愛を強め、自分のやり方で考え方で生き方でやってきた経験と実績があります。

この場合、当然それを貫こうとします。

ただ、他の配慮なく、迷惑をかけて、相手に嫌な思いをさせてまで押し通すかどうか

強情で譲らないとしても、相手の認識や意見を聞き入れ、寄り添える人は我が強い訳ではないので、衝突や反発の経験にて自分を変えることができます。

なんでも
なんでも
ここでお伝えしている我が強い人は、放任だけでなく甘やかしも併発していると考えます。

例えば、父親は放任で母親は甘やかし。

片方が冷たく無関心、片方は依存誘致。

または、片親で普段は家におらず放任されるが、その分と言わんばかりに子供の思うままにさせ、好きなものを食べさせ、好きなだけ買い物もさせる。

甘やかしの側面があることで、「私は正しい、私は認められた、これでいいんだ」となり、一方で冷たさがあることでより心理的に甘やかしの肯定刺激は強くなり、好んで求めるようにもなります。

我が強い人は依存体質です。

怠惰で他責という意味での甘ったれであり、責任を持たずに誰かのせいにします。

主義主張だけして、やらかしたら逃げて誤魔化し、嘘をついて虚言壁にもなります。

「だってあの人がこうしろって言ったから」と平気で嘘をつき、保身を求め、嫌な現実とは向き合わず、向き合うことがそもそもできないので選択肢がありません。

放任と甘やかしのダブルコンボは精神未熟、幼稚性、魂劣化を強調し、実体のない空虚な我を、さも「これこそが私である、ドドン」と何者かとして存在させようと躍起になります。

それは、高級レストランで真っ白なメニュー表を渡され、「どれにいたしますか?」と胸を張りながら気取って言ってくるウェイターのよう。

何も抱えていないにもかかわらず、「この子にミルクをあげたいのでお金をください」と言ってくるようなもの。

これを親の呪縛、カルマ、返報性と言い、我が強い人は離れることができません。

 

我が強い人の育ち④:妥協の家庭環境

なんでも
なんでも
育てる側の親の中身がなく、意見がなく、現実から逃げ続ける、そんな空虚なさまが顕著な場合、子も同じように中身がなくなります。

妥協が多く、叱らない、諦める、折れる、気力なし。

「ねぇねぇお菓子買って!」
「ダメよ!」
「わーんわーん、買ってよー!!」
「しー、わかったから、買ってあげるから静かにして、お願い」

周りからジロジロ見られたくない、体裁を気にして自己保持してメンタルをなでなでする方が大事。

意思も意志もなく心は空っぽ、疲れ果ててエネルギーが枯渇した家庭環境。

戦う気がなく、向き合う気がなく、嫌なことはとにかく逃げるか誤魔化す人間の多い家庭で育つと、妥協されることが増えて調子に乗る人間になる可能性があります。

自分のことがわからないにもかかわらずわかっていると思い込み、主義主張し、思い通りにならなかったらワンワン叫び続ける自惚れた子犬(通称:いぬぼれ)のようになります。

これは失敗のない育ちと言えるかもしれません。

自分より下がいる、責任を負わせる対象が手軽にいる場合、そもそも“失敗”を受け止める概念すらなくなり、全部親のせいにして終わるので、自分が失敗したと思わなくなり、反省も自省も存在しません。

意志のない親は、意志のある子に屈服し、生意気な餓鬼になればまだましですが、自分を親よりも上だと見なして気だけ強まり本質の弱い張りぼての内弁慶が誕生します。

わがままで、感情のコントロールができず、する気もなく、欲望を発散し、自分勝手に自己愛性人格障害の有り様をまき散らします。

他の認識を一切排他して強固に自分を護り、強固に自分を喜ばそうとする、ドラマチックなまでに自分のことしか見えていない状態となります。

以上、我が強い人の育ちでした。

 

我が強い人の特性&対処法

なんでも
なんでも
対処するためにも目立つ特性把握をしていきましょう。

我が強い人の特性➀:不納得になりやすい

特にお伝えしたいのが、不納得になりやすいことです。

上述の育ちに該当する人は、不納得にすぐ陥ります。

機嫌をコントロールできず、不納得になるとどうしても言わずにいれない、相手を責めたくなるなど、内部に生まれた心地悪いエネルギーを自己対処できません。

これを放っておくと精神疾患にも繋がるため、本人は吐き出すための他人利用を正当化したくなり、そこに羞恥も配慮もなくなります。

自分が納得するまで話し合いを続ける、相手を逃げさせない、感情的になるなど、やり方が強情であるためにめんどうくさくなる人は多いと思います。

[自分を護る+自分を喜ばす]のルールが強固であるため、自分のために他人を利用していることに気づけず、相手を傷つけてでも自己利益を優先します。

こちらの意見を伝えても相手に変わる余地がなければ、“関わってはいけない人”に該当します。

 

我が強い人の特性②:張りぼてとまやかしの中にいる

なんでも
なんでも
これは過去の私のことでもあります。

我が強い人間は、リアリティを生きていません。

そのことに気づくこともありません。

気づけるのは本当の意味で危機(恐怖)、“死”に直面した時、または心からの愛の充足を認めた時だと、私の経験からは理解しています。

親など周囲から植え付けられた価値観、観念、ルールを糧に、まるで自分の意見かのように、自分の感情かのように、自分の欲望かのようにしますが、

そこに“自分の”は何もありません。

全ては他の、社会の、常識の、言われたことの、従った誰かの何かに基づいており、徹底的なまでに自我を抑圧し、押し殺した結果、“己”など皆無です。

その皆無を認められないと、我を強めます。

我の強い人は物事を、事実を、真実を認められません。

認められるのは自分を護るためと喜ばすための感情、欲望であり、情動。

嫌な気持ちを感じたら、嫌な気持ちを排除、感じないために“自分を護ろう”と他に押し通そうとします。

良い気持ちを感じたら、徹底的に“自分が喜んでいる”と思い込むように過剰認知しようとします。

そこにあるのは幻想、まやかし。

自分がまるでないからこそ、強固なまでに自分がある、「これが私なんだ!」と貫きます。

その時に自分自身で自らを承認、評価、判断できないので、他者の反応を強く欲します。

相手を嫌な気持ちにさせる、下だと思わせる、何かしら反応を欲し、他の反応によって自分をやっと認識できます。

張りぼてとまやかしの中、他の反応なくして自分の存在認知がない世界です。

ここでお伝えしているのは、アイデンティティが確立された、ユニークさを持つ人々、例えば発達障害の人、または幼児期から心を護り抜く強い意志がある人などとは違います。

怖いからか楽だからか、理由は人それぞれですが、自我を抑圧し、自分を放棄して抹消しながら、それを認めずに「これが私だ」と主義主張し、強情なまでに事実を認めない、無知を貫いて譲らないのが我の強い人です。

 

対処法:反応しない

我が強い人と関わると嫌な気持ちになることが多いと思います

なんでも
なんでも
話し合いの振りをする人もいますが、「相手が変わるべきだ、私はこれでいいんだ」と思っています。

調和や共感、共有や寄り添いが難しく、自分の主義主張だけを押し通そうとします。

自分を護るか喜ばすための他人利用が多く、聞く耳を持っていません。

口達者で優しく近付いてくる人もおり、我が強い人は後で豹変するので関わりに注意のいる対象でもあります。

関わらないに越したことはありませんが、どうしても関わりが必要な場合、有効な対処法があります。

反応しないこと

冷静に関わることが大切です。

ワンワン吠える子犬と同じだと思うとやりやすいかもしれません。

吠えなくするには、吠えることに意味がないと理解させるのが得策です。

無視ではなく、反応せず、無言のサイレントタイムを設けます。

会社のミーティングで、「私はこう思います、だからあなたは間違っている!(ワンワン)」

「…」

サイレントは線引きになり、相手のエネルギーに飲まれることを対処できるので、その上で指摘したり、自分の意見と気持ちを伝えることが大切です。

我が強い人は他の反応なくして存在認知できないので、無視はおすすめしません。防衛本能が黙っていられないのでトラブルが起きやすいです。

自制できないので暴れる可能性があり、過剰に怒りという自己愛をむき出しにして、自分を護りながらエネルギー感受にて存在保持を図ります。

「それならば意図的に怒りを引き出して暴れさせ、汚点を作ってもらおう」なんてこともおすすめしません。

相手と同じ土台に立つことを意味し、無用なトラブルが増えてしまい、自らの我が強まります。

アメリカンバスケットボール的な暴言によるメンタル駆け引きは状況によって必要ですが、平和的な対処が望ましいと思います。

 

見極め:我が強い人と芯が強い人は別物

様相として我が強い人と似て非なる人がいます。

芯が強い人はまるで別ですので、見極めとして線引きしておきます。

・我が強い人は主義主張し、押し付ける

・芯が強い人は自分の意見を持ちながら、押し付けない(または引くことができる)

・我が強い人は信念がない

・芯が強い人は信念がある

・我が強い人は変わらない

・芯が強い人は変わらない部分と変わる部分が明確

・我が強い人は言葉と行動が一致しない

・芯が強い人は言葉と行動が一致する

・我が強い人は、口だけになることが多い

・芯が強い人は、行動を伴う

・我が強い人は不都合なこと、嫌なこと、見たくないこと、認めずに他のせいにするか、なかったことにする

・芯が強い人は全て認め、事実を見つめ、現実を受け止め、できることから受け入れていく

両者は天と地ほど違いますので、見極め材料として書き記しておきます。

 

最後に:我が強い人の育ち

我が強くても、事実を認め、自分のしたこと、してきたことと向き合う人は、いつでもどこでも真我に辿り着きます。

幼い頃のいつの日か、溜まりに溜まった不浄のエネルギーや抑圧の在り方、自分を押し潰して他のルールをプログラミングしていったある日、

元々存在しなかった“己”が誕生するだけでなく、より強固に、より強情にその存在を認知しようと頑張ることが始まりました。

「これが当たり前だよ」「これが普通だよ」「なんでそんなこともできないの」

この世で言う“普通”とは我が強いことを意味します。

この世で言う“正解”とは宇宙の常識から遠く離れた状態を意味します。

我が強い人は思い込みと決め付けの塊です。

魂から離れ、正否に縛りを付けつつ不浄のエネルギーでまとい、「~しなければ、~であるべきだ」に則って生きます。

精神虚弱の原因となり、心は疲弊します。

精神があるからこそ我の存在がわかり、我の追及ができ、真に自分とは、我とは何かを知ることもできます。

そして、実際に我の強まった先に、本当の意味での自分があったりします。

『我』にあるのは『自分』という存在の理解、解明。

嫌なものでありながら、真に己を認知するための原料。

自己理解を深めるためにも、我の強い人の理解がお役立ちになれば幸いです。

ありがとうございました。

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当ブログの運営をしている北斗です。
私自身が診断していただき、「ぜひおすすめしたい」と感じたのでご紹介です。

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POSTED COMMENT

  1. レイ より:

    北斗さんの中の
    自制とか思考体力とか、
    禅っぽい、現実寄りの精神性
    の側面
    たまに反省させてもらえてます。

    • 北斗 より:

      禅は精神の基盤だと思っているので、お役立ちになってよかったです。

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