朝、目が覚めた時に何を思うか。
ウキウキする始まり、充足して一日を終え、また明日もそれが続く。
「あぁ、コーヒーフロートの上で暮らせて幸せだぁ」と、死ぬまでのご褒美のよう…。
…チュンチュン、「あぁ夢か、ふぅ」とたんぱくな始まり、目が細くなるのが現実かもしれない。
どうせなら飽きない日々を過ごしてみたいもの。
そんなことを考えていると、毎日同じものを食べている人がいた。
「毎日卵焼きばかり食べて、飽きないんですか?」
「飽きないよ、なんでだろうね、一生これでいいな」
この人は同じうんちが存在しないことを知っている。
どれだけ同じような日々が過ぎていようが、それに“飽きる”かどうかは完全に自分次第なんだろう。
ここでは、「世の中にはパチンコ玉のようなうんちをする人もいるんだ、はぁなんて人生って面白いんだ」的な深掘りをしていきます。
- どうしたら飽きない日々を過ごせるのか考えたい
一つの考え方としてお楽しみいただければと思います。
Contents
飽きない日々をどう生み出すか?

『同じような日々』ができる仕組み

「決められたルールに従い、言う通りに生きてくれれば、それなりの生活は保障するよ」
この約束によって、「毎日同じような日々が過ぎていく」という曖昧な世界が生まれました。
生活の“約束(保障)”によって、毎日獣を追いかけ生き死にを味わい恐怖におののき遠吠えしながらの様式はシャットダウン。
「もう古いよそれ、これからは決まった水準で規則性を持った均一的な様式だよ」と。
『既に決まっている』という認識が脳内に投影。
これによって、「同じような日々」という世界観(見方)が出始めます。
さらに、誰か他が決めたものの上でそれなりに物資豊かで、苦労なく、便利もある快活な暮らしがもし成り立つと…
『既に決まっている』認識に抵抗感がなく、むしろ利益を得るために自ら型にハマる無意識ができそう。
自分で決めるのではなく、既に他によって決められたものの上で成り立とうとする自分(認識)が完成。
この自分(認識)が『同じような日々だ』と、見ている世界を最終決定。
「飽きる」の完成です。
シンプルにすると、『自分で決めた自分』がいなければ、社会は飽きるようになっている、という考え方です。
これによって、刺激なくして存在確証が難しくなっていき、存在するための活動が必要になります。
今の私たちは生きるために食べるのではなく、存在していると確認するためにお金を払って食べたりします。
不思議な世の中。
飽きる時と飽きない時の違い

同じ時間に起きて、同じ場所へ行き、同じことを繰り返す日々は、常に『飽き』と隣り合わせな状況、一歩間違えれば神隠し。
三か月もすれば飽きてくる、「あぁ、今日は会社行かないでコーヒーでも飲もー」なんて人もいる。
三日で、「もうジョギングはいいや」という人もいる。
一方、飽きない物事もあり、誰しもに飽きる時があれば飽きない時もあると思います。

一体何が違うのか?
ただ単に興味があるかないかなのか?
私の体験からあることが言えます。
私は中学生になると家庭のユニーク事情で食料調達から学校の手続き、何から何まで寝床があること以外は自力でサバイバルする生活になり果てました。
ヤングケアラーになり、最終的には暴発していた家庭がついに木端微塵に散り、一人暮らし。
それはもう刺激に満ちており、飽きるとは程遠かったもの。
その後、16歳の頃に自力で生活するスタイルから一変、生活基盤が整っている環境となり、途端に虚無化。
虚無化は飽きるとは違い、放棄、「人生どうでもいい」状態、燃え尽きたのかもしれない。
しかし、人生は燃え尽きたくらいでは終わってくれない。
高校卒業と共に家を出て都内の学校へ。
学校と仕事を両立させながらの一人暮らしが始まり、忙しく目まぐるしく、寝る間もない日々はこれまた刺激でいっぱい。
到底飽きない、飽きている暇がない、そんな二律背反。
そして就職し、会社員の時についに『飽き』を感じられます。

それはもうとっても嫌なものでした。
向き合わず誤魔化すために居酒屋へ行き、休日はようもないのに出かけ、たまには旅行に行こうと大衆の型枠はめに励み、刺激を注入。

他人と比較し、留まっている感覚を受け入れられないから仕事の勉強、資格を取る、コミュニティ活動を率先するなど、向上していそうな言動をしなければやってられない。
刺激があると飽きないが、本当は飽きているからこそ飽きないようにしているだけ。
年齢の経過と共に刺激依存では成り行き立たなくなっていくのが見える。
実際に飽きずに生きられるようになったのは、会社員をやめてから今日までです。
そんな私が生活に飽きていた時と飽きていない今を見比べると、明確なまでの違いがあります。
『自力があるかないか』
これは私にとって、『生きているか生かされているか』の違い。

しかし、自力であっても「生きている」ではなく、「生きなければならない」状態は別物になります。
他因的サバイバル、自力でなにもかもしなければならないと、生かされている訳ではないけれども自分で生きている感覚は少ない。
自力はありすぎてもバランスが崩れ、虚無化する懸念があります。
中には、“自力”の部分にフォーカスしすぎて我が強くなり、苦労自慢や自負、プライドが強くなりすぎるなどこれまた虚無化します。
以上を要約して、飽きる時と飽きない時の違いを洞察するとこうなります。
自分の世界を生きているか否か。
・自分の世界を生きていない人(時)は飽きる
・自分の世界を生きている人(時)は飽きない
飽きない人は自分の世界を持っておりその世界を生きている、という見方です。
※人生に飽きることの大切な意味は、人生どうでもいいと思った時の対処法「それは大切な合図だった」をご覧ください。
飽きる・飽きないの決定的違い

例えば、私は白米に飽きるので、主食を探し続けています。
ジャガイモ、そば、パン、春雨、玄米、果物…といろいろ探していますが、全て飽きちゃった。
誰しもに飽きるものも飽きないものも無数にあると思います。
そんな二つの感覚を見つめると、ある状態が際立ちます。
飽きる物事には認識が薄い…「当たり前になる」
飽きない物事には認識で溢れる…「当たり前にならない」
認識が薄いとは感じない、考えない、見つめない状態でして、自分なりの評価・判断・考えがない状態です。
認識が溢れると、感じ、考え、見つめる状態が豊富、そこには主観があり、自認があり、自力も生まれます。
毎朝、起きてから自分で淹れる一杯のホットコーヒー、何年経っても飽きない。
じっくりと香り、まずは一口、しない。
飲むと思いきや香って、カップは机に戻しちゃう。
水面を見つ、室内がいい香りで満たされた頃合いにズズズと一口。
目を瞑りながらの、「ふぅぅ~」で全身の力が流出し、空気を吸い込むと同時に全身の力が二倍になって戻ってくる。
「はぁ、今日も生きてるぅぅ」と旋律ブルブル。
こんなことを毎日していたら飽きないのではなく、こんなことを自然と毎日しているのが飽きない状態。
自力があり、生かされているでも生きなければならないでもなく、生きている感覚があります。
『飽きない日々』を如何に生み出すかは人生の醍醐味かと思います。
※流れるままにすると起きることは、【好転サイン】流れに身を任せるとなんだかうまくいく『体験談』をご覧ください。
飽きない日々の作り方

飽きない日常=魂と繋がる
魂と繋がっている
魂と繋がると認識に溢れ、[感じ、考え、見つめる行為]が常となるデフォルト化します。
意識・無意識関係なく、使命を遂行するようになります。
「世の中のため」といった使命や天命を持っている人もいます。
そういうわかりやすいものでなくても、生きて日々を味わうことそのものが使命の人います。

そんな人は些細なことに気づき、感覚や気持ちを“感受”する大切さを知っている特徴があるように思います。
感受した上での自分の反応を絶対に無視しない、自分に嘘をつかない意味でもあります。
目が覚めた瞬間から目を瞑る瞬間まで、生きていることの嬉しさ、悲しさ、喜び、辛さ、豊かさ、怒り、喜怒哀楽を思う存分味わいます。
味わう気が満々な人は日々を謳歌します。

そのさまが幸せそうかどうかの“見かけ”は関係なく、多種多様な無限のカラーを持つ“感受”を経験する行為そのものが“生きる姿”。
辛くて嫌なことがあっても怒っても、その裏にある些細な光を見ようとします。
それは自分の中で常に光っているもの。
大切な人は大切、心が繋がる人には想いを寄せる。
けれども、ムカつく人はムカつく、そんな人間からの光ではなく、あくまで自分の中にある光。
だからこそ、魂と繋がる人は『許す』
許して流す。
流れを止めない。
飽きない日々を過ごしている人は、怒っても苦しくても悲しくても許す。
自分を許しているから他人を許す。
常に移り行くこの世の無常、感受、かつ留まらず、流れるままに、次から次へと味わい続ける。
「うわっ、この車危ね!クソ!」
「あ、このラジオの音楽、素敵だなぁ、グスン」
怒ったと思ったら感動して泣いている。
忘れる、切り替えが早いとは違い、もう危ない車を許しているから次の感受を楽しんでいる。
許して流し、次を感じ、感性を使い、美しさを見ます。
飽きない音楽を聴いて、飽きない食事を頂き、飽きない友人と話し、飽きない本を読み、飽きない景色を見続け、飽きない日々を生き続ける。

それは魂と繋がるからこそわかる『自分の特性であり興味』を大切にするさま。
出勤する時から心は晴れている。
「今日はどんな日になるだろうか?」を味わい楽しむさまは、まるで今日がはじめましての新鮮な気分。
自らを俯瞰して空から己を眺めている神様はまさに自分。
魂と繋がる人は毎日の瞬間瞬間を認識し、遊んでいます。
※人生を遊ぶ意味は、【魂の成長とは遊びへの気づき】成長すると真面目orふざけるをご覧ください。
同じものは存在しない

飽きない日々を送る人は、同じ日、同じ世界が存在しないことを“体現”しているのが特徴的です。
同じうんちは存在しないと知っている。
同じものを食べても、隣人から同じうんちが出ないことを知っている。
90歳のおばあちゃんは腸から出てくるのは明後日ではなく一週間後。
「パチンコ玉を便器に落としちゃった」と思ったら、おじいちゃんそれは自分のうんちだよ。
食べ物一つとっても口に入れた瞬間から既に同じものはない。
歴史も細菌の種類も量も、心持ちも波動も全てが違う。
さらに同じ本人は一日としていない。
昨日味わった分の感受経験が深まっており、魂の記憶が一日分増えている。
寿命だけでなく蓄積していく記憶もカラーも変わり続けています。
木の形一つ見ても、葉っぱの揺れ方、風との関わり方、湿り気、香り、色味、顔が違う。
何より自分自身も違うから感じ方が違い、体現が変わる。
同じものは何一つとして存在しない、変わらないものは何一つとして存在しないことを心で知っている。
そしてその違いや感受を味わう気満々だからこそ、同じことをしているようでも同じことにはならない。
「今日のビールの一杯はどんな味だろうな」とちょっと笑っちゃう。
そんな日々。
※飽きない性格については、【毎日同じものを食べる理由がある】飽きない人の性格&メリット&注意点をご覧ください。
飽きない日々は誰しも作れる

「今日よ、初めまして」と言わんばかりの世界は、関われることに嬉しい気持ちが無意識にあります。
「なんかこの店、いいんだよなぁ」なんて具合に。
[飽きない日々=生きることを嬉しくする]
この日々を作るために、自分の世界を生きることが方法になります。
「私は私の世界を生きている」
この状態になるには、「世の中は人それぞれにいろいろな世界を生きている」と知ることが大切だと思います。
“知る”とは言葉を記憶した、言葉の定義を把握したことではなく。
自分には自分の世界があると体感し、「この人は自分と違う世界を生きているんだ」と実際に体現することです。

「違うんだ」と感じるために、関わる他を知る必要があります。
他の世界は知ろうとすればするほど、心を寄せようと想わなければ何もわからないことがわかります。
関わるなら関わり、心を寄せて知ろうとする。
関わらないなら関わらない、心は一切寄せなくていい。
例えば、会社の隅に癖が強いと評判のおじさん、会話できないらしくみんな関わろうとしない。
関わらずに傍から見ていても、光景を“見る”ことはできるがそれだけでは何も体現できません。
心を寄せて実際に関わってみると少しずつ知ることができます。
心を寄せて関わるほどに、「違う世界を生きている」とわかります。

「身近にいるから同じような世界だと思っていたけど、この人にはこの会社はこう見えて、こういう考えで周りを捉え、世界を感じているんだ」
「同じ言葉を使っても解釈が違う訳だ、だからみんな会話できないって言ってたんだ」
人それぞれ生きている領域も世界観も次元もレベルもステージも、精神も意識も階層も何もかも違います。
「木は生きている」と感受する世界に生きていれば、木と関わることに飽きません。
「木は生きている」と感受しない世界に生きていれば、違う世界を生きているとわかる。
その人の認識を知る、知ろうとすることは自分の世界をより知る行為になります。
飽きない日々を過ごしている人は、自分の世界、他の世界を知ろうしながら生きており、関わる対象には心を寄せています。
余すことなく今この瞬間を感じる、これは心で生きているさま。
余すことなく今この瞬間を受け取る、これは自分に嘘をつかないさま。
酸いも甘いも全ての気持ちを味わう、これは自分の世界を生きているさまです。
「私は私の世界を生きている」が明確になるのは、人生を誰かに作ってもらうのではなく、自ら創作する時。
創作とは自ら感じ、受け取り、行動し、生きるさまです。
※楽しみの見つけ方は、楽しいことがわからないのは見つける場所が違う│楽しいの意味が教える自分をご覧ください。
「好き」より「飽きない」

私は会社員を辞めて旅を始めてから、今も留まりながら動きながらの生活をしています。
旅をしていると飽きることがありません。
私は旅が「好き」ですが、それ以上に「飽きない」の方がしっくりきます。
物事には刺激による外的要因と本質的な内的要因があり、捉え方が変わります。
・刺激による外的要因は「好き(または嫌い)」になり、時間の制約があるためにいつか「飽きる」
・本質的な内的要因は「好き嫌い」どっちでもあってどっちでもなく、「飽きない」
私が飽きないのは、私の世界を生きながら旅すること。
現地の方々と関わる、導かれるままに動く、創作するのが私の世界であり、生きている状態。
もし刺激による外的要因で旅していれば、
「初めての場所だ、新鮮だ!」「新しい言葉だ!もっと憶えよう!」「食べたことない、なにこれー!」「観て見て、なにあれー!」
はぁ、飽きた。
最初だけで直ぐに飽き、私の性格であればその場に嫌な印象はなくても二度と行かなくなります。
「もう毎日卵焼きでいい」と心が想っているから、飽きもせず毎日食べる。
毎回、「初めまして」の領域であり、しつこいほど都度心から楽しめる。
それは卵焼きが私の世界の一部だから。

人それぞれにあると思います。
ビールに飽きない人は、毎回ビールを飲んだら美味しそう。
サーフィンに飽きない人は、サーフィンができたら毎回嬉しそう。
自分の世界の一部になっているものは飽きません。

インド人はカレーが好きと言うより、飽きない。
サッカーが好きだと思ったら、整備されたグラウンドでないとサッカーできないと言っている。
条件付けている理由を掘り下げると自己利益やエゴに基づいており、条件が整わないと飽きるのは時間の問題。
「え、地面ボコボコでもサッカーじゃん、おもしろ」と思うのは飽きない人です。
“好き”は刺激、利益、価値、条件が重要となる外側、一過性。
“飽きない”は自分と対象の向き合い、繋がり、深まり、一生もの。

好きな人より飽きない人。
好きな仕事より飽きない仕事。
好きなご飯より飽きないご飯。
日々を飽きなくすることは本質的で奥深く、普遍的な人間の姿だと思う今日この頃です。
注意点:楽しいから飽きない訳ではない

毎日がワクワクウキウキ、「今日は何が起きるかな?ルンルン」と楽しくなる。
例えば、夜遅くまで商業施設はオープン、暇だと思えばいつでも交通機関を使える、街に出ればなんでもある。
または、田舎の山を購入したから自由に遊べる、海の目の前のプールで泳ぎたい時に泳げる、それでいて車も持っているからオシャレなお店にも行ける。
「好きにできる自由さ」は一時飽きにくくしますが、ルール・環境・経済に依存するため、社会との約束在りきで成り立ちます。
これはこれでいい感じ、一時としての使い様はありながら、刺激をあえて味わおうとする意図がある場合、いつの日か飽きるという側面ありと考えられます。
ここでお伝えしているのは、楽しいから飽きないのではなく、自力を生みながら日々を創作するから飽きないという考え方。

「お腹空いたな」と思った時に、「ちょっと耐えてみようかな」と空腹の苦しさを味わってみる。
「水シャワーしかないのか、たまには冷たさ味わってみっか」と。
「ホラーが好きなんだよ」というのは刺激欲求なので全く別の話ですが、ネガティブや嫌だと思う感覚をも自分のものにしようとするスタンスが、飽きない日々をより創作します。
ただ、耐え続ける必要はなく、感受したら次、「よし味わったからなんか食べよう」なんて流れていくのは自然な素敵。
飽きないレベルをアップするやり方になるのは、『許し』と『忍耐』を使った創作です。
あぁ、今日もゆるゆる許そ~っと。
※飽きたからこその理解は、何もかもに飽きたらわかることがある『改善は人生の気楽な一掃』をご覧ください。
最後に:飽きない日々をどう生み出すか
「作る」
飽きない日々をどう作るかというお話でした。
この「作る」という行為はとっても面白いと思います。
その対象を人生にすると、作る人である『自分』を要し、何を作るかの『考え』を要し、何で作るかの『材料』を要します。
それらを組み合わせるために『行動』を要します。
まとめると、自分で感じて考えて行動した結果、作れます。
いわゆる、経験なくして何もできない意味でもあります。
しかし、感受機能がある以上は誰しもが常に、今この瞬間も経験しています。
昨日の自分と今日の自分を同じだとするのは不可能、それほど違います。
この認知は誰しも子供の頃はあったと思いますが、社会的な“約束(保障)”によってないがしろにする可能性があります。
刺激があるから感受できますが、刺激を当たり前とする、もはや刺激を意図的に注入することすらあるため感受がバグります。
社会との約束には社会的利益があるので大事ですが、見過ごせないのは精神面での利益。
精神的利益はどんな約束や保障をしてくれても貰えるものではありません。
自ら気づき、掴み、磨き、育むもの。
その土台となるのが飽きない日々。
人生の在り方について見つめる、そのための一つの考え方として楽しんでもらえたらと思います。
ありがとうございました。


















