人生哲学

【自由に生きた結果発表】好きなようには生きられない自由さ

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人の死に寄り添う時間を過ごし、私は過去を少し思い出していました。

人の生死には「自由」が関わること。

私がこれまでの人生で最も幸福を味わった経験。

比べることが一切できないほど超越した幸せは紛れもない自由の最中であり、生死が常に身近にありました。

ここでは、自由に生きた結果発表をお伝えします。

  • 自由に生きるとは?
  • 自由に生きた結果、理解したこととは?

自由に生きることの素晴らしさとおすすめしない理由を紐解く内容となっております。

現在の私達には自由以上に大切なものがありますので、生き方や価値観をより自分自身に合わせる一助となれば幸いです。

自由に生きた結果

自由に生きた体験談 in Alaska

なんでも
なんでも
私がアラスカの森に住んでいた時、全てが自由である体験をしました。

テントと寝袋とバキバキに折れた釣り竿で、ワイルドアニマル達と共存するワンダーランドのイメージ。

実際は血だらけの蚊だらけ、ヘロヘロでガリガリの廃人が熊から逃げつつ草をムシャムシャするホラーです。

この森生活が私の自由に生きた経験であり、人生で最も幸福を味わった生活です。

「これ以上の幸福を今後生きている内に味わうことはない」と思えるほどです。

「嬉しい、楽しい、愛する」という幸せの形があると思いますが、自由における幸福は概念が一変します。

「なんでもいい」と心から想える幸福です。

 

自由な日々…

人里から離れるためにヒッチハイクで三日間。

誰もいないアラスカの森の中を独りモクモクと進んで行きます。

とにかく人が来れない領域に行きたかったので、14日間必死に歩き続けました。

森に入る瞬間は恐怖しかありませんでしたが、「なんでもやってやる!」という強い気持ちで自分を奮い立たせていました。

アラスカは熊がたくさんいるので常にキョロキョロと周囲を警戒し、心臓も肩も脳もガタガタ。

怖ろしすぎました。

この状態は熊に襲われるまで続き、熊と対峙して難を逃れた時にやっと自分のいる環境を真に理解し、自分の状態を受け入れ、覚悟を決められました。

「怖いものは怖いんだ!」という覚悟。

これが自由への扉を開いた瞬間でした。

恐怖心を打ち負かし、心が折れないようにすることが覚悟だと思っていたのですが、その先にあるのは解放と言う名の安心感ゲットであり、自由ではありませんでした。

自由は恐怖という闇も、愛という光も共にあるものをあるものとして受け入れ、自分のものにする状態。

恐怖という嫌だ、怖い、味わいたくない気持ちと友達になり、「あぁ怖い、この恐怖心が大切なんだ」と関わり方を知り、友達になるイメージです。

「怖い=悪い、ダメ」にならない状態。
「怖い=嫌だ=でも良いも悪いもない」という状態。

「嫌なものは嫌だね、でもそれだけ、さぁ先に進もう」

恐怖と友達になった時、物事は何が起きてもなんでもよくなり、自由のないことが自由という、少し不思議な理解を深めていきます。

 

自由とは自由のないこと

なんでも
なんでも
覚悟にて恐怖を受け入れたことで自由を手に入れたのですが、目の前に広がるのはなんとも不自由な環境。おかしなことです。

食料が少なかったために、虫や草や魚を捕らなければならない。

布団がないのでなけなしの服をテントの地面に敷き、地面のゴツゴツを緩和させる。

寒くて仕方がないので火を焚き、枯れ枝を集めるタスク。常に熊には警戒して、足音がすれば直ぐに次の動きができるように準備する。

スイッチポンッと押せば何でも出て来るという自由な夢を何度も観ましたが、自由とは何とも努力を要するようで、スイッチポンッは自由ではなく便利と言うようです。

自由になるには全て自分でしなければなりません。

魚を捕まえなければなりません。しかし強制ではありません。

生きたければバッキバキの釣り竿でもなんでも挑戦し、ナイフで槍を作り、木陰に潜んで動物を狙います。

水を飲みたければ川からいただき、何か食べたければ毒の植物を避けて吟味します。

食べたくなければ、生きたくなければ選択できる自由があり、自由は作らなければ存在しませんでした。

あらゆる肉体、思考、心を使い、自由の創作は完全なる自分次第。

恐怖と仲良くなって闇と光を受け入れることで自由の基盤を作り、その後に自由そのものをクリエイトするさまは、何もない中にはっきりとした自分がいる状態です。

 

自由を作る方法は、「自分」をいなくする

なんでも
なんでも
まるで砂漠のど真ん中にポンッと置いていかれたようです。

なんのしがらみもレールもない、強制も縛りもない、何もない。

けれども好き勝手自由に作っていい。

自分の意思があり、才能があり、能力があり、自発的に、主体的に、能動的に、自らが時間を人生を自分を作ります。

自由のためには何もない真っ新が必要不可欠で、「この環境で何をどれほどクリエイトできるの?」を問われる状態です。

しかし、何もない環境はどこにも存在しません。社会の中では他者や情報やルールや制約があり、自然の中でも他の生物や植物や法則があります。

森の中で理解したのは、「自分」を少しでも押し付けたら自由ではなく、現状自分のいる環境をどれほど受け入れるかが自由を作る前提条件になることです。

環境を受け入れてクリエイトする基盤を作る、受け入れないと拒否や抵抗や反発など自我を押し付ける縛りが起きます。

自然の法則に則らなければ火を炊くこともできません。自然を敬わなければ植物を自己都合で燃やしてしまいます。

必ず自分以外の「他」と関わるこの世の環境では、一切縛りのない自由を作るために、自分をなくすことが方法でした。

順応、柔軟、調和です。

私の場合は森が自分だと思えた時、環境に合わせた自分が存在し、後は目の前に与えられた環境で如何に作り出すかでした。

そこにないものをねだることはなく、環境を受け入れ、生きたいから食料を探し、喜びたいから火を炊き、身体を洗いたいから裸で川を泳ぐ自分がいます。

これは完全に自由でした。

 

自由は、好きなように生きられない

なんでも
なんでも
社会の中でも自然の中でも必ず他との関わりがあるため、自由とは縛りがないのではなく、縛りを如何になくすかの自分が全ての鍵を握ります。

森の中でお菓子を食べても、社会の中でソファーの上でテレビを観ても、刑務所の中で瞑想しても、全て同じ自由です。

しかし、「自分の好きなようには生きられない」というのが私の理解している自由です。

自分の好きなようにすると自我を他に押し付けることになるので、その時点で自由はシュンと消えます。

「お菓子を食べたい」と言った時点で自由はなく、「食べたいなら作る」「作るために環境を理解する」「その中で如何に作るか」に自由があります。

 

好きなように生きられないけど、すること全てが好きなことになる自由

なんでも
なんでも
自分の好きなようにできない縛りとなるのが恐怖心です。

「嫌だ、拒否したい、味わいたくない」という危険・苦痛・拒否が恐怖心。

好きなようにすることは大切ですが、それが自分のいる環境を踏まえた上なのか否かで、自由なのか解放という安心感ゲットなのか、物事を大きく変えます

例えば、私は森にいる時は好きなようにしていました。

何もかも自由。恥じらいなど存在せず、動物と同じように裸で過ごすただの変態です。

しかし、太陽が出なければアラスカは寒くてしかたありません。

ガタガタ震えながら火の前から離れられず、まるで行動が制限されているよう。

環境を踏まえて自分を存在させているので、好きなように生きられないのが当たり前の認識があります

食料調達も全て場所次第なので、「私がどうしたい」なんて意見は本当にどうでもよく、今いる環境の中で何をするか、何ができるか、「私はここで何を作るか」が全てでした。

「自分の好きなこと」という自我の押し付けがないと、今いる環境でできるのは全て自分のしたいことであり好きなことになります。

環境と自分を理解し、作り出していくらでも好きなことにしてしまうのが自由です。

 

自由に生きるとわかる大切さ

自由だからこその幸福

なんでも
なんでも
森生活は忘れることができないほど記憶が鮮明です。

60日間という短い日々でしたがたくさんの出来事があり、恐怖と友達になってからは大変なことも辛いことも含めて自由を作る日々を過ごせました。

食べるものがなくなり、歩くのもままならない時に捕まえた魚を、涙を流しながら頂きます。

川の水が飲めることに何万回感謝したかわからないほど、「ありがとう」を言います。

自然の景色に見惚れ、どこに行っても美しい川の色、緑のコントラスト、山々の壮大さ、地平線が見える丘からの光景に感動します。

川を泳ぎながら森の中のわだちを探している時に見つけたラズベリー。糖分による作用は脳内が爆発的にパーティーを始めた花火の乱射。

辛さも喜びも、哀しみも慈しみも、愁いも敬いも、あらゆる出来事が全て自分の行動によって生まれ、まるで生まれて間もない自分を俯瞰して見守っているような時間。

「今、私は生きているんだ」と心から感じる瞬間瞬間は何ものにも変えられない幸福でした。

自由に生きた結果は、「自由を作ることができた」「私は自分で生きている」「他(環境や物や人)によって生かされている」と理解させてくれました。

全身で感じる情動、生きていることそのものがとんでもない貴重なものになる幸福があります。

 

自由とは創作者におすすめの理解

なんでも
なんでも
生きている情動を作るために、辛さも喜びも両方欠かせない大事なものだと知る世界。

私の経験はただの変態のうろつきですが、サバイバルや自給自足をしている状態が自由のわかりやすい例だと思います。

特に自給自足はあらゆるものを自ら作るので、環境を理解し、過酷な状態をも受け入れて自由を作っていくさまがあります。

本当に幸せなものですが、一般的には変態の延長かもしれません。

恐怖を受け入れると、最終的には生きても死んでもどっちでもよくなり、死を選ぶことも自由そのものになります。

完全なるクリエイト。

物事を創作・創造する人には重要な理解となる自由。物事を作り、人生を創るために自由があるのだと思います。

 

注意点:自由は全員に大切なものではない

なんでも
なんでも
自由とは言い換えれば、闇と光の受け入れです。

闇(恐怖)との関わりがなくなっていけばいくほど、自由との距離も遠くなります。

光(愛)とは違い闇は嫌なものであり、わざわざ恐怖に向かう人は少ないと思います。

実際に自由に生きた結果から理解したのは、自由は物好きの遊びであり、誰しもに大切ではないことです。

自由以上に安心感があり、毎日ご飯を食べて、関わる人がいて、自分の役割やキャラが定着して、一人ではないことが大切だと思います。

心地良い調和や共有をする精神的余裕に繋がる安心感は、気楽に生きている結果を認識させてくれます。

自由とは一体何なのかわかりにくいものですので、無作為に自由を求めると森で雄叫びをあげるどこかの裸さんのようになってしまうのでご注意ください。

「自由以上に安心感や解放が現実的で、私達の日々の生活には大切」

そんなことを思った、自由に生きた結果です。

 

最後に:自由に生きた結果

自由とは縛りを自らなくす人生創作。

創作するためには今いる環境を受け入れ、その中で何ができるか、何を作れるかの自己理解がものを言います。

自由に生きた結果からわかったのは、自由には光だけでなく闇の受け入れを要することであり、闇(恐怖)が自らを縛る原因であることです。

覚悟して恐怖と向き合うと、光の受け入れも加速されて自由を作る道が出て来ます。

といっても私の理解では変態の最終形態ですので、誰しもに必要なものではなく、自由以上に安心感や解放の大切さがあります。

社会に戻った後の私は、この世にはあらゆる形の自由があると知っていき、今も知っている最中です。

どんな形であっても、自由なのか安心感や解放なのかの違いは常にあると思います。

例えば、経済的自由は顕著な違いがあり、ホームレスの方々が答えそのものだと理解しています。

ホームレスや自給自足をすると自由が何かの理解が急速に深まり、自分と環境の中での創作の意味がわかりやすくなると思います。

もし自由に生きる選択をされる場合には、安心感を求めると全く違う方向へ行きますので、ここでの理解がお役立ちできれば幸いです。

ありがとうございました。

※森生活の全貌は、『幸せはムニュムニュムニュ』をご覧ください。

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

POSTED COMMENT

  1. しほ より:

    仙人のように修行し、身を持った体験ですごく腑に落ちる言葉でおもしろくて色々読んでしまいました。

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