エッセイ

【人生は苦行・楽行の両取り】修行を終える条件とタイミング

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じ・んせい~いろいろ~、お・とこも~いろいろ~、お・んなだぁ~ってい~ろいろ、ム~ニャ~ム~ニャ~ニャ~

生きることは阿修羅のごとき、人生は険しい苦行であり、頭上に石碑でも建てて強制ギブスをはめたらちょうどいい。

一方、「次はデザートで~、その後は遊園地行ってぇ、刺激に快楽ぅ~」と脳内にコーンスープを流し込んでいる人もいる。

私たち人間は『価値観』を生きる指標や道行きの補いに使います。

生きることを修行のように観て、そこに価値を見出すと、飽きないように生き続ける理由になります。

それは人によっては生存戦略、人によっては正しさ、肯定であり、自己の存在意義になるとっても大切なもの。

ですがいつか終えて、彩りを変えてみるのも素敵なもの。

といってもただの刺激依存、コーンスープを流し込みたくはない。

私は修行を終えようと思っています。

そこで気づいた理解があるので、そのタイミングが来ている方に向けてお伝えしていきます。

「修行?…思い当たるぞ」と思う方にとって、考え方としてご参考になればと思います。

人生は修行なり

人生は辛くて苦しい

なんでも
なんでも
生き続ける以上、どうにもできない現実との直面が多々あると思います。

人と関われば、「くぅ」

仕事しなければ、「はへぇ」

気づけば薬ばかり飲んでいる、「いつぅ」

他者と親密になるほど悲しみは約束されている。

これらを回避するために関わりを遠ざけたり心を誤魔化せば、嫌な気持ちは味わわずに済むけど虚しくなる。

辛いのばっかは嫌だから、いっそのこと猿のように動物的に生きればいい、と思ったら世間では犯罪者扱い。

「そうですか、それじゃあ自分を守りながらやってやりますよ」と開き直り、他人を見下し、嘲笑し、エゴを糧に生きれば中身が何もなくなっている。

死ぬ間際に気づいても後悔しかない、終わることもできずに終わっていく無限の迷路。

未解決のままひたすらに彷徨う、それもまた苦しい。

なんという仕組みだろうか。

「だから面白いんだよね、へへ」なんて思えればいいが、なかなかそうはならない。

「まだまだ未熟だ」と思うばかり。

そこに仏教など精神的な考えがあり、歴史背景もあることで一つの価値観が自然と見出されます。

「人生は修行なんだ」

この考えは生きることに意味を加えてくれるような。

暗闇に道を示してくれるような気がする。

「人生は辛くて苦しい、けれども、生きていく訳がある」と踏ん張り、力を付けて、乗り越える希望になります。

 

「人生は修行」という価値観

過酷で悲惨でも、希望があれば。

どれだけ暗闇に居ても、一筋の光が微かにでも見えていれば。

なんでも
なんでも
人生は辛くても“先がある”と思えれば、持ちこたえる原動力を見出せます。

さらに過酷な状態を“成長”という利益に繋げられる合理性もあり、無駄なく、意味ありげな気がします。

だからこそ、「修行」という考え方は理にかなっている

道行きという先があり、暗闇を光らせる力があり、得られる利益もあり、マイナスをプラスにする変換術もある。

何より、「どんな日々でも生きている以上は生きる動機」になる。

とても大切な価値観、私にとっても重要な糧となる指標、人生を生きる上での支えにもなりました。

しかし、この考え方は落とし穴も準備されています。

 

修行を「苦行」にすると起きること

修行をどう捉えるか。

なんでも
なんでも
一人一人の自修自得(自分の体験や経験による体得)があって中身が入るため、「修行とは真面目であること」でも、適当でもムニャムニャでも、日々を慎ましやかに生きるでもなんでもよくなります。

一方、この中身に苦しみがなくてはならない条件を付ける場合があります。

[修行=苦行]

すると起きるのが、『信念(または観念)が苦しみを必要とする』

無意識に、苦しみや我慢ありきで現実を生きようとする、なんてイメージです。

「苦しみや我慢は嫌だけどそういうものだから」

「そうそう、そういうものだから」と頭の中から二重で声がする。

“あえて”我慢し、“あえて”苦しみを投影する世界を作るように身体が覚えてしまう。

「当たり前」と知らぬ間に認識していき、「やらなければ」が無意識に観念化されていく。

「~しなければ」「そういうもの」が馴染み深いルールになっていく。

こういったルールありきの修行は、同じ苦しみを繰り返して抜けられない呪術に飲み込まれます。

苦行そのものが問題ではないのですが、無意識に自らを縛り、強制し、離さなくなるのが着目点。

山道を歩いていたら、同じ道を何度も通っている。

「あれ、ここさっき通った気がするんだけど…?」

「あれ、まただ!」

「あれ!」

「あれえぇ!」と続く状態です。

私を例にすると、抜け出せなくなり、「もう命をかけよう」と行くとこまで行き、気づけばアラスカの森の奥で熊に追われている、呪いだ、キャーと。

苦行(もとい条件付けで縛った修行)は無限ループにハマる

気づけばハマっているので自覚を持てない

頑張るほどに抜け出せなくなる

この内情を紐解くとこうなります。

「私はまだ私を許さない」

この状態では何をしてもエゴを強めます。

現実ではなく理想を追い求め、過去と未来の比較認識が増えていく。

頑張るほど精神は摩耗し、頭でっかちになり、思考にて解決しようとするスタンスが固着し、思い込みと決め付けでグルグルの刑、メンタル削りスリスリの刑。

じゃあもっと頑張らないと!

終わらなくなる。

修行というのは生きる指標になる高質アイテムでありながら、飲まれると呪いになりかねない。

事実、正解、良いといった捉え方ではなく、『考え方、価値観』にするのが欠かせないと思います。

ご安心ください、終わる方法はちゃんとあります。

 

修行を終えるタイミング

修行(苦行)を終える条件

なんでも
なんでも
修行は私たち人間にとって大切なものだと思います。

価値観として活かせたらさらにいい塩梅かなと。

そのためにも、抜け出せない修行は一旦終わりにしたい

しかし一癖あり、簡単に出してもらえません

「一度くぐった門、そうやすやすと出すものか、てやんでぃ」と言われているように。

修行は、「はい終わり」でやめられるものではなく。

「気づけばまたやってる…」

条件付けて修行してきた場合、「納得」がないと修行をやめたくてもやめられなくなります

この意識をエゴと言いますが、エゴはなかなか黙ってくれません。

「いやまだだ」とどこか思っている。

また我慢している、また苦しみを作っている、「あぁいつものパターンか」と。

私が抜け出すために気づいた理解では、実際にやめるには自分が終わりだと決めるかどうかではなく、それができる状態に自分を持っていった時です。

その状態に自分を持っていくのが終える条件。

お伝えしたいのがこちら。

信じられる人がいる、許せる人がいる、頼れる人がいる、助けを求められる人がいる。

自己の存在以上に、自分を際立たせる“他人”の存在が鍵となります。

 

「他人」が要

なんでも
なんでも
修行といえば自分を鍛え、磨き、成長させたくなるものだと思いますが、『人生』に置き換えると、「自」や「個」に特化させればさせるほど本質からズレていく懸念が増えます。

自分以外の“他”を仲間にする大切さがありそうです。

といっても、「RPG的に仲間を編成してダンジョンクリアしよう!」ということではありません。

他によって“自”を見出す意味です。

「自分が自分を信じられる」というのも大切ですが、

「他人を信じられる自分」の状態になると、自分を信じる力は本質的になります。

他人を信じられる時、自然と自分も信じています

逆説的にお伝えすると、他人を信じると自分を信じられ、他人を許すと自分を許せ、他人に頼ると自分に頼れ、他人に助けを求められると自分を助ける意志がピカン。

自分を鍛えて、磨いて、成長させる道でありながら、その肝となるのは“他”であるという。

この世は不思議ですね。

 

修行は未知を楽しむもの

なんでも
なんでも
概念を変えると、修行の見方、捉え方も変わります。

条件付けて修行している場合、徹底的なまでに“自”へのフォーカスがあると思います。

自を高め、自を磨き、自を育み、自を知り、自を愛でる。

そのために自を縛り、自を抑え、自を耐えさせ、自を痛め、自を削る。

辛いから筋肉が増えるように、刺激を与えるほどに力が強くなる。

物理的に見ると、こういった『自を掴む』捉え方になります。

一方、修行を在り方や生き方など精神的に捉える場合、捉え方は変わります。

『自を手放す』

ふわぁ~と、ぱぁ~っと、さようなら~。

これの始まりが、[他]を[自]に入れること。

他人を許せる自分になることで自然と自分を許している状態。

なんというか、物理概念ではなく量子概念になるようなイメージ。

[3+7=10]ではなく、[コーン茶にうまい棒溶かしてみたら、なんか楽しくて美味しかった]みたいな。

“自”へのフォーカスが強いと物理的になりやすく、「これをやったらこんな私になるだろう」など理想を追いがちですが、実際は修行して自分がどう変化するかは未知です。

そのため、現実的には未知を楽しめるかどうかに修行の質があると考えられます。

苦しむためだけではなく、楽しむためにも修行がある。

 

苦しみから楽しみにシフト

なんでも
なんでも
自分の中で“無理している感覚や状態”があれば、修行を終えるタイミングだと思います。

そのためにまず呪いを解きたい

「~しなければ」「そういうもの」を解く。

これらは、『我慢』『当たり前』を手放す意味。

ですが、

こういった物理法則的な見方は、「こうすれば手放せますよ」とやり方はあっても実際に達成するのは難しいです。

「苦行ではなく楽行だ、イエイ!」と言われても、実際にやるのが難しい、ズンッ!

この本質は、未知を楽しむのが難しいからだと思います。

先行き疑問、何が起こるか不明、約束されていない要素、無駄をしたくない迷い。

何より「わからない」というのは暗闇、不安で恐くて懸念も危険も抱きやすい。

誰だって難しくなる。

そこで、

わからないを面白いにする、不明を探求材料にする、迷いを解決の機会に捉え、レストランに行ったら変な名前のメニューを頼んでみようなんて。

未知にワクワクするようになれば、苦しみから楽しみへシフトできます。

シフトするために私は気づいたことがあります。

 

楽行にする方法

なんでも
なんでも
苦行を終わらせ、同時に希望と動力も生み出す、そんな全てを解決する方法があるとかないとかあるとか。

自分を許す

このために『他』

信じる誰か、許す誰か、頼る人、助けを求められる人がいる、そういった存在を持つのが方法という考え方です。

楽行のフォーカスは『他』

優しさ、思いやり、協調、調和、共有がかなめかなと。

他を許すことで本質的に自を許し、自が許されると苦行は終わり、未知を楽しむ基盤ができ、自然と楽行にシフトしていく仕組み。

細かい所をお伝えすると、本当の目的は“自然と自分を信じている状態”になることです。

自分を信じている状態なので、

誰かを信じるかどうかではなく、「この人は本当に信じられる」と心が想える状態。

誰かを心から大切だと想える自分を作る意味です。

この心が希望と動力を生み出します。

「他人を信じられるようになる」ではなく、「信じられる人がいる」という自分を作ることが方法。

まずは癒しや休みが要り、十分なエネルギーを補充してからです。

動く基盤がある上で自分を信じている、許していることで、修行は苦しみから楽しみにシフトできます。

実際のところ、生きていれば常に修行。

終わりも始まりも本当はないと思います。

毎日が修行であり、どう感じ、どう考え、どう認識し、どう行動していくか。

ただ飲まれてはならない、ハマってはならない。

抜け出せないものではなく活かすものにできます。

呪いを解くために未知を楽しむという考え方です。

 

苦行も楽行も両方あって成り立つ

なんでも
なんでも
人生は楽行だけだったらいいな、なんて。

しかし、物事は常に二極一元化、相反する二律背反を一つにすると本質になります。

本質である必要はないけれども、本質の方が結局楽しかったりします。

なので、苦行も楽行も共にあって修行というのが成り立つように思います。

頑張らないというのは頑張った人だから本質的な意味がわかり、頑張ったことがなければ気楽や休みではなく無責任な怠惰になる。

そんな『楽』と『無責任』の違いを知る由もなく人生が過ぎていっちゃう。

初めに『苦』を選ぶ人もいるでしょう。

そしたら、頃合いを見て『楽』にシフトしていく。

初めに『楽』を選ぶ人もいるでしょう。

そしたら、頃合いを見て『苦』にシフトしていく。

楽から苦にするのは厳しいものがありますが、これまで苦行をしてきた人は手放すだけなので楽ちんです。

楽行は気楽で楽しく踊る世界、苦行がなければパーティでドンちゃん騒ぎですが、苦行をしてきた人は癒しと穏やかな笑顔の世界に入っていく。

肩の力を抜き、協調し、共感し、見守り、重力を感じ、引力を感じていればいい。

物事には人それぞれ順番があるから、頃合いを見て次のフェーズに入っていけばいいと思います。

楽ありゃ苦あり、苦ありゃ楽あり。

混ぜ混ぜして、お茶漬けにして食う。

なんつって。

 

最後に:修行を終えるタイミング

「ほえ、わざわざ修行ってなんのため?ホジホジ」

「人生なんてただただ楽しめばいいじゃない」

そんな人がたまにいると思います。

生まれた環境に恵まれていれば、親など身近な人を当然のように信じるため、自覚することなどないほどに自然と自分を信じていきます。

しかし、家庭環境が厳しい人もいる。

親をも信じられない、許したくても許せない。

それでも自分のことは自分でなんとか生き抜こうと頑張る人ほど、修行は激しく苦行になっていくように思います。

「生まれた環境で人生の在り方も捉え方も考え方も決まる」

こんなつまらないことはない。

信じるには信じないの側面もあって成り立つように、物事は常に表裏一体、二極一元です。

修行するからこそ修行しないことができ、信じられないからこそ本当の意味で信じることができます。

そしてこれらの経験は自修自得、自分のものとなり考えとなり力となり、何より人生の在り方を見つめて考えることができます。

ひねくれだしますが、物事の一側面だけを味わう人は大衆専用のマスコットにはなるが、力なく影響しない、「え、修行ってなんのため?パピプペポ?」

「フランクフルトでも食べてなさい」と。

苦しみ、我慢する経験は、人生の一側面だけでなく反対側も含めて幅広く見る力になると思います。

苦しんだ人、疲れた人、頑張った人は次のタームへ向かうタイミングだと思います。

『楽しんじゃう』

こちらの側面は他との調和、協調、共感に溢れ、意味も概念も定義もあるけれども重要ではない。

重要なのは未知をお祭りのくじ引きにして、「わからない=じゃあ全部答え」にして、不明と疑念を砂ダンゴにして、ようはなんでもいいと海にブン投げる。

他と出会い、他と関わり、他と話し、他を知り、他を想う。

あぁ、考えるだけでワクワクしますね。

楽しい人生を作っていくためにも、一つの考え方となれば幸いです。

ありがとうございました。

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