悩み

【自己認知0%と100%】感受性が強すぎて生きづらい、直ぐ泣く理由

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【カタカムナ診断で自分を知る】

当ブログの運営をしている北斗です。
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感情にコントロールがあるように、感受にもコントロールがあります。

私は幼い頃は泣いてばかり、直ぐ吐き、泣き、わめき、怒り、笑う。

遊ぶ時はいつまでも遊び、寅さんの映画を観る時の私は寅さんの真横にいる、世界観を堪能し、悲しみ、嬉しくなっている。

感受性が強すぎると世の中は刺激で溢れ、生きづらく大変なことが多いと思います。

しかし、今では生きづらさはなくなりました。

一体何があったのか?

ここでは、感受性が強すぎることでの弊害、辛さや生きづらさを緩和するために、私自身が理解していることをお伝えします。

  • 感受性が強すぎて困る原因を知りたい
  • 感受コントロールについて考えたい

生きづらさは楽しさの原料そのもの。

そんな考え方、感受の幅広さを向上させる機会になれば幸いです。

Youtubeもありますので、ぜひご覧ください。

感受性が強すぎて生きづらい

体験:感受性が強すぎると生きづらい

感受性、感性の過剰は常に、“本人にとっての過剰”を意味します。

本人にとっての感受許容を超えている状態。

どんな状態?

なんでも
なんでも

私を例にすると、感受量が多く知覚・認知が上手くできていない状態。

知覚不全、認知不全と言えるかもしれません。

授業中に聴覚情報が多すぎて耳が取れそうなほど痛くなった時があります。

鉛筆を思いっきり耳の穴にぶっ刺して血が出ました。

感覚や感情に飲み込まれ、自制できず、何をするかわかりません。

自傷に向かわなければいい方、基本的に外界にいることは辛さと反吐の連続、苦行、泣いてばかりいました。

対処法は癒しの与え、これも感受性の強さによって癒すことができる。

カブトムシを見て、「あー」とずっと言っている。

「よし、なんとか今日もやっていこう」ってな具合。

こんなことばかりではやっていけず、何度死のうとしたかわからない、でも死ねない、なんせ生きていたい意識がある。

感受性が強すぎることは、あらゆる事物・存在を認知しようとする意識が強い状態だと思います。

映画を観ればその世界に入る。

人の意見を聞けば相手の感情、エネルギーを浴びる。

滑り台で遊べば、自分と滑り台の関係性が密接すぎるほど一体となり、没頭する。

迷路を描くことにハマっていた保育園児の頃、ご飯は食べない、言われても聞こえておらず、背後から抱えて連れていかれても気付かず描き続けていました。

感受性が強すぎると線引きがなくなり、ある面白いことが起きています

[周りの認知がゼロ or 自分の認知がゼロ]

感受性が強いはずなのに、極端に自か他を全く認知していない。

  • 自分の内界に集中している時は自己認知100%
  • 外界に集中している時は自己認知0%。

ここではっきりと私は理解していることがあります。

自分の内界に集中している時、生きづらさも辛さも全くない。

生きづらいのは自己認知が0%の時であることです。

 

自己認知0%…

感受性とは外界の刺激を受け取る能力、感性とも。

外界との刺激の差を識別する力とも言われています。

言い方を変えると、存在認知能力と言えるかもしれません。

事物や対象など、そこに在るものを認知する能力が優れている。

自己認知0%の場合、自分以外の“他”への認知が100%ないし、ほぼ他になります。

外界に集中している状態

外界の刺激を感受する自分に集中していることを意味し、他との繋がりが強まりますが強くなりすぎてのめり込む(=飲み込まれる)ことが増え、阻止するためにも自我が過剰化します。

この状態ではこのような傾向が表れます。

  1. 考えすぎる
  2. 周りが気になる
  3. 自意識が強まる
  4. 不平不満が増える
  5. 不安と恐怖が増える
  6. ネガティブへの抵抗
  7. ネガティブを対処できない
  8. 感情と欲求へのフォーカスが強い

あらゆる外界を感じまくる自分が存在し、さらにその自分を認知している可能性もあってダブルコンボ、把握・理解できていない情報が多くとにかく刺激多、困惑多。

感覚過敏になり得て、さらに外界からの刺激に集中するので、嫌な感覚であれば耐えるのが難しくなります。

なんでも
なんでも
例えば、私は臭いのが苦手でして、臭い麺(くさメン)を提供する飲食店の前を通ると自分が吐いたのかと錯覚するほどです。

これが自己認知0%。

刺激を感受しながらも、自分を認知していない。

けれども、感受している自分には集中している。

これが生きづらさに直結している可能性があります。

 

[自己認知0%=自分がいるのにいない]

感じているのに、自分を認知していない。

はて。

なんでも
なんでも
これは心身があるがままに事象を感じながら、“自分にとっての認知”が意識されていない状態が考えられます。

ただただ感じて、終わり。

赤ちゃんの状態と同じです。

感受性や感性は誰しもが持っており、特に赤ちゃんはこれらを一切抑えないため、感受性の塊。

ここに「自分にとっての認知」という“意識(認識)”がないと、外界の刺激の感じと、それに対する心身の反応、「心地いいor心地悪い」に限定されます。

イメージは木を見た時に、「変な顔に見える」

臭いお店を通った時に、「うわっ、獣の臭いじゃ!」というのが自己認知。

自己認知がないと、「木が恐い」「変な音がする」「葉っぱがウネウネ動き出した!」「うえっ気持ち悪い」といった具合になり、感覚的で感情的な状態になります。

何なのかよくわからない対象を感じて、心身が自動的に反応して終わり

自分がそこにないことを意味します。

自己認知0%は自分がおらず、感じるという自動的な心身反応のみがある状態。

反応があるので、自分がいなくても明確にそこにいるはずな状態になります

感受と意識にギャップができます。

自意識や自己愛が強い場合、“自分”を認知したい意識が強くなるため、このギャップに拒否感、違和感、嫌悪感、心地悪い感じが強まります。

これら拒否する気持ちは全て“恐怖心”。

感受と意識にギャップがあるほどに恐怖心が内部に膨らみ、傷つきやすい、疲れやすい、翻弄されやすい、洗脳されやすい、マインドコントロールされやすくなります。

 

生きづらい原因は感受性ではないかもしれない

[自己認知0%+自動的心身反応+恐怖心の内積=感受性が強すぎる]

なんでも
なんでも
私の理解ではこうなることには明確な理由があります。

自分を操縦・使用(コントロール)していない

する気がない、するものだと思っていない、知らない可能性もあります。

私は自分を操縦したり使用するものだと考えたこともありませんでした。

なんせ私は私、これが私。

心は心、魂は魂、あるものはある、以上。

しかし、私たちは感受媒体である肉体に意識を宿して使用しています

その前提があると考えると、実際には自動操縦してくれている潜在意識があります。

使用意識がないとコントロールがあるもないも生まれないので、感受も感情も思考も全てが自動反応的なものになります。

感受性が才能になっていない、感性を育んで能力になっていない、頭が上手く使えていないので意見を言えない、思考が定まらず頭がグルグルする。

操縦機能不全。

感受や感性とは誰しもが持っているものであり、その媒体である自分を操縦しないと、外部刺激による反応はあってもそこに自分はいない。

感受はあっても自己認知(する意識)がなく、感覚や感情、そして肉体と心の心地いい・悪いの気持ちに飲まれ、翻弄されます。

生きづらいのは感受性が強すぎること以上に、感受機能を持った自分を上手く使用できていないから、という考え方です。

自動的な感受反応によって自分が存在している状態になると、感受が自分の存在証明そのものであり全てになります。

「私はこれだ、ここにいる!」と存在認知したいほど、または自分を認識できないことに恐れを感じるほど、感受に意識を集中させることとなりより過剰化していきます。

 

感受性が強すぎると起きる弊害

自己認知100%の弊害

なんでも
なんでも
自己認知0%があれば、100%もあります。

感受性が強すぎる人は感受に極端な傾向があると思います。

自分がいない時もあれば、自分しかいない時もある。

自分しかいない時が、“自分に集中している状態”

例えば、カンフー映画を観て。

ジャッキーのカッコイイ武術シーン、観ていると既にスクリーンの中。

パンチにキック一つ一つの衝撃、痛みを感じ、人物の背景に共感し、反発し、同じように体を動かして白熱の嵐。

「うわっ、いてぇ、くそっ、これで決まりだ、サモハンピー!」

気付けば泣いている、感動の戦いが終焉、映画観るのに疲れているが爽快な気分だ。

自己認知100%は自分にとっての認知であり、そこにあるのは外界からの刺激や情報を受け取った自分の世界のみです。

自分が相手を受け取っている意識があるために飲まれず、翻弄されにくい。

花瓶の美しさに見惚れて動けず、蝶々同士の戯れに喜びを感じ、「なんて平和なんだ」と感動している。

絵を描き始めたら集中して周りが見えず、トカゲが頭の上に乗っていても気づかない。

外界からの刺激を感受しながらも、実際にしているのは自分なりの感じ方に偏り、自分なりの見方に没頭し、自分なりの世界に入り込む過集中

蝶々の平和な風景の実情が、忌み嫌い合う熾烈な穢し合いであっても知ったことではなく、感動して泣いてすらいる。

感受性が強すぎると自己認知に極端に偏り、他を見ているけれども他者認識(他者側の目線や思考や認識)ではないため、そこに事実や現実はなかったりします。

あるのは常に、“自分にとっての事実”という世界。

他人のことはわかりっこないためこれもまた事実、一人の時はいいのですが、問題は対人関係。

自分側だけでなく相手側の認識も含めて事実・現実ができているため、自己認知に偏った世界で生きることは対人関係、社会性との適合によるトラブルや違和感を生みます

自分が問題を作っている可能性は見逃せません。

感受性が強すぎる人には、意識にフォーカスしているか、肉体にフォーカスしているかの違いがあります。

意識にフォーカスが強いと自分を俯瞰、客観視でき、知性が高くなりながら社会適合が難しく、地に足が付いていない、現実逃避、離人症など意識が肉体から離れた感覚ができます。

肉体にフォーカスが強いと感情と欲望に支配されやすく、食欲・性欲・物欲といった刺激欲求にハマり、変化を拒んで欲求発散で誤魔化すなど、知性のなさと怠惰が際立ちます。

 

直ぐに泣いていた私

なんでも
なんでも
自己認知100%の状態理解がわかりやすくなればと思うので、私の経験談をお伝えします。

私は今でも直ぐ泣きますが、中学校に入るまでは本当に泣いてばかりでした。

人のエネルギーを感じ取る性質があり、集団の中ではクラクラしてしまい、人の機嫌に左右されやすく、感情の起伏が激しかったです。

ネガティブなことだけではなく、その日が青空だったら私は幸せでしようがなく、夕空の藍色やピンク色の雲を見ては日々感動し、一人でウルウル泣いていました。

自己認知100%に偏る感受性の強さは集中力、想像力、創造性を初め、感度が極めて高く鋭敏です。

一つの世界、例えば一凛の花に見惚れ続けることができ、一人であるほどに[自分:対象物]の感受を謳歌し、強い拒絶も強い同情も両方起きます。

卵焼きを食べて目を瞑れば、黄色のローリングとトランペットのワンダーミュージックが鳴り響き、小さな卵焼き達が盆踊りしている横をターザンのようにウラーラーしながら微笑みます。

感度が高いと幸福度も高まり、認知で遊ぶ豊かな世界にいられます。

これを社会的に表現すると、自己中心的な認識です。
※自分勝手な自己チューのことではありませんが、肉体にフォーカスが強い場合は自己チューになる

これでもかというほど自分を中心にして、周りを取り込むように受け取るように感受すると、嫌な感じがあれば恐れ、心地いい感じがあれば幸せになります。

自分だけを中心にするほど緊張もしやすく、恥ずかしいと思いやすく、自意識が強まり、不安と恐れが強まり、人前でも怖さが優位を得て泣きます。

とにもかくにも感受性が強すぎると起きるのは、自己世界に浸って周りを認識しない、そしてそれに気づきにくいこと。

周りを感じ取っても認識しないと、相手側のリアルではなく、自分側からした相手側という想像や決め付けになります。

この認知を肯定すると感受性は留まることを知りません。

同時に、否定すると恐怖心が強まり、自意識や自己愛がより強まるので感受性はさらに強まり、制御できなくなる可能性もあります。

「感受性が強すぎるとは何なのか?」

この答えは、気付けば自分がいない、気付けば自分しかいない、そんな極端な自己を見出す在り方だと考えます。

一方、幸も不幸も感じやすい楽しい在り方にもなります。

 

最重要:感受性は要コントロール

自己認知100%は生きづらさではなくなるため、「私は私の道を行く、わかってくれる人が一人でもいればそれでいい」という考えもありだと思います。

それも大切なので、ここではさらにプラスして、精神的に自らを育みたい方へ向けた考え方をお伝えします。

なんでも
なんでも
感受性は扱いが欠かせません。

とにもかくにも強すぎる弊害は、“感受に翻弄される”ことに起因します。

『いかに翻弄されないようになれるか』

コントロールがないと自分が自分に翻弄されることになり、感覚過敏や自意識過剰、ナルシシズム、適応障害、メンタル不具合や精神疾患に繋がる可能性があります。

生きづらさになりながら、苦行、矛盾、抑圧、彷徨い、機能不全、才能撲滅、能力放棄。

コミュニケーション力が育まれず、自暴自棄になったり、人によっては周囲や社会のせいにして正当化という方法もできます。

何より気付かぬ内に感受に翻弄されると、自分の意見がない、言わない、ないのにあるふりといった、他律が強まります。

・自己認知0%は他律で主体性がありません

・自己認知100%は自律で主体性がありながら、思い込みと決め付けの自覚が難しく、他者との不合致が増えます

感受性には自分が感じ受け取っている意識(認識)が大切です。

自分の肉体と心が“自分にとっての感じ”を受け取っている理解が大切です。

“自分にとっての感じ”は事実にも現実にもなり得ないため、「あくまで私はそう感じた」という解釈が欠かせません。

私自身、全校生徒の前でスピーチをした経験によって、明らかに私だけが緊張していると自覚でき、線引きが生まれ、感受の扱いが本格化したと思っています。

「この状況だから、この人たちが周りにいるから、感じさせられているから」ではなく、「自分が怖いと感じているんだ」と自覚することで私は感受の翻弄が減りました。

美しい光景を眺めて、感動して泣く、怖くて泣く、大いに泣きます。

けれども、翻弄されて泣くのではないため、「感受性が強くて本当によかった」と思えるようになります。

自らを操縦・使用している意識を持ち、肉体と心の感受を主体的にすると、翻弄されることによるアウトオブコントロールはなくなります。

 

感受性は吸収力と創造力になる

なんでも
なんでも
強すぎることでの弊害を感受性の扱いにて減らしていくと、自己認知0と100モードを活かせます。

これでもかというほど感受できると、才能や能力として活かせます。

感受性は吸収力そのものです。

他からの刺激を受け取るのが上手なのは、その世界を深く味わえるからこそ。

取り込み自分のものにする共感があり、自己認知を0にして他に意識を集中できるからこその吸収力。

同時に、創造力にもなります。

自己認知100は己に集中できるからこその自己世界構築と謳歌、網羅。

自分の絶対性であり、自己中心認識という自己チューとは別物の賜物。

他からの情報を自分なりに受け取るため、どんな食材を使おうが、誰に教えてもらおうが、コネコネしたら結局自分スタイルのパンができるみたいなもの。

なんせコネりが唯一無二、小指と人差し指しか使わない。

吸収力と創造力、両方を開花、育めるのが感受性が強い人です。

翻弄がなくなると余裕ができるため、自己認知から自己認識、そして他者側の目線になる他者認識という知性と寄り添いを含めた領域に広がっていきます。

 

注意点:選別必須

なんでも
なんでも
感受性が強すぎる状態は繊細、過敏など、刺激への抗体が弱まる懸念でもあります。

疲れやすい傷つきやすいのは、メンタルや心が弱いどうのではなく、刺激過多と許容オーバーによるものでもあり、心の防衛は欠かせません。

雑多な世の中、民度を考慮するべく国にいる場合、関わる人・場所・環境は選ぶ必要があり、関わってはならない人はたくさんいます。

その際、「この人は嫌だ、この会社はダメ」という評価判断での選別ではなく。

「私が選んだ」という責任の自覚が重要です。

失敗はつきもの、失敗なくして向上のある世界を私は知りません。

自らの行動、結果を自覚し、理想ではなく現実に目を向ける。

誰のせいにもできない状況を自分で作れるほど、感受性を扱うコントロール力にも繋がります。

選別するために自ら考え、感じ、選び、その結果も認める。

そういった自分の意思と自覚を持った選別が大切です。

 

最後に:感受性が強すぎる利点

生きづらい理由は感受性の強さではなく“扱い”にある、という考え方。

自らを操縦、使用するコントロールは、意識を肉体に宿している前提では欠かせない理解です。

肉体がなければ、意識は感じたものをただ感じ、反応し、終了で成り立ちます。

しかし、物質概念の三次元という環境、肉体があって事象や存在が構造されているため、まず自己コントロールがあります。

肉体と意識があるために客観視や俯瞰性ができ、自律ができ、責任というのも認識できます。

人によっては肉体のみにフォーカスし、感受性はそのまま感情と欲望へ直結。

感受性が強いからこそ欲に支配された煩悩奴隷となり、生きづらさも不安も感じることすらなく、知性に向かうこともありません。

ここでお伝えしたのは意識へのフォーカスが強く、感受性を肉体と統合しにくくなっている方です。

意識の高さがあり、私たちの前提環境である社会に生きていながら物質である肉体に合わせることを忘れると、違和感や不調和や不具合が起きます。

意識は本質ですが、肉体と心は本質に欠かせない媒体です。

感受性はあくまでアイテム、自分そのものではなく道具。

アイテムを肉体と心を通じて活かす意識があると、自分としての在り方、才能、能力が発揮されます。

吸収力、創造性を初め、自律、主体性、そして自律と主体性のない状態の両方があり、バランスを持てます。

0と100を両方持ってることほど心強いものはないと私は思っています。

感受性が強すぎると大変ではありますが、大変だからこその育みの先には大きな恩恵が待っていることと思います。

それでは、ありがとうございました。

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POSTED COMMENT

  1. ミカン より:

    感受性というものがすごく良く分かりました。
    ナイス言語化!!・:*+.\(( °ω° ))/.:+
    言語化すると自分の中の無意識が意識出来て、使える様になるんですよね!・:*+.\(( °ω° ))/.:+
    こんなに自分の感情や、思考、身体と自分との繋がりを言語化してるサイトは無いですよ!
    おまけに、それプラス社会や自分以外の他との関わりまで言語化してくれてるので、本当に為になります!!
    ありがとうございます🙏

    • 北斗 より:

      とても何よりです♪
      有難いお言葉、ありがとうございます。
      ぜひ、ご活用ください。

  2. ⭐︎ より:

    おはよ〜^^
    ありがとう北斗さん、早速参考にしました♪
    あくまでも。っていうのは大切だよね
    少し言葉を付け加えるだけで、印象は変わるものだね。
    今日も良き1日を*・゜゚・*:.。..。.:*・’ぽいーん

    • 北斗 より:

      こんにちは♪
      参考になってよかった。
      うん、「あくまでも」はとても有意義で活用的だね。

      ありがとう^^
      素敵な一日をね。

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